都市伝説・不可思議情報ファイル

    2016年04月

    1 目覚め  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2010/12/17(金) 23:26:24ID:1sx/PKqt0
    大学一回生の冬だった。 
    そのころアパートで一人暮らしをしていた俺は、寝る時に豆電球だけを点けるようにしていた。 
    実家にいたころは豆電球も点けないことが多かったが、アパートでは一つだけあるベランダに面した窓に厚手のカーテンをしていて、夜はいつもそれを隙間なく締め切っていた。 
    だから豆電球も消していると、夜中目が覚めた時に完全に真っ暗闇になってしまい、電球の紐を探すのも手探りで、心細い思いをすることになるのだ。それが嫌だったのだろう。 
    ある夜いつものように明かりを落とし、豆電球だけにしてベッドに倒れ込んで、眠りについた。夜中の十二時くらいだったと思う。 
    それからどれくらい眠っただろうか。 
    意識の空白期間が突然終わり、頭が半分覚醒した。目が開いていることで自分が目覚めたことを知る。 
    あたりは夜の海の底のように静かだ。天井の豆電球が仄かに室内を照らしている。何時くらいだろうか。 
    壁の掛け時計を見る。眼鏡がないと針がよく見えない。
    短針が深夜の三時あたりを指しているようにも見えるが、枕元のどこかにあるであろう眼鏡を探すのもおっくうだった。
    頭は覚めていても身体はまだ命令を拒んでいる。 
    ぼんやりと、どうして目が覚めたのか考える。 
    電話や目覚まし時計の音が鳴っていた痕跡はない。尿意もない。
    最近の睡眠パターンを思い出しても実に規則的で、こんな変な時間に目が覚める必然性はなかった。 
    いつも割と寝つきは良く、夜中に何度も目が覚めるようなことはなくて、朝までぐっすりということが多かったのだが…… 
    それでもたまにあるこんな時には、得体の知れない恐怖心が心の奥底で騒ぐのを感じる。 
    理由はない。あるいは無防備に意識を途絶えさせることに対する原初的な恐怖、ただ夜が怖い、というその本能が蘇るのかも知れない。 
    ベッドで仰向けのままもう一度眠ろうとして目を閉じる。 
    深く息をつくと、まどろみは自分のすぐ下にあった。 

    翌日師匠に会った時に、ふと思いついたことを言ってみた。オカルトに関して師と仰いでいる人だ。 
    「目が覚めるとき、目を開けようと思ったかどうか、ねえ」 
    師匠はさほど面白くもなさそうに繰り返した。 

    953 目覚め  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2010/12/17(金) 23:29:51ID:1sx/PKqt0
    「ええ。昨日の夜中に急に目が覚めて思ったんですけど。目を開ける前に先に意識が覚醒していて、その覚醒した意識で『目を開けよう』と思っているのか、それとも目を開けた瞬間に意識が覚醒しているのか。どっちなのかと思いまして」 
    どっちでもいいんじゃない、という顔をしたが一応考えているようだ。 
    「個人的には目を閉じたまま『あ、今夢から醒めた』と思ったことはないなあ。でも人によるんじゃない?」 
    「脳のどこかの反射で目が開いて、その目が開いたことで意識が覚醒する、とか」 
    「さあねえ。でもそれなら目が見えない人はどうなるんだ」 
    そうか。そういう人たちは夢から覚めても暗闇の中だ。つまり目が覚める切っ掛けは視覚的なものではない。 
    でも普段視覚に頼っている自分たちが、その視覚を塞がれていたらどうだろうか。
    眼球が外気に触れないように完全にテープか何かで開かないようにしてから眠ってみると、目が覚める瞬間はどのように知覚されるのか? 
    考えていると興味が湧いて来て、今度試してみようと思った。 
    「目が開くことが覚醒の切っ掛けなら、ずっと目覚めないかもよ」 
    師匠がいやらしいことを言う。でも、それはそれで面白いと思う自分がいた。 
    「でも」と、師匠が言葉を切り、そして何気ない口調で続けた。 
    「普段熟睡できている人が、夜中急に目が覚める理由なら知っている」 


    その冬休みに、俺は実家に帰省した。洗濯や食事の準備などしなくて済むという実家の有りがたさを味わう日々だった。 
    ある夜、自分にあてがわれていた和室に布団を敷いて寝ていると、夜中に目が覚めた。 
    天井に木目が薄っすらと見える。豆電球に照らされているのだ。だんだんはっきりしていく頭で、ここがアパートではなく実家だったことを思い出す。 
    また目が覚めてしまった。ここしばらくはなかったのに。 
    頭を動かすのもめんどくさくて、眼球だけで周囲を見回す。すべて布団に入った時のままだ。
    俺が家を出たのを幸いに家族が荷物を放り込み、ちょっとした物置状態になっている。 
    そのごちゃごちゃした衣装ケースや段ボール、使わなくなった棚などが、時が止まったようにひっそりとたたずんでいる。 
    それを見るともなしに見ていると、自分の中に、ある感情が湧いてくるのを感じる。 
    まただ。 


    954 目覚め  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2010/12/17(金) 23:36:31ID:1sx/PKqt0
    どこからともなくやってくる、正体の分からない恐怖心。なにが、ではなく、ただ、怖い。 
    そんな時は枕元の眼鏡を探したくない。何かが見えてしまうよりも、ぼんやりとした夜の海の底の世界の方がまだましだった。 
    しかし次の瞬間、師匠の言葉が脳裏に蘇る。 
    『夜中急に目が覚める理由なら知っている』 
    ………… 
    確かにそう言った。 
    夜中に目が覚めて、どうして目覚めたのか分からない時がある。
    レム睡眠とノンレム睡眠の繰り返しの中で、目が覚めやすい時間があるのか、あるいは自分でも気づいていない疲れで、眠りが浅くなることもあるのかも知れない。 
    しかし師匠はこう言うのだ。 
    『夜中に急に目が覚めるのは、家の外に誰かが訪ねてきているからだよ』 
    その言葉には、世の中の目に見えない真理を照らしているかのような妖しい響きがあった。 
    布団の中で固まったまま、呼吸が少し早くなる。 
    静かだ。 
    何時くらいだろう。壁の時計は部屋の奥だ。豆電球の明かりでは暗くて見えない。 
    師匠の言葉の意味を考える。 
    誰かが家の外にきている。だから目が覚める。 
    そんなことを考えたこともなかった。夜中目が覚めても、理由がなければまた眠るだけだ。わざわざ外を見に行くこともなかった。 
    なのに。 
    心臓の音が体内に響く。布団が重い。のしかかるように。 
    俺はゆっくりと身体を起こす。眼鏡はすぐそばにあった。空気が粘りつくように部屋を覆っている。 
    恐怖心。 
    いつもの、ただ夜を恐れる原初的なものではない。もっと、なにか、忌わしいもの。 
    ゆっくりと立ち上がり、摺り足で畳の軋む音を聞く。 
    キシ……キシ……キシ…… 
    庭に面した窓のあたりは板張りになっている。窓に掛かった重いカーテンが外と、内とを閉ざしている。 
    息をのんで、そっとカーテンの生地を掴む。窓の端から外を覗き込む。 



    957 目覚め ラスト  ◆oJUBn2VTGE ウニ 今夜は終わりです 2010/12/17(金) 23:43:28 ID:1sx/PKqt0
    一瞬、窓ガラスの表面から夜の冷気が流れてくる。吐く息でガラスが白く曇った。 
    パジャマの袖でそれを拭うと、ささやかな庭と植木、そしてブロック塀の向こうの道路が見える。
    寝静まる住宅街。豆電球の暗い黄色の明かりとは違う、細い針のような月の光が、かすかにそれらを照らしている。 
    庭を横断する石畳の筋。それを囲む背の低い芝生。その向こうに玄関の門。 
    誰かいる。 
    冷たく高まる鼓動を聞きながら、ガラスに顔を近づける。冷たい空気が頬を撫でた。 
    門の石柱の前に立たったまま、チャイムを鳴らすでもなく、庭に入り込もうとするでもなく、その誰かは身動き一つしない。 
    『夜中に急に目が覚めるのは、家の外に誰かが訪ねてきているからだよ』 
    ………… 
    一度も外を覗いたことはなかった。 
    本当はその度ごと、こんな風に誰かが外に立っていたのだろうか。 
    吐く息が冷たい。身体中が悪寒に震えている。 
    雲の切れ間が変わったのか、一瞬、その誰かの顔を冴えざえとした月光が浮かび上がらせた。 
    虚ろな顔。男。覚えはないが、なぜか懐かしい。 
    そう言えば小学校の同級生に、似た顔の子がいたような気がする。大きくなればこんな顔だろうか。 
    男は月の光に怯えたように顔をゆっくりと左右に振る。そして後ろを向くと肩を落として歩み去って行った。闇の中へ。
    消え入るように。近くの森に棲む山鳩の、ほうほう、という声が聞こえる。 
    自分が眠ってさえいれば、そして寝床から出さえしなければ、誰も知らなかったはずの光景が、そうして終わった。 
    カーテンを戻し、窓際を離れてもう一度布団に向かう。 
    知らなくていいことは、知らずにいよう。 
    そう思った。 

    1 土の下   ◆oJUBn2VTGE ウニ 今夜は終わり2010/09/26(日) 21:20:36 ID:Lt8tjlVs0
    師匠から聞いた話だ。 


    大学一回生の春。僕は思いもよらないアウトドアな日々を送っていた。
    それは僕を連れ回した人が、家でじっとしてられないたちだったからに他ならない。 
    中でも特に山にはよく入った。うんざりするほど入った。 
    僕がオカルトに関して師匠と慕ったその人は、なにが楽しいのか行き当たりばったりに山に分け入っては、獣道に埋もれた古い墓を見つけ、手を合わせる、ということをライフワークにしていた。 
    「千仏供養」と本人は称していたが、初めて聞いた時には言葉の響きからなんだかそわそわしてしまったことを覚えている。 
    実際は色気もなにもなく、営林所の人のような作業着を着て首に巻いたタオルで汗を拭きながら、彼女は淡々と朽ち果てた墓を探索していった。 
    僕は線香や落雁、しきびなどをリュックサックに背負い、ていの良い荷物持ちとしてお供をした。 
    師匠は最低限の地図しか持たず、本当に直感だけで道を選んでいくので何度も遭難しかけたものだった。 
    三度目の千仏供養ツアーだったと思う。少し遠出をして、聞きなれない名前の山に入った時のことだ。 
    山肌に打ち捨てられた集落の跡を見つけて。師匠は俄然張り切り始めた。「墓があるはずだ」と言って。 
    その集落のかつての住民たちの生活範囲を身振り手振りを交えながら想像し、地形を慎重に確認しながら「こっちが匂う」などと呟きつつ山道に分け入り、ある沢のそばにとうとう二基の墓石を発見した。 
    縁も縁もない人の眠る墓に水を掛け、線香に火をつけ、持参したプラスティックの筒にしきびを挿して、米と落雁を供える。 
    「天保三年か。江戸時代の後期だな」 
    手を合わせた後で、師匠は墓石に彫られた文字を観察する。苔が全面を覆っていて、文字が読めるようになるまでに緑色のそれを相当削り取らなくてはならなかった。 
    「見ろ。端のとこ。欠けてるだろ」 
    確かに墓石のてっぺんの四隅がそれぞれ砕かれたように欠けている。 


    733 土の下   ◆oJUBn2VTGE ウニ 終わりではないです。オートコンプリートのせい。 2010/09/26(日) 21:22:29 ID:Lt8tjlVs0
    「地位や金銭に富んだ人の墓石の欠片をぶっかいて持っていると、賭けごとにご利益があるらしいぞ」 
    師匠はポシェットから小ぶりなハンマーを取り出してコツコツと、欠けている端をさらに叩きはじめた。 
    「ここは土台もしっかりしてるし、石も良い物みたいだ。きっと土地の有力者だったんだろう」 
    「でも、いいんですか」 
    見ず知らずの人の墓を勝手に叩くなんて。 
    「有名税みたいなもんだ。あの世には六文しか持って行けないんだから、現世のものは現世に、カエサルのものはカエサルに、だ」 
    適当なことを言いながら師匠は大胆にもハンマーを振りかぶり、砕けて落剥したものの内、ひときわ大きな欠片を「ほら」と僕にくれた。 
    気持ちの悪さより好奇心の方が勝って、僕はそれを財布の中に収める。
    やがて夏を迎える頃にはそんな石で財布がパンパンになろうとは、まだ思ってもいなかった。 
    「もっと古いのもあるかも」 
    師匠はその二基の墓を観察した結果、少なくともその先代も負けず劣らずの有力者であり、その墓が近くに残っている可能性があると推測し、再び探索に入った。 
    しかしこれが頓挫する。 
    日が暮れかけたころ、沢に向けてかつて地滑りがあったと思われる痕跡を見つけただけで終わった。
    そこに墓があったかどうかは定かではない。 
    師匠は悔しそうな顔をして地滑りの跡をじっと見つめていた。 
    その時だ。僕と師匠の立っている位置のちょうど中間の地面の落ち葉が鈍い音と共にパッと宙に舞った。
    驚いてそちらを見ると、続けざまに自分の足元にも同じ現象が起きた。 
    「痛」 
    師匠が右のこめかみのあたりを手で押さえる。 
    石だ。石がどこかから飛んできている。気づいてすぐに周囲を見渡すと、果たして犯人はいた。 
    沢の向こう岸の斜面に猿が一匹座っている。こちらの視線に気づいて、歯茎を剥き出して唸っている。
    怒っているというより、せせら笑っているような様子だった。 
    そして地面から手ごろな石や木片を掴むと力任せにこちらに投げつけてくる。遊んでいるというには強烈な威力だ。
    小さなニホンザルと言っても木から木へ両手だけで移動できる腕力だ。 

    736 土の下   ◆oJUBn2VTGE ウニ 終わりではないです。オートコンプリートのせい。 2010/09/26(日) 21:27:04 ID:Lt8tjlVs0
    僕は身の危険を感じて逃げ出そうとした。 
    しかし師匠は一言「痛いんだけど」と口にすると、次の瞬間、沢へ向かって駆け出した。 
    「なんだお前はこらぁ」と叫びながら斜面を滑り降り、ズボンが濡れるのも構わずバシャバシャと水をはねながら沢を渡り始める。 
    止める暇などなかった。 
    猿のイタズラにブチ切れた師匠が相手を襲撃するという凄い絵面だ。 
    猿も沢の向こう側の安全地帯から一方的に人間を攻撃しているつもりが一転、身の危険を感じたのか、掴んでいた石を投げ捨てて威嚇するような奇声を発した後、斜面を登って木立の中へ逃げ込んだ。 
    師匠も負けじと奇声を発しながら沢を渡り切り、斜面を駆け上って木立の中へ飛び込んでいった。 
    僕は思わずその斜面の上を見上げるが、鬱蒼と茂った木々が小高くどこまでも続いている。
    猿を追いかけて獣道もない山の奥へ分け入るなんて、正気の沙汰じゃない。 
    止めるべきだったと思ったがもう遅い。師匠の名前を呼びながら、戻って来るのをただ待っているしかなかった。 
    猿なんだぜ。猿。 
    そんなことを呆然と再確認する。素手の人間が山で猿を追いかけるなんてありえないと思った。 
    それにあんな深い山の道なき道を走るなんて、崖から落ちたり尖った竹を踏み抜いたり、考えるだに恐ろしい危険が満載のはずだった。 
    自分も沢を渡り、居ても立ってもいられない気持ちでうろうろと周囲を歩き回り続け、小一時間経った頃、ようやくガサガサと斜面の向こうの茂みが動き、師匠が姿を現した。 
    全身に小枝や葉っぱが絡みついている。 
    バランスを取りながら斜面を滑り降りる様子を見た瞬間に、僕は「大丈夫ですか」と言いながら近づいていった。 
    師匠は「逃げられた」と言って顔をしかめている。 
    何度か転んだのか服は汚れ、顔にも擦り傷の痕があった。
    しかし右腕を見た時には、思わず「だから言ったのに!」と言ってもいないことを非難しながら駆け寄った。 
    師匠は暑いからと上着の袖を捲り上げていたのだが、その剥き出しの右腕の肘から下にかけてかなりの血が滴っているのだ。 
    新しいタオルをリュックサックから取り出してすぐに血を拭き取る。
    師匠はその血に気づいてもいないような様子で、いきなり手を取った僕を邪険に振り払った。 

    738 土の下   ◆oJUBn2VTGE ウニ 2010/09/26(日) 21:30:33ID:Lt8tjlVs0
    「なんだおい。大丈夫だよ」 
    「大丈夫なわけないでしょう」 
    とにかく傷の様子を確かめようと、もう一度無理やり腕を掴む。 
    あれ? 
    傷が…… 
    ない。 
    顔にもあるような擦り傷くらいしか。 
    呆然とする。 
    だったらこの血は? 
    拭ったタオルにはべっとりと血がついている。見間違いではない。 
    「大丈夫だって言ってるだろ」 
    師匠は乱暴に腕を振り払うと捲り上げていた袖を元に戻し、沢を渡り始めた。 
    僕はしばらくタオルの血と師匠の背中を見比べていたが、やがて「見なかったことにしよう」と結論付けて手の中のタオルを投げ捨てた。考えるだに恐ろしいからだ。 
    そして「待ってください」とその背中を追いかける。 

    師匠はまだまだやる気満々で、それから日が完全に暮れるまでにさらに二箇所で墓を発見した。 
    山歩きに慣れた人の後ろをついて行くだけで僕は息が上がり、「もう帰りましょう」と何度も訴えたが、そんな言葉など無視して「こっちだ」と道なき道を迷わず進まれると、溜め息をつきながら追いすがらざるを得ないのだった。 
    山道の傍で見つけた最後の墓は墓名もなく、小さめの石を二つ重ねただけのもので、そうと言われなければ気づかなかったに違いない。 
    師匠は手を合わせたまま呟いた。 
    「こんな小さなみすぼらしい墓を見るとさ、なんか嬉しくなるな」 
    「なぜです」 
    意外な気がした。 
    「金が無かったのか、縁が無かったのか…… もしかしたら名前も付けられないまま死んだ子どもだったのかも知れない」 
    「きちんとした墓を建ててもらえなかった人のことが、なぜ嬉しくなるんです」 
    師匠は静かに顔を上げる。 


    739 土の下   ◆oJUBn2VTGE ウニ 2010/09/26(日) 21:34:41ID:Lt8tjlVs0
    「それでも、その人がいたという証に、こんな小さな墓が残っている」 
    苔むした石の台座に線香が二本。煙がゆったりと立ち上っている。師匠は腕を伸ばし、線香に水を掛けた。 
    「こうして手を合わせる人だって、気まぐれにやってくる」 
    さあ、帰ろうかと言って立ち上がった。僕も慌ててリュックサックから出したものを片付ける。 
    帰り道は真っ暗で、持参していた懐中電灯をそれぞれ掲げた。来た時とは違う道だ。師匠は近道のはずだと言う。 
    足元にも気を付けつつ、師匠の背中を見失わないように見通しの悪い下り坂を慎重に歩いたが、心はさっきの小さな墓に繋ぎ止められていた。 
    (その人がいたという証か……) 
    死は死を死なしむ、という言葉がふいに浮かんだ。誰かの詠んだ歌だったか。 
    人が死ぬということは、その人の心の中に残っているかつて死んだ近しい人々の記憶がもう一度、そして永遠に揮発してしまうということだ、という意味だったと思う。 
    さっきの墓の主も、きっともうなんの記録にも、そして誰の記憶にも残っていないだろう。 
    それでも石は残る。 
    その意味を考えていた。 
    ぼうっとしていると、師匠の声が遠くから聞こえた。 
    「おい」 
    我に返ると、師匠が道の途中で立ち止まり、藪の切れた脇道の方に懐中電灯を向けていた。 
    「どうしたんです」 
    横顔が心なしか緊張しているように見える。 
    「自殺だ」 
    「えっ」 
    驚いて駆け寄る。 
    草が生い茂り、一見しただけは道だと思わないような場所に、誰かが通ったような痕跡が確かにある。 
    踏まれて倒れた草の向こうに懐中電灯を向ける。師匠と僕の二つの光が交差し、照らし出される先には宙に浮かぶ人影があった。 
    首吊りだ。 
    思わず生唾を飲み込む。 
    窪地の木の下に人がぶらさがっている。 

    740 土の下   ◆oJUBn2VTGE ウニ 2010/09/26(日) 21:38:32ID:Lt8tjlVs0
    ガサリと音がして、横にいた師匠がそちらに向い動き出す。止める間もなかった。 
    僕は一瞬怯んだ。ひと気のない夜の山中に、人の形をしたものが人工の明かりに照らされて空中にある、ということがこれほど怖いものだとは。 
    まだしもぼんやりとした霊体を見てしまったという方がましな気がした。 
    それでも師匠の背中を追って足を踏み出す。軽い下り坂になっている。
    青っぽいポロシャツにジーンズという服装がほぼ正面に現れる。その姿が後ろ向きであることに少しホッとした。 
    さらに坂を下り近づいて行くと、かなり高い位置に足があることに気づく。背伸びをしても靴に手が届かない。 
    死体のベルトの位置に、張り出した枝が一本。きっとあそこまで木登りをして枝に足をかけた状態から落下したのだろう。 
    恐れていた匂いはない。春とはいえこの気温の高さだから、二、三日も経っていれば腐敗が進んでいるはずだ。
    首を吊ってからそれほど時間が経っていないのかも知れない。 
    だがシャツから出ている手は嫌に白っぽく、血の通った色をしていなかった。 
    師匠は前に回り込んで、首吊り死体の顔のあたりに懐中電灯を向けている。そして「おお」という短い声を発して気持ち悪そうに後ずさった。 
    僕は同じことをする気にはなれず、その様子を見ているだけだった。 
    やがて一頻り死体を観察して満足したのか、師匠は変に弾んだ足取りでその周囲をうろうろと歩き回り始めた。 
    「下ろしてあげた方がいいでしょうか」 
    僕はそう言いながらも、あの高さから下ろすのはかなり難しそうだと考えていた。
    高枝切バサミかなにかでロープを切るしかなさそうだ。 
    「まあ待てよ」 
    師匠はなにか良からぬことを企んでいるような口調で、腰に巻いたポシェットの中を探り始めた。 
    さっきまで見ず知らずの人の小さな墓に手を合わせていた人間と同一人物とは思えない態度だ。
    この二面性が、らしいといえばらしいのだが。 
    「お、偉い、自分。持ってきてた」 
    おもちゃの様な小さなスコップが出てきた。師匠はそれを手に首吊り死体の真下のあたりにしゃがみ込む。 
    そして右手にスコップを振りかざした状態でくるりと首だけをこちらに向ける。 
    「面白いことを教えてやろう」 

    742 土の下   ◆oJUBn2VTGE ウニ 2010/09/26(日) 21:45:27ID:Lt8tjlVs0
    その言葉にぞくりとする。腹の表面を撫でられたような感覚。 
    ズクッ、と土の上にスコップが振り下ろされる。落ち葉ごと地面が抉られ、立て続けにその先端が土を掘り返していく。 
    「こんぱくの意味は知っているな」 
    手を動かしながら師匠が問い掛けてくる。 
    魂魄? たましいのことか。 
    確か『魂(こん)』の方が心というか、精神のたましいのことで、『魄(はく)』の方は肉体に宿るたましいのことだったはずだ。 
    そんなことを言うと、師匠は「まあそんな感じだ」と頷く。 
    「中国の道教の思想では、魂魄の『魂』は陰陽のうちの陽の気で、天から授かったものだ。
    そして『魄』の方は陰の気で、地から授かったもの。どちらも人が死んだ後は肉体から離れていく。だけどその向かう先に違いがある」 
    口を動かしながらも黙々と土を掘り進めている。僕はその姿を、少し離れた場所から懐中電灯で照らしてじっと見ている。
    師匠の頭上には山あいの深い闇があり、その闇の底から人の足が悪い冗談のようにぶらさがって伸びている。 
    寒気のする光景だ。 
    「天から授かった『魂』は、天に帰る。そして地から授かった『魄』は地に帰るとされている。
    現代の日本人はみんな、人が死んだあとに、たましいが抜け出て天へ召されていくというテンプレートなイメージを持っているな。貧困だ。実に」 
    なにが言いたいんだろう。ドキドキしてきた。 
    「別に『人間の死後はこうなる』ってハナシをしたいんじゃないんだ。ただ、経験でな。何度かこういう首吊り死体に出くわしたことがあるんだ。そんな時、いつもある現象が起こるんだよ。それがなんなんだろうと思ってな」 
    スコップを振る腕が力強くなってきた。 
    「同じ首吊りでも室内とか、アスファルトやらコンクリの上だと駄目なんだよな。だけどこういう……土の上だと、たいてい出てくるんだ。死体の真下から」 
    ひゅっ、と息が漏れる。 
    自分の口から出たのだとしばらくしてから気づく。さっきまで汗にまみれていたのが嘘のように、今は得体の知れない寒気がする。 
    「お。出たぞ。来てみろ」 
    師匠がスコップを放り投げ、地面に顔を近づける。 

    743 土の下   ◆oJUBn2VTGE ウニ 2010/09/26(日) 21:49:21ID:Lt8tjlVs0
    なんだ。なにが土の下にあるというのだ。 
    動けないでいる僕に、師匠は土の下から掬い上げたなにかを右の手のひらに乗せ、こちらに振り向くや、真っ直ぐに鼻先へつきつけてきた。 
    茶色っぽい。なにかとろとろとしたもの。指の隙間からそれが糸を引くようにこぼれて落ちていく。 
    「なんだか分かるか」 
    口も利けず、小刻みに首を左右に振ることしかできない。 
    「私にも分からない。でも、首吊り死体の下の地面にはたいていこれがある。
    これが場所や民族、人種を超えて普遍的に起こる現象ならば、観察されたこれにはなにか意味があるものとして理由付けがされただろうな。……例えば、『魄』は地に帰る、とでも」 
    とろとろとそれが指の間からしたたり落ちていく。まるで意思を持って手のひらから逃れるように。 
    「日本でもこいつの話はあるよ。『安斎随筆』だったか、『甲子夜話』だったか……
     首吊り死体の下を掘ったらこういうなんだかよく分からないものが出てくるんだ」 
    師匠は左目の下をもう片方の手の指で掻く。 
    嬉しそうだ。尋常な目付きではない。 
    僕は自分でも奇妙な体験は何度もしたし、怪談話の類はこれでも結構収集したつもりだった。なのにまったく聞いたこともない。
    想像だにしたことがなかった。首吊り死体の下の地面を掘るなんて。 
    なぜこの人は、こんなことを知っているんだ。 
    底知れない思いがして、恐れと畏敬が入り混じったような感情が渦巻く。 
    「ああ、もう消える」 
    手のひらに残っていた茶色いものは、すべて逃げるように流れ落ちてしまった。
    手の下の地面を見ても、落ちたはずのその痕跡は残っていない。どこに消えてしまったのか。 
    「地面から掘り出すと、あっと言う間に消えるんだ。もう土の下のも全部消えたみたいだ」 
    師匠はもう一度スコップを手にして土にできた穴の同じ場所に二、三度突き入れたが、やがて首を振った。 
    「な、面白いだろ」 
    そう言って師匠が顔を上げた瞬間だ。 
    強い風が吹いて窪地の周囲の木々を一斉にざわざわと掻き揺らした。思わず首をすくめて天を仰ぐ。 

    745 土の下  ラスト  ◆oJUBn2VTGE ウニ 今夜は終わりです 2010/09/26(日) 21:55:09 ID:Lt8tjlVs0
    ハッとした。 
    心臓に楔を打ち込まれたみたいな感覚。 
    地面に向けている懐中電灯の明かりにぼんやりと照らされて、宙に浮かぶ首吊り死体の足先が見える。 
    朽ちたようなジーンズと、その下の履き古したスニーカーが先端をこちらに向けている。
    さっきまで、死体は背中を向けていたはずなのに。 
    懐中電灯をじわじわと上にあげていくと、死体の不自然に曲がった首と、俯くように垂れた頭がこちらを向いている。 
    髪がボサボサに伸びていて、真下から覗き込まないと顔は見えない。 
    風か。風で裏返ったのか。 
    背筋に冷たいものが走る。 
    首を吊ったままの身体は、その手足が異様に突っ張った状態で、頭部以外のすべてが真っ直ぐに硬直している。 
    風でロープが捩れたのなら、また同じように今度は逆方向へ捩れていくはずだ。 
    そう思いながら息を飲んで見ているが、首吊り死体は垂直に強張ったまま動く気配はなかった。 
    その動く気配がないことが、なにより恐ろしかった。 
    僕の感じている恐怖に気づいているのかいないのか、師匠はこちらを向いたまま嬉々とした声を上げる。 
    「どっちだろうな」 
    そう言ってニコリと笑う。 
    どっちって、なんのことだ。天を仰いでいた顔をゆっくりと師匠の方へ向けていく。首の骨の間の油が切れたようにギシギシと軋む。 
    「誰かが首を吊って死んだから、さっきのへんなものが土の下に現れるのか。それとも……」 
    師匠はそう言いながら自分の真上を振り仰いだ。そして頭上にある死体の顔のあたりを真っ直ぐに見る。
    視線を合わせようとするように。 
    「あれが土の下にあるから、人がここで首を吊るのか」 
    なあ、どっちだ。 
    そう言って死体に問い掛ける。 
    肩が手の届く位置にあれば、親しげに抱いて語り掛けるような声で。 

    1 デス・デイ・パーティ ◆oJUBn2VTGE ウニ2010/09/12(日) 00:06:19 ID:eR8sQKUR0
    大学一回生の冬。
    俺は当時参加していた地元系のオカルトフォーラムの集まりに呼ばれた。
    いや、正確には見逃していたのかそのオフ会の情報を知らず、家でぼーっとしていたところに電話がかかってきたのだ。 
    「来ないのか」 
    京介というハンドルネームの先輩からのありがたい呼び出しだった。
    俺は慌てて身支度をして家を飛び出す。時間は夜八時。
    向かった先はcoloさんというそのフォーラムの中心的人物のマンションで、これまでも何度か彼女の部屋でオフ会が開かれたことがあった。 
    ドアを開けると、もうかなり盛り上がっている空気が押し寄せてくる。 
    「お、キタ。キタよ。はやく。こい。はーやーく」 
    みかっちさんという女性がかなりのテンションでこちらに手を振っている。
    部屋の中にはすでに五人の人間がいて、それぞれジュースをテーブルに並べたり、壁にキラキラしたモールをかけたりしていた。 
    そしてテーブルの真ん中にはいかにもお誕生日会でございますという風体のケーキが鎮座していて、そのホワイトクリームの表面にはチョコレートソースで「colo」と書いてあるのだ。 
    なんだ。coloさんの誕生日パーティなのか。いつもは降霊会なんておどろおどろしいことをしているオフ会なのに、今日はずいぶん可愛らしいな。と思ったが、やがてこの人たちを甘く見ていたことを思い知ることになる。 
    用意されていたローソクがケーキの上に立てられて行くのをcoloさんは一番近い席でじーっと見ている。
    あいかわらずよく分からない表情だ。嬉しそうにしてればいいのに。 
    やがてローソクをすべて並べ終え、「じゃあ始めよっか」というみかっちさんの一言で部屋の電気が消された。 
    暗くなった部屋の中で、真ん中のテーブルのあたりに水滴のような形の光が仄かに揺れている。無意識に数えた。
    ひとつふたつみっつ…… 
    あれ? 目を擦る。ゆらゆらとしている火の数が、何度数えてもおかしい。十六個しかないのだ。
    coloさんは同じ大学の三回生で、その誕生日なのだから二十一個より少ないということはないはずだ。 
    よく見ると真ん中に一つだけ大きなローソクがあるから、もしかしてそれが十歳分とか五歳分なのかも知れないが、それでも数が合わない。五歳分だとしても十五足す五で、二十歳にしかならない。 
    六歳分? そんな半端な数にするだろうか。 
    考えていると、歌が始まってしまった。以下、聞いたまま記す。 

    421 デス・デイ・パーティ ◆oJUBn2VTGE ウニ2010/09/12(日) 00:09:45 ID:JDXpPZZg0

     はっぴですでいつーゆう 
     はっぴですでいつーゆう 
     はっぴでーすでいでぃあcoloちゃん 
     はっぴでーすでいつーゆう 

    は? なんだそれ。「ハッピー・デス・デイ・トゥー・ユウ」だって? 
    俺は混乱する。誰かのクスクスという忍び笑いが聞こえる。 
    「け、消して。coloちゃん。ローソク。消して」 
    みかっちさんが吹き出しそうになるのをこらえながら言う。 
    「うん」という声がして、coloさんが真ん中の大きなローソクの火に息を吹きかける。フッと一つの火だけが消える。 
    わずかな静寂の後、「おめでとー」という声が重なってパチパチという拍手が響いた。そして電気がつけられる。 
    「デス・デイ、おめでとう。あと十五年!」 
    みかっちさんがそう言ったあと、お腹を抱えて笑い出した。 
    ケーキの上には火のついたままのローソクがまだ十五個残っている。なにがなんだか分からない俺は、ずっと硬直していた。 
    説明を聞くところによると、どうやらこういうことらしい。 
    coloさんは異常にカンが鋭い女性で、それはほとんど未来予知と言っていいようなレベルに達しているのだが、本人いわく危険度の高い情報ほど基本的には早期に知ることが出来るのだそうだ。 
    野良猫を撫でようとして引っ掻かれる時には二日前に。カラスに頭を突っつかれるときには三日前に、という具合だ。
    どうして彼女がカラスに頭を突っつかれなければならないのかよく分からないが、とにかくそういうことらしい。 
    そんな彼女にとって危険度マックスの情報とは、つまり自分の「死」である。彼女はその日時をすでに知っているというのだ。 
    それがバース・デイならぬデス・デイであり、今日十六個目のローソクの火が消えたといことは余命があと十六年を切ったということなのだろう。 
    なぜそんな日を祝うのか理解に苦しむが、親しい友人たちを呼んでデス・デイ・パーティを開くというのが昔からの慣習になっているのだそうだ。 
    祝えねーよ。 
    六等分に切り分けられるケーキを見ながら、そう突っ込みたくて仕方がなかった。 


    424 デス・デイ・パーティ ◆oJUBn2VTGE ウニ2010/09/12(日) 00:12:32 ID:JDXpPZZg0
    デス・デイ・パーティという恐ろしげな名前とは裏腹に楽しく場は進み、coloさんの手料理やケーキで腹を満たしつつ、「わたしも寿命しりたーい」などというみかっちさんの不謹慎な発言に「本当に知りたいの」というcoloさんの静かな答えが返り、 
    「あ、うそ」と黙り込んだりということもありながら、とうとう宴もたけなわというころになった。 
    「はい、じゃあこれからゲームをしましょう」 
    coloさんがそう言って手を叩いた。みんなが注目する。 
    「えーと。みんな、今日はわたしのデス・デイをお祝いしてくれてありがとう。そのお返しにスリリングなゲームを用意しました。
    とっても危ないゲームだけど、きっとみんなならクリアできるよ」 
    みかっちさん、京介さん、沢田さんという女性陣に、俺、山下さんという男性陣の合わせて五人がそれぞれ顔を見合わせる。 
    「これから問題を出すから良く聞いてね」 
    俺たちの目の前でcoloさんが白い紙を取り出し、マジックペンで数字を書き始めた。 
      
    X=1-1+1-1+1-1+1-1+1-1+1-1+ …… 

    なんだろう。1の間にマイナスとプラスが交互に入っている単純な数式だ。最後の点々はこれがずっと続くという意味か。 
    「この永遠に続く数式の解が実は三つあるの。その解Xを三つとも答えてね。ただし、一つでも間違えたらアウト。
    答えはみんなで相談して代表者が答えてね」 
    三つ? 三種類も解があるのか? 単純そうに見えて難しい問題なのかも知れない。 
    数式を覗き込みながらそう考えてると、coloさんがとんでもないことを付け加えた。 
    「もし答えられなかったら罰ゲームに、さっきみなさんが食べたケーキ。あれに下剤を入れちゃうよ」 
    はあ? 全員目を剥いた。意味が分からない。もう食べ終わったケーキに今から下剤を? 
    なんの冗談かと笑おうとした瞬間、以前体験した恐ろしい記憶が蘇ってきた。 
    種類の違うお札の入った箱を選べというゲームなのだが、coloさんが俺の選択をあらかじめ予知しているというのだ。
    結局現在進行形の行為が、過去に遡って影響を与えるという事象の不可解さに怖じ気づいた俺は白旗をあげてしまった。 
    そのゲームと同じ構造だというのか。 
    もしこの問題を答えられなかったら、その結果を予知した過去のcoloさんがケーキにこっそり下剤を仕込むということか。
    すでにケーキは食べ終わっているというのに! 

    425 デス・デイ・パーティ ◆oJUBn2VTGE ウニ2010/09/12(日) 00:16:40 ID:JDXpPZZg0
    味は? 変ではなかったか? 口に残ったケーキの余韻を確かめようとするが、やたらスパイシーだったチキンのおかげで完全に消えてしまっている。 
    「ちょっと、冗談でしょ。入れたの? 入れなかったの?」とみかっちさんが詰め寄る。他のみんなも真剣な表情に変わった。
    きっと多かれ少なかれ箱の時の俺と同じような経験をしているのだろう。 
    「答えたら面白くないじゃない。無理に喋らせようとしたら、失格ね」 
    ハッとしたようにみかっちさんが手を引く。 
    なんてこった。とんでもない事態だ。さっきまでの楽しいパーティはどこに行ってしまったのか。
    当事者のcoloさんは無表情で、なにを考えているのか分からない。 
    「はい、じゃあ、紙とえんぴつを支給します。頑張ってね」 
    配られたものを眺めながら、五人は「やるしかないのか」という顔になっていた。 
    「恨むわよcoloちゃん」というみかっちさんの言葉に、「スリルがあった方が楽しいでしょう」という脳天気な答えが返る。 
    そしてゲームが始まった。 
    とりあえず、無限に続くという部分に惑わされてはいけない。式を紙に書き出してからそう考える。単純化するのだ。 
    高校時代、数学の成績は酷かったが、ここは俺とみかっちさんの現役大学生コンビが頑張るしかない。
    そう思ってみかっちさんを見ると、沢田さんと二人で「最後がプラス1で終わるのかマイナス1で終わるのか」という論争をしている。
    いや、終わらないから。 
    みかっちさんを見限った俺は一人でやるしかないと気合いを入れた。山下さんも一応紙に向かっているが、あまり自信がなさそうだ。
    京介さんは初めからやる気がなく、煙草を吸いにベランダに出ていってしまった。 
    とりあえず俺は式を括弧で括り、単純化することにした。そうすると一つめの答えはすぐに見つかった。 
    X=(1-1)+ (1-1)+ (1-1)+ (1-1)+ (1-1)+ (1-1)+ (1-1)+ …… 
    X=0 + 0 + 0 + 0 + 0 + 0 + 0 + …… 
    ゼロを永遠に足し続けるわけだから、Xは0だ。まず一つ。 
    次は少し難しかった。あれこれいじってみて、ようやくそれらしい形になった。 
    X=1-(1-1+1-1+1-1+1-1+1-1+1-1+ ……) 
    X=1-((1-1)+ (1-1)+ (1-1)+ (1-1)+ (1-1)+ (1-1)+ (1-1)+ ……)) 
    永遠の数式の最後を括弧で閉じるのが少し気になったが、多分これが正解だ。
    大括弧の中が一つめと同じ形になったので、あとは簡単。 


    430 デス・デイ・パーティ ◆oJUBn2VTGE ウニ2010/09/12(日) 00:23:28 ID:JDXpPZZg0
    X=1-(0 + 0 + 0 + 0 + 0 + 0 + 0 + ……) 
    X=1-0 
    答えはX=1。これで二つめだ。 
    とんとんと二つめまで辿り着いたので案外簡単じゃないかと安堵したのだが、ここからが難問だった。 
    どういじっても、どう括弧で括っても一つめか二つめの形の亜種にしかならず、結局0か1かという答えになってしまうのだ。
    頭がこんがらがってきた俺は、これまでのパターンをみんなに見せて確認してもらった。 
    「おい、少年。すごいじゃん。さすが学生」とみかっちさんが褒めてくれたが、あなた俺と同じ大学でしょう。
    それにやってみて思ったが、これは数学というよりパズルだ。 
    京介さんが戻ってきてから、俺は全員に同意を得て代表としてとりあえずここまでの答えをcoloさんに告げた。 
    「0と1ね。正解! あと一つ」 
    「なにかヒントはないですか」と頼んでみたが、「ない」と実につれない。
    仕方がないので、全員で知恵を寄せ合い、いろいろ考えてみる。
    しかし括弧での括り方なんてそれほど多くのパターンはなく、似たような形になるばかりで、どうあがいても0か1かになるのだった。 
    「発想の転換が必要」と宣言して、みかっちさんが書き出した式も結局なにも変わらなかったし、「他二つが0と1なんだから、その前後じゃないか」ということで、「2かマイナス1」という答えが直感派の間で主流になったりしたが、 
    裏付けが取れないためGOサインが出ないのであった。 
    発想の転換が必要だ。その言葉を十回くらい聞いたが、なんの足しにもならなかった。
    書いた紙が散乱し、下剤の恐怖と戦いながら、殺伐とした空気を吸って吐いて俺たちは考え続けた。 
    ふと顔を上げるとcoloさんが椅子に座ったまま退屈そうに足をぶらぶらしている。まずいな。そろそろ答えないと。 
    そんな停滞する場を打開し、答えを導き出したのは意外な人物だった。 手持ちぶさたのcoloさんが腕時計を覗き込んだ瞬間だ。 
    「わかった」 
    そんな言葉が部屋に響いた。全員の視線が集まる先にはみかっちさんがいた。
    「うそ」と沢田さんが言ったが、みかっちさんは人差し指を左右に振って「あたし天才かも」と目を瞑る。 
    「いい? 発想の転換が必要だったのよ。答えから言うわね。意外や意外、三つめのXの正体はに……」
    そこまで言い掛けたみかっちさんの口を誰かの手が塞いだ。疾風のように動いた人物は京介さんだった。 


    434 デス・デイ・パーティ ◆oJUBn2VTGE ウニ2010/09/12(日) 00:32:29 ID:JDXpPZZg0
    「バカ。勝手に答えるな」 
    真剣な顔でみかっちさんの抵抗を力ずくで抑える。そして矢継ぎ早に指示を飛ばす。 
    「解けたぞ。ヒントは時計だ。沢田さん、coloの口を塞げ」 
    え? とみんな唖然とする中で、沢田さんが条件反射的にcoloさんの口を塞ぎにかかった。
    「ちょっと、なに」抵抗するcoloさんの手を俺も一緒になって押さえつける。 
    京介さんの方はみかっちさんが大人しくなったところで手を離し、部屋にあったタオルを手に取ると押さえつけられているcoloさんの口を覆った。猿ぐつわだ。 
    「ふぁいふぅおぉ」 
    突然の暴挙にcoloさんが戸惑いながら訴える。 
    「これは予知してなかったか? 焦点になっている答えに関わる部分以外は捉えられていないようだな。
    無理に喋らせようとしたら失格だと言ったが、喋らせないのはかまわないはずだ」 
    京介さんはゆったりした動きでcoloさんの前に両手を組んで立ちはだかった。 
    「おまえの予知が本物という前提で話す。いいか。問題は、解Xを三つ答えろという内容だ。一つでも間違えたらアウト。
    つまりさっきこのバカが答えてしまっていたら失格だったということだ。 
    そしてその結果を予知したおまえは過去のケーキを用意した時点で中に下剤を仕込む。
    それでこれから私たちは地獄の苦しみという展開だ。
    行為が終了しているにも関わらず下剤が入っていたかどうか、食べた後にも分からないのがこのゲームのミソなわけだが……」 
    京介さんはみんなで綺麗に平らげたケーキの空箱を指さす。 
    「ミスをしたな。おまえはこのゲームの制限時間を決めていない」 
    俺はその言葉にハッとした。そうだ。その通りだ。 


    436 デス・デイ・パーティ ◆oJUBn2VTGE ウニ2010/09/12(日) 00:35:57 ID:JDXpPZZg0
    「私たちはこれから、『最後の三つめをなかなか答えない』という行動に出る。するとなにが起こるか。分かるな。
    下剤が効いてくるはずの時間を超過するんだ。何ごともなくその時間が過ぎたら、下剤は入れられていなかったということ。 
    もし仮に腹が痛み出したら、下剤は入っていたということになるが、私たちはなにもミスをしていない。
    間違えてもいない、制限時間もない、無理に喋らせようとしていない。
    そして、腹が痛み出したら未来永劫、絶対に三つめを誰一人答えないことを宣言する。 
    にも関わらず下剤を入れていたとしたら、これはアンフェアだ。
    入れられる理由なんてないのだから、論理によって成り立つゲームの根底を崩してしまう。ここまでは私の理屈だ。
    だが、おまえは今、『それは確かにアンフェアだ』と思ってしまった」 
    京介さんの力強い言葉につられ、俺も、他のみんなも頷いてしまった。coloさんは表情を引っ込めて反応もしなかった。 
    「口を塞がれ、これからルールを追加することも出来ないおまえは、結局下剤を入れられない。こちらの勝ちだ」 
    見事な勝ち名乗りだった。俺たちは感心して思わず手を叩いた。すごい。これこそが発想の転換だ。coloさんの頭ががっくりと落ちた。観念したらしい。これからなにが起こるか理解できたようだ。 
    下剤が入っていなかったと俺たちが確信できるまで、拘束されるのだ。
    筆記等によるルール追加もできないように、部屋にあった布類で縛り上げる。
    その作業は女性陣が行ったのであるが、なんだかいけないものを見ているような気がしてドキドキする。 
    椅子に座ったまま身体の自由を奪われたcoloさんの目に涙が浮かんだのが見えた。
    やばい。可哀想になってきた。自業自得なのに。 
    「で、下剤ってどのくらいで効くの」 
    みかっちさんの言葉に部屋の中がシーンとする。 
    たぶん、四、五時間というファジーなところで意見が落ち着き、念のために六、七時間くらい余裕をみることにし、なんだかんだで結局朝まで宴が開かれることになった。 
    パーティの主役であるcoloさんの目の前で、俺たちは語り合い笑い合いふざけあい、語り合った。 
    coloさんにメソメソと泣かれたらどうしようと思ったが、変な格好のままあっさりと本人は寝てしまい、俺たちは心おきなく時間をつぶすことができた。 

    438 デス・デイ・パーティ  ラスト ◆oJUBn2VTGE ウニ 今夜は終わり 2010/09/12(日) 00:39:52 ID:JDXpPZZg0
    後から考えると、とっとと解散するとか、「もうやめよう」と言ってcoloさんと休戦条約を締結するとか、下剤の箱やレシートがあるかどうか探すとか色々やり方があったような気もするし、どうしてcoloさんはこの展開を予知できなかったのかとか、 
    京介さんの未来予知に関する考え方にも多少の疑問点もあったが、その時の俺たちはそういう細かいことを抜きにして楽しい時間を過ごすことに全力を尽くし、変な角度からの青春をとにかく謳歌していたのだった。 
    この混沌としたデス・デイ・パーティの顛末に付け加えることが一つ。 
    夜中の十二時を回ろうかというころ、電話が鳴った。携帯ではなく、coloさんの自宅の電話だ。 
    眠っているcoloさんをちらりと見てから、京介さんが受話器を取る。 
    「はい」 
    相手と二こと三こと会話を交わしてから受話器を置く。そしてcoloさんのところへ行って、肩を叩いた。ゆっくりと彼女は目を開く。 
    「あの変態から電話。『おめでとう』。以上」 
    そして京介さんはまたみんなの輪に戻っていく。 
    俺はそのやりとりを見ていて、なんだか不思議な気持ちになった。
    はっぴですでいつーゆうと言われても、まったく嬉しそうな様子を見せなかったcoloさんが、初めてニコッと笑ったのだ。 
    また目を瞑り、眠りにつこうとする彼女を見ながら、俺はふと今日はcoloさんの本当の誕生日だったのかも知れない、と思った。 

    「ちょっと、あたし、合ってたじゃない!」 
    腹を痛めることもなく無事に迎えた次の朝、coloさんの拘束を解いて解散となったとき、みかっちさんが叫んだ。
    出題者であるcoloさんから三つめの答えの説明があったのだ。 
    X=1-(1-1+1-1+1-1+1-1+1-1+1-1+ ……) 
    このとき、右項の括弧内は最初の式である、 
    X=1-1+1-1+1-1+1-1+1-1+1-1+ …… の右項と等しくなるため、 
    X=1-X 
    2X=1 
    X=1/2 
    となるのだそうだ。ほんとかよ。 
    「にぶんのいちって、言おうとしたのに。あたし算数得意なんだから」 
    算数というあたりが信用できなかったが、そういうことにしてあげた。 

    1 列  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2010/09/04(土) 23:07:32ID:e+ha2oiV0
    師匠から聞いた話だ。 


    大学に入ったばかりの頃、学科のコースの先輩たち主催による新人歓迎会があった。 
    駅の近くの繁華街で、一次会はしゃぶしゃぶ食べ放題の店。二次会はコースのOBがやっているドイツパブで、僕は黒ビールをしたたかに飲まされた。三次会はどこに行ったか覚えていない。 
    ふらふらになり、まだ次に行こうと盛り上がっている仲間たちからなんとか逃げおおせた頃には夜の十二時近くになっていただろうか。 
    同じようにふらふらと歩いているスーツ姿の男性とそれにしなだれかかるような女性、路上で肩を組んで歌っている大学生と思しき一団、電信柱の根元にしゃがみ込む若者と背中をさする数人の仲間…… 
    そんなごくありふれた繁華街の光景を横目に僕は駅の方角に向って、液体のように形状の定まらない足を叱咤しながら歩いていた。 
    前掛け姿の店員が看板を片付けている中華料理屋の前にさしかかった時だった。 
    自分が進んでいる道と垂直に交差する道が視界の前方にあり、その十字路の上を奇妙なものが歩いているのが見えた。 
    それは街路灯に照らされているわけでもないのに、ほんのりと光を纏っている。
    人間のようにも見えるが、妙にのっぺりしていて顔があるあたりは眼鼻の区別が定かではない。
    そういうものが何体も前方の道を右から左へ通り抜けて行く。 
    この世のものではないということはすぐに直感した。 
    元々他人より霊感が強く、幽霊の類にはよく遭遇するのであるが、こうして街なかで群をなしているのを見るのは珍しかった。 
    ゆっくりと十字路に近づいていくと、その歩いてる連中が行列をなして同じ方向へ進んでいるのが分かった。 
    その数は十や二十ではきかない。無数の人影がぼんやりと繁華街の夜陰に浮かびながら、そろそろと歩いている。 
    寒気のする光景だった。 
    「霊道」という言葉が思い浮かんだ。 
    蟻が仲間のフェロモンをたどって同じ道を列をなして通るように、なにかに導かれて彷徨う霊たちが通る道だ。 
    こんな繁華街の真っ只中に…… 
    恐る恐る十字路に出て、行列の向かう方向を窺う。 
    どこまでもずっと続いているような気がしたが、道の向こうに列の先頭らしきものが見えた。 



    257 列  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2010/09/04(土) 23:14:11ID:e+ha2oiV0
    その瞬間だった。列の中からこちらに手を伸ばしてくるやつがいた。 
    間一髪でその手をかい潜り、距離を取る。 
    思いもかけない攻撃に、焦って足を挫きかけた。心臓がバクバクしている。 
    異様に長い白い手が波打つように揺れながら列の中に戻っていく。 
    周囲の人々は誰もその光景を見ている様子がない。行列を横切ろうとする人はおらず、十字路にさしかかった人も、何気ない歩調で左右に折れていく。 
    元々そちらに向かう人なのか、それとも無意識に霊道を横切らないように迂回しているのか…… 
    そんな中、彼らの存在が「見えて」いる僕に反応したのだろう。 
    それでも列から離れてこちらを追いすがってくる様子はない。列に添って進むことは抗いがたい何かを秘めているのか。 
    体勢を立て直し、道の中心を通る彼らからなるべく離れたままで、その進む方向へ足早に歩を進める。 
    ぼんやりと光る彼らに横から目をやると、その着ている服がうっすらと見えたり、無表情な横顔や、砕けて開いたままの顎から垂れる血糊、左の肩が落ち込んで鎖骨が覗いている姿などが垣間見えた。 
    はっきり姿が見えるものや、闇に消え入りそうなものもいて、そんな「見え方」はバラバラで一貫性はなかったがどれも一様に歩を乱さず歩いて行く。 
    僕は小走りに駆け、ふたブロックほど先でその先頭に追い付いた。 
    その時に見た光景をなんと表現すればいいのか。 
    その光景は僕の生涯の中で忘れることのできない輝きを持って、様々な瞬間に幾度となく蘇ることになるのだ。 
    明かりの落ちた薬局の看板の前で思わず立ち止まり、その横顔に見とれていた。 
    霊道の一番先端を行くのは女性だった。 
    白いジャージの上下を着て、ポケットに両手を突っ込み、少し猫背で、睨み上げるように前を見据えて歩いている。 
    その相貌は怒気を孕んだように白く、眼は…… 
    眼は、そこに映るすべてのものを憎悪し、唾棄し、苛み、そしてそれでいて全く興味を喪失しているような、そんな色をしていた。 
    苛立ちを撒き散らし、自分を不機嫌にさせたすべてを呪いながら彼女は歩いている。 
    その後にぼんやりと光る死者の行列が音もなく続く。 
    僕は息を止めて見つめている。 

    258 列 ラスト ◆oJUBn2VTGE ウニ 2010/09/04(土) 23:19:27 ID:e+ha2oiV0
    葬列にも似た荘厳な行進は、夜半を過ぎて狂騒の冷めかけた繁華街の夜の底を行く。 
    この世のものならぬものたちを従え、そしてそのことに気づいているのかどうかも分からない表情で、振り返りもせずただ前方を睨み据えて彼女は歩き続ける。いったい彼女の何が、まるで誘蛾灯のように彼らを惹きつけるのだろう。 
    僕はその幻想的な光景に一歩足を踏み出し、通り過ぎようとする彼女に声をかけようとした。 
    「あの……」 
    挙げかけた右手が虚空を掻く。彼女は足を止めようともせず、そしてこちらを一瞥もせずに、ただ短く口を開いた。 

    「後ろに並べ」 

    そして次の瞬間、彼女は今自分が言葉を発したことさえ忘れたように表情を変えず歩き去ろうとする。 
    すべてがスローモーションのように映る。 
    今自分話しかけたものがこの世のものなのか、そうでないのか、まったく関係がない。そんな声だった。そうした区別もなく、ただどちらにも等しく価値がないと他愛もなく信じているような。 
    僕はその声に従いそうになる。 
    深層意識のどこかで、彼女につき従う葬列に混ざり、意識を喪失し、個性を埋没させてただひたすら盲目的について行きたいと、そう思っている。 
    だが、現実の僕は目の前を通り過ぎていく寒々とした列を呆けたような顔で見送っている。 
    その時僕は、彼女の横顔に涙が流れていくのを見た。 
    いや、それは涙ではなかった。左目の下、頬の上あたりに仄かに光る粒子が溢れている。
    それが風に流れる水滴のようにぽろぽろとこぼれては地面に落ちる前に消えていく。
    その粒子の跡を追って無数の死者たちが光の帯となって進む。静かな川のようだった。 
    僕はそれに目を奪われる。その情景に自分の感情を表現するすべを持たない自分がひどくもどかしかった。 
    気が付くと行列は去り、やがて再び繁華街のざわめきが戻ってきた。さっきまでの異様な空気はもうどこにもない。 
    何ごともなかったかのように酒気を帯びた人々が道を横断していく。 
    遠くで客の呼び込みをしている嗄れた声が聞こえる。終わりかけた夜の残滓がアスファルトの表面をゆっくりと流れている。
    我に返った僕は、棒立ちのまま左目の下に指をやる。 
    もう一度どこかであの人に会うだろう。 
    そんな予感がした。 

    1 もういいかい  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2010/08/29(日) 21:20:14 ID:zEqctehg0
    師匠から聞いた話だ。 


    大学二回生の春だった。 
    休日の昼間に僕と加奈子さんはとある集会所に来ていた。平屋のさほど大きくない建物だ。 
    バイト先の調査事務所の所長から話を聞きにいくように指示されただけで、なんの準備もなしに渡された地図を頼りにやって来たのだった。 
    迎えてくれたのは五十年配の女性。玄関から入ってすぐの襖を開けると十畳ほどの日本間があり、そこへ通された。 
    地区の寄り合いに利用される集会所で、鎌田さんというその女性はそこの鍵を管理しているらしい。
    その鎌田さんのご主人が地区長をしていて、また彼女自身、地区の婦人会の会長とのことだった。
    その土地の名主的な家柄ということだろう。 
    鎌田さんがほっそりした顔に困惑げな表情を浮かべて切り出したのは、その集会所にまつわるお化けの話だった。 
    「気持ちの悪い声、ですか」 
    「ええ」 
    加奈子さんの言葉に頷きながら、彼女は気味悪そうに視線を部屋の中に彷徨わせる。 
    思わずその視線を追いかけるが、なにも変わったものは見つからなかった。 
    話を聞くに、かなり以前からこの集会所の中で誰のものとも知れない声がどこからともなく聞こえてくることがあったそうだ。 
    昼のさなかであればこそ、夜の集会所ともなれば人ごこちのしない不気味さで、ましてたった一人居残って片付け物をしている時に、誰もいないはずの部屋の中から声がするともなればその恐ろしさいかばかりか、ということらしい。 
    昔から密かにささやかれていた噂話だったのが、このところのオカルトブームのせいか地区の子どもたちの間でその噂が一人歩きしはじめ、「お化けの声に話しかけられたら返事をしないと殺される」だの、 
    逆に「返事をしてしまうと床下に引きずり込まれる」だのといった恐ろしげな怪談になってしまい、子ども同士で物陰に隠れて脅かしあいをするのが流行り、気の弱い子が気絶して救急車を呼ぶような騒ぎも起こってしまったとのことだった。 
    「お寺や神職にお払いをしてもらわなかったんですか」 
    加奈子さんがそう問うと、鎌田さんは答えにくそうに「あ、ええ」と曖昧な返事をした。 

    123 もういいかい  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2010/08/29(日) 21:22:25 ID:zEqctehg0
    その様子から僕は『お払いをしてもらっても、怪異が終わらなかった』という裏を読み取った。
    たぶん加奈子さんもそう思っただろう。 
    そうでもなければ、こんな話が小さな興信所に持ち込まれるわけはない。
    たとえ『お化け』がらみの依頼をいくつも解決し、業界内では多少名の知れた看板娘がいるにしてもだ。 
    「その噂はいつごろからあるんです」 
    「さあ……二十年、いえ、二十五年くらい前だったか、この集会所は一度建て替えをしてまして、その前からあったかどうか」 
    そう言って鎌田さんは首を捻った。 
    ということは、はっきり分からないくらい昔からある噂ということか。 
    「あなた自身はその声を聞いたことがありますか」 
    ハッと表情を硬くして鎌田さんは曖昧に頷く。 
    「声だけなんですか。姿を見たという人は?」 
    「私は……見たことはございませんけれど」 
    言いよどむ。 
    見た、という噂は歩いている。そう受け取った。しかし『気持ちの悪い声が聞こえる』という噂がメインであることは間違いないようなので、『なにかを見た』という噂の方は信憑性がさらに低い。 
    「少し、見させてください」 
    加奈子さんは立ち上がり、周囲を軽く見回しただけで襖に手を掛けた。 
    日本間から出ると、真剣な表情で集会所の中を一通り見て回る。もう一回り小さい部屋に、トイレ、台所。
    祭りで使うような提灯や小道具でいっぱいの物置。 
    二階もなく、あっという間にもう見るべき場所はなくなってしまった。 
    ついて回っているあいだ、僕も何か違和感がないかとアンテナを張っていたが、特に感じるものはなかった。 
    しかし加奈子さんは僕より遥かにそういう違和感を感じ取る能力が高い。畏敬を込めて師匠と呼ぶほどにだ。 
    その師匠が、難しい顔をして廊下の天井を睨んでいる。
    一緒にそちらを見上げるが、木目が波打っているだけで何も変なところはない。 
    どうしました。と言おうとして、手で制された。 
    「何か聞こえる気がするんだけど、なんとも言えないな」 
    思わず耳を澄ます。しかし何も聞こえない。 

    124 もういいかい  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2010/08/29(日) 21:25:38 ID:zEqctehg0
    師匠が神経を集中し始めたのが分かる。表情が無くなり、身動きをしなくなる。
    僕は固唾を飲んでそれを見守る。鎌田さんが後ろで気味悪そうに佇んでいる。 
    師匠の気配が揺らぐ。ゆらゆらと、まるでそこから消えて行きそうな錯覚。 
    僕は怖くなって彼女を現実に戻すために肩を叩こうかと逡巡した。 
    「わかんない」 
    ふいに彼女が戻ってくる。その声に僕は少しほっとする。 
    結局怪異に遭遇したという体験談が多い夜まで様子を見ることになった。
    鎌田さんは半信半疑というか、困ったような顔のまま僕らに鍵を預け、よろしくお願いしますと言いおいて立ち去った。 
    昼の三時過ぎだった。 
    今日はこの集会所を使うような予定も特にないらしく、僕と師匠はひっそりとした室内に腰を据えた。 
    探索もしたばかりだったのでとりあえずすることもなく、玄関からすぐの日本間で古い型のテレビをつけてさほど面白くもない旅番組を見ていた。 
    「気持ちの悪い声って、なんなんでしょうね」 
    ぼそりと口にした僕に、座布団を数枚並べてその上に寝転がっていた師匠が顔を上げる。 
    「お化けだといいな」 
    お化けだといいですね。 
    賛同しつつも、自分たち以外のなんの気配も感じないことに疑惑を抱いていた。
    異常に霊感の強い師匠でさえ、「なんとも言えない」と言っているのだ。 
    もし何らかの霊的存在が巣食っていたとしても、微弱で矮小なやつに違いない。 
    噂にあるように「話しかけられたら返事をしないと殺される」だとか、「返事をしてしまうと床下に引きずり込まれる」といった素晴らしい体験は間違いなくできないだろう。 
    溜め息をついて僕はトイレに立った。 
    廊下に出る時、ギィ、と床が鳴いて無駄に広い集会所の壁や天井に反響した。
    防音構造になっているのか、外の音があまり中まで響いてこない。 
    なるほど、これで中の音がやけに大きく聞こえて、ちょっとした物音でも気になってしまうのか。 
    トイレから戻り、またテレビの前に寝そべる。 
    時間だけが過ぎていく。チッチッチッチ…… という壁にかかった時計の音が、テレビが静かになる瞬間にだけやけに大きく響く。 

    125 もういいかい  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2010/08/29(日) 21:28:23 ID:zEqctehg0
    鎌田さんから食べていいと言われていた台所の柏餅を日本間に持ち込んで、自分で淹れたお茶と一緒に口にする。 
    「うまいな」 
    うまいですね。 
    やがて夕暮れがやってきて、小さな窓からも光が失われていく。 
    知らぬ間にうとうとしていた。 
    師匠がなにか言った気がした。 
    畳の跡が頬に張り付き、剥がす時にヒリリとする。半覚醒の頭で、言葉を認識しようとする。 
    ああ、そうか。 

    もういいかい。 

    そう言われたのだ。 
    身体を起こすと、周囲を見渡す。師匠がテレビの前でうつ伏せになったまま死んだように寝ている。 
    あれ? 師匠じゃなかったのか。 
    じゃあ、一体誰が。 
    そう思った瞬間、もう一度聞こえた。今度ははっきりと。 
    『もういいかい』 
    立ち上がって身構える。どこから聞こえた? 
    分からなかった。ただ、その言葉の余韻が室内から廊下に向けて動き、襖を通り抜けていったのを感じた。 
    この日本間には僕と師匠しかいない。はずだ。 
    これか。噂は。 
    緊張して襖に手をかける。そろそろとずらして、首だけで覗き込む。廊下はすでに暗く、ひっそりと静まり返っている。
    闇の戸張りの向こうに人の気配はまったく感じない。だからこそ異様な空気がひしひしと伝わってくる。 
    僕はそっと襖を閉め、室内を振り返る。 
    師匠はまだ寝ている。膝をついて揺り起こす。 
    もぞもぞと動いていたが、めんどくさそうな声で「お化け以外見たくない」と呟いたのが聞こえた。 
    「見えないから問題なんですよ」 
    僕は白いストレッチパンツのお尻の部分を遠慮なく叩いた。 

    126 もういいかい  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2010/08/29(日) 21:33:04 ID:zEqctehg0
    「ッてぇな!」 
    師匠が乱暴な口調で起き上がったその瞬間だった。 
    『もういいかい』 
    どこからともなくそんな問いかけが降ってきた。思わず二人とも動きが硬直する。
    視線だけを走らせて室内を観察するが、なにも目に見える異常はない。 
    なんだ? これからなにが起こる? 
    ドッドッドッ、という心臓の音を聞きながら考える。 
    噂ではなんと言っていた? 返事だ。返事はするのが正解か、しないのが正解か。もういいかい、に対してする返事は…… 
    「師匠」 
    横目で見ると、「黙ってろ」という一言。 
    緊張しながらもじっとしていると、また得体の知れないその声の余韻が空中に糸を引いたようにすうっ、と動き、今度はテレビのある壁の向こうに消えていった。 
    壁の向こうは外のはずだ。 
    はぁっ、と息を吐き、初めて自分が息を止めていたことに気づく。 
    師匠は間を置かずに走り出した。 
    廊下に出て、電気を点けて回る。トイレや台所、物置ともう一つの小部屋。
    すべて一通り探索したが、自分たち以外の第三者はどこにも潜んではいなかった。 
    玄関に戻ってきてドアを見ると、自分たちで施錠した時のままだった。 
    腕時計を見ると夜の八時過ぎ。ほんの少しうとうとしたつもりだったのに、こんなに時間が経っている。 
    「さっきのはなんでしょう」 
    恐る恐る訊く僕に、師匠はかぶりを振った。 
    「言葉は発していたが、人間的なものを感じなかった。普通の霊とは違う気がする。かと言って物霊とも……」 
    僕は『もういいかい』というさっきの言葉の声色を思い出そうとする。 
    男か、女か。そして若いのか、年寄りなのか。 
    しかし、駄目だった。空気を振動させて伝わった音ならば記憶の中に確実に残っているはずだが、あの声は直接脳に響いたとでも言うのか、まったく勝手が違った。まるで幻聴を思い出そうとするように、捕らえどころのない感じ。 
    余計な情報が刻一刻と揮発し、『もういいかい』という言葉の意味だけが純粋に脳裏に刻印されていく。 
    最後に壁の向こうに余韻が消えていったような気がしたことを思い出し、玄関の扉に目を向ける。 


    127 もういいかい  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2010/08/29(日) 21:35:51 ID:zEqctehg0
    師匠も頷いて玄関の段差を降り、靴に足を入れた。 
    扉を開けて外に出ると、明るさに慣れた目に、夜の空気がどろどろと黒い幕となってまとわりついてきた。 
    古い家の並ぶ閑静な住宅街の一角にある集会所の敷地は広く、玄関から表の道路まで少し距離があった。 
    その間の砂利道を歩いてくる黒い人影に気づいた。 
    「どうかされましたか」 
    怪訝そうな表情が敷地の隅の街灯の明かりに照らし出される。鎌田さんが両手にお盆を抱えて立っていた。 
    ホッとして、「ええ、それが」と言いかけるのを師匠が制した。 
    「ちょっと訊きたいことがありますが、いいですか」 
    「え、ええ、はい」 
    鎌田さんは玄関の扉を開けてお盆を置いた。ラップに包まれたお握りが六つと惣菜らしいタッパーがのっていた。
    夜食を持ってきてくれたようだ。 
    「姿を見た、という人はいないんですね」 
    「え、ああ、噂ですか。そうですね、あんまり。声がすると。みんな」 
    「あなたは聞いたことが?」 
    「……気のせいかも知れませんが」 
    「もういいかい」 
    師匠の言葉に鎌田さんは肩をビクリとさせる。 
    やはり。 
    「噂では、返事をするとどうだとか、しないとどうだとか言っていましたが、実際に」 
    そこまで言った時、また聞こえた。 
    『もういいかい』という声が、どこからともなく、そしてどこへともなく。 
    だが、今度はその声と同時になにか別の気配が高まるのを感じた。
    それはほんのわずかな違和感だったが、僕の首筋をひやりと撫でて、師匠を一瞬で反応させた。 
    玄関から飛び出して走り出す。 
    集会所の壁伝いに左側へ回り込む。
    自転車が何台か置き捨てられている場所を膨らみながらかわし、玄関正面から見て敷地の右奥へと向かう。 
    敷地の端の煉瓦塀のあたりは砂利だったが、集会所の側の地面はコンクリで舗装されている。
    その壁際にプロパンガスのボンベが二基立てられている。小さな窓に見覚えがあった。
    頭の中で集会所の間取りを思い浮かべる。ちょうど台所の裏手だ。 

    129 もういいかい  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2010/08/29(日) 21:41:59 ID:zEqctehg0
    師匠はその壁際の地面に両手をついて這いつくばる。這っている蟻を見つけようとするような格好だった。 
    しかしその目の焦点は遥か地面の下に向かっている。 
    「なにか、埋まっているな、ここに」 
    コンクリ舗装の地面を食い入るように見つめたまま、師匠は呟いた。僕は少し手前で立ち止まり固唾を飲んでその様子を眺める。 
    ようやく鎌田さんが追いついてきて、怯えたように「どうしましたか」と問いかけた。 
    師匠はその声が聞こえなかったかのようにひたすら地面を舐めるように見ていたが、やがて身体を起こし、「なにか、埋まっていますね、ここに」と言った。 
    僕はこちらの方角からなにか気配のようなものを感じ取っただけだったが、師匠は確実に場所まで特定したらしい。 
    「なにかと言いますと?」 
    「それが知りたいんですよ。この下はなんです? もしかして地下室かなにかがあるんじゃないですか」 
    鎌田さんは首を捻っていたが、そんなものはありませんと断言した。確かにそれもそうだろう。
    平屋のなんの変哲もない集会所に地下室など似つかわしくないし、中を探索した結果それらしき地下への出入り口はなかった。 
    小さな貯蔵庫の類もないということを付け加えられ、師匠は考え込む。 
    「じゃあ、浄化槽は?」 
    一瞬ハッとしたが、さっきトイレに行った時、普通に水洗式だったことを思い出す。
    いや、しかし水洗式でも下水ではなく浄化槽で汚物を溜めるということもあるのだろうか。 
    「浄化槽は……」 
    鎌田さんが答えようとした時に、表のほうから懐中電灯の光がゆらゆらと近づいてくるのが見えた。 
    「なんの騒ぎです」 
    近所の人だろうか。五十年配の痩せた男性が緊張したような面持ちでやってきた。後ろにはその奥さんらしい女性。 
    「ええと……」 
    鎌田さんがどう説明したものか迷っていると、かまわず師匠はその痩せた男に向かって「この下に浄化槽はありますか?」と訊いた。 
    男は怪訝な顔をしながらも、「ないよ」と即答した。「今は下水が通ったから」と続ける。 
    131 もういいかい  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2010/08/29(日) 21:44:01 ID:zEqctehg0
    「だったら、下水が通る前は?」 
    「通る前?」 
    少し思い出すような表情を浮かべた後、男は表の方を指差した。 
    「浄化槽はあったけど、玄関の横だな」 
    そう言えばトイレは玄関から入ってすぐ左手にあった。浄化槽はその表側に埋まっていたのだろう。 
    師匠は考え込む。 
    ぶつぶつとなにか呟いている。 
    いつの間にか男の奥さんらしい女性が消えている。
    鎌田さんに向かってなにかジェスチャーをしていたので予感はあったが、しばらくすると数人の足音が聞こえてきた。 
    「この人が霊能者?」 
    そんな無遠慮な声が掛かった。小太りのおばさんが興味津々という感じに近寄ってくる。
    どうやら婦人会長の鎌田さんが独断でこっそり調査事務所に依頼したというわけでもないようだ。 
    師匠は露骨に嫌な顔をして、それでも増えた地元の人々に向かって再び問いかけた。 
    「この集会所の建て替えはいつの話ですか?」 
    鎌田さんにも訊いた質問だ。 
    何人かが顔を見合わせ、今年大学卒業のナントカ君が生まれた頃だという情報から、「二十二年前」という結論が出た。 
    「その建て替えの前から、気持ちの悪い声に関する噂はありましたか」 
    ざわざわする。 
    気味悪そうに、その中の一人が「あったと思う」と言った。 
    建て替えの前からあった? 
    では今の集会所の構造にこだわってはいけないということか。 
    「では建て替え前に、浄化槽はどこにありましたか」という師匠の問い掛けにはすぐに返答があった。 
    「トイレの位置は変わってないから、同じ玄関の横」 
    「だったら、そのさらに前でもいいですから、とにかくこの地下になにか埋まるような心当たりはありませんか」 
    ざわざわと相談に入る。 
    いつの間にかまた人が増えてきている。子どもの姿が表の方に見えたが、すぐに母親らしい女性に引っ張って行かれた。 
    なんだか大ごとになってきたな。 


    133 もういいかい  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2010/08/29(日) 21:50:06 ID:zEqctehg0
    僕は師匠の後ろに控えたまま、困ったような興奮してきたような複雑な気持ちで事態を見守っていた。 
    何度かのやりとりの結果、数十年前にこの集会所が出来る前には、この敷地は近所の工務店の資材置き場に使われていたということが分かった。 
    その頃、工務店を手伝っていたという初老の男性がたまたまその中にいて、「地下になにか埋めるようなことはなかったと思う」と言った。 
    実直そうな物言いではっきりそう告げられると、なんだかもう手詰まりな感じがしてしまったが、次の師匠の問い掛けで空気が一変した。 
    「その資材置き場の頃に、気持ちの悪い声の噂はありませんでしたか」 
    初老の男性は、目を剥いて驚きの表情を浮かべた。そして今、重要な事実に気づいたように絶句した。 
    「……あった」 
    ええっ? と周囲からも驚きの声が上がる。 
    「いや、言われて思い出したんだが、確かにあった。そうだ。ヨシミツさんも聞いたと言って怖がってた」 
    本人も今の噂と若き日の体験談が結びつくことにはじめて思い至ったようで、頬が紅潮していた。 
    「どんな声を聞いたんです」と師匠が畳み掛ける。 
    初老の男性は、「いや、自分は聞いたわけじゃないが」ともぐもぐ言ったあと、「夜、子どもが遊んでいるような声がする」という怪談じみた話が従業員たちの間に広がっていたことを話した。 
    なんだこれは。集会所の建て替えどころの話じゃない。いったいどこまで遡るんだ? 
    話の行く末にドキドキしていると、師匠がさらに畳み掛ける。 
    「資材置き場の前は、ここにはなにが?」 
    この問いにはなかなか即答できる人が現れなかった。
    やがておずおずと六十歳くらいの女性が手を挙げて、「松原さんの地所だったはずです」と言った。 
    その言葉に、「そう言えば」という声があがる。だが、直接当時を知る人は誰もいなかった。かなり古い話なのだろう。 
    「こりゃあ、うちの年寄りを連れてこにゃあ」と言って妙に嬉しそうにこの場を離れる人がいた。 
    師匠はもう一度地面に這いつくばり、コンクリの地面をコンコンと叩いたり撫でたりしながらなにかを感じ取ろうとするように目を閉じたり開いたりを繰り返していた。 

    134 もういいかい  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2010/08/29(日) 21:55:33 ID:zEqctehg0
    やがて八十歳は超えていると思われる女性が息子に連れられてやってきた。
    夜の九時を回ろうかという時間に急に外へ連れ出されたにも関わらず、泰然自若として足取りも落ち着き払っていた。 
    師匠は身体を起こし、そのおばあさんに向かって訊いた。 
    「ここには松原さんという方の家があったんですか」 
    「ええ、ええ、ございました」 
    「戦前ですか」 
    「ええ、日中戦争の前に家を引き払いまして一家揃って隣町へ引っ越されました」 
    「ではまだ松原さんがここにおられた頃に、家を訪ねられたことは?」 
    おばあさんの丁寧な口調に自然と師匠の口調も改まっている。 
    「ございました。私と一つ違いのやよいさんというお姉さんがおりまして、よく一緒に遊んでおりましたので」 
    「その頃、今のこのあたりは松原家でいうとなにがあった場所でしょうか」 
    この問いには答えられず、小首を傾げた。 
    「地下室、もしくは防空壕のようなものは?」 
    続いての問いにも記憶が定かでないらしく、かぶりを振るだけだった。 
    「では……」 
    師匠が一瞬、舌なめずりをしたような気がした。 
    「このあたりに浄化槽、いや、便槽はありませんでしたか?」 
    おばあさんは、あ、という顔をした。 
    「当時はもちろんボットン便所でしたが、確か玄関からこちらに向かったところにあったような気がします」 
    「ここが大事なところなんですが、どうでしょう。その家で、誰かいなくなった人はいませんか?」 
    いなくなった? 
    最初は「亡くなった人はいませんか?」と訊いたのだと思った。
    しかし師匠は確かに「いなくなった人はいませんか?」と訊いたのだった。 
    行方不明になった人ということか。 
    おばあさんは、記憶を辿るように伏目がちに小さく頷いていたが、やがてほっそりした声で「ちえさん」と呟いた。 

    137 もういいかい  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2010/08/29(日) 22:07:16 ID:zEqctehg0
    「やよいさんには、二つか三つ年下の妹さんがおりました。今はなんと申すのでしょうか。その……知恵遅れの子でした。
    いつもやよいさんの後ろをついてまわって、おねえちゃんおねえちゃんと、傍から見てもそれはそれは懐いておりました。 
    やよいさんも知恵遅れの妹を心配して、あれこれと世話をやいていたのを覚えております」 
    「いなくなったのは?」 
    「さあ、それが……」 
    おばあさんは困ったような顔をして、懸命に記憶を呼び覚まそうとしていたがどうやらはっきりと分からないらしかった。 
    分かったことと言えば、その松原ちえという女の子が恐らく十歳を過ぎた頃、ある日急に姿が見えなくなったということだった。 
    「どこかにもらわれて行ったか、どうかしたのだと思うのですが」 
    子ども心にも大した事件ではなかったということか。それとも姉のやよいさんと仲の良かった娘からすれば、その姉にべったりの妹はむしろお邪魔虫であり、ある日急にいなくなっても心配するようなことはなかったのだろうか。 
    「松原ちえ」 
    師匠はゆっくりと呟いてもう一度地面に這いつくばった。 
    コンクリに額をぴったりとつけて、目を閉じる。 
    「ちえ」 
    もう一度そう呟く。その瞬間、僕にも分かった。さっき、玄関で『もういいかい』と聞こえた時にこちらの方角から感じた気配のようなものが、足元からじわじわと湧き上がってくるのを。 
    足先が重くなっていく。ずぶずぶとコンクリの中に靴がめり込んで行くような錯覚を覚える。 
    「チャンネルが、合った」 
    ぼそりと師匠がそう言う。そして「おまえは?」と訊く。僕はかぶりを振る。
    師匠が言うのは、僕が今感じている程度の感覚ではないのだろうから。 
    這ったまま師匠の左手が差し出される。僕はそれを躊躇いがちに握る。 
    その瞬間、自分の視界に被るように別の視界が開けた。ノイズのようなものが走り、不鮮明だが、笑っている女の子が見えた。
    十代前半だろうか。着物を着ている。 
    その子が木の幹に向かって顔を伏せた。 
    なにか言っている。 
    数だ。数をかぞえている。 

    139 もういいかい  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2010/08/29(日) 22:12:06 ID:zEqctehg0
    視界が動いた。木と女の子に背を向けて、走り出す。途中で茂みを掻き分けようとしていたが、諦めてまた走る。呼ぶ声。
    返事をする。家が映る。古い木造家屋。その縁側を回り込む。隣の家の垣根。そのそばに井戸。
    小さな離れのような建物が見え、木戸が風で揺れている。 
    また呼ぶ声。返事をする。視界がしゃがむ。木戸の傍に頑丈そうな板が地面に埋まっている。それを苦労しながら取り外す。
    中を覗き込む。暗い。 
    視界が振り返る。家と垣根の間、その向こうにはまだ人影は見えない。 
    地面に開いた穴に視界は滑り落ちていく。 
    臭気。 
    腰まで汚泥のようなものに浸かる。暗い。上を見ると、丸い穴から空が覗いている。 
    呼ぶ声。今度は小さな声で返事。見つからないように。 
    時間が過ぎる。 
    探す声。 
    やがて遠ざかる。 
    さらに時間が過ぎる。なんだか楽しい気分。 
    空から声。なんだ、危ないな。開いているじゃないか。 
    丸い穴から見下ろす男の顔。驚く。眉間に皺。 
    視界は半月になる。笑いかけているのだ。 
    ますます険しくなる男の顔。震える頬。短い時間の間に、複雑な変化をして、そして穴から離れる。 
    次に丸い空の穴から男が見えた時、その手には大きな石が握られていた。 
    打ち下ろされる手。 
    衝撃。赤く染まる視界。暗転…… 

    ハッと我に返った。 
    師匠は左手を引きながら、見えたか、と訊いてくる。こんなことができるのは、最近知ったことだった。 
    僕よりも師匠の方が遥かに霊感が強く、師匠に見えて僕には見えないということが多々あったのだが、そんな時に師匠の身体のどこかに触れていると、どういう効果なのかほぼ同じレベルで見えてしまうことがあったのだ。 
    交霊術などで、参加者同士が手を繋ぐのと同じことなのだろうか。 
    周囲にざわざわした空気が戻ってくる。僕らを奇異の目で見つめる人々に師匠は向き直った。 
    「この下に、松原ちえさんが埋まっています」 
    剣呑な言葉に驚きの声が上がれば、「やっぱり」というような声も上がった。そして半分以上は疑わしげな声。 


    141 もういいかい  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2010/08/29(日) 22:14:43 ID:zEqctehg0
    姉とかくれんぼをして遊んでいる最中に、便槽に隠れたちえさんと、偶然それを見つけてしまった父親。
    そしてどういう心理が働いたのか、衝動的に娘を石で打って殺してしまう。 
    それからは恐らくだが、便槽をコンクリかなにかでそのまま埋め立て、ちえさんはいなくなってしまったことになった。 
    訥々と語った師匠に、頷く人もいれば胡散臭そうな顔を隠さない人もいる。
    しかし当時の松原ちえを知るおばあちゃんは涙を浮かべて言葉を発せない状態になっていた。 
    「じゃあ、集会所で聞こえた気持ちの悪い声は、そのちえさんが?」 
    誰かが言った言葉に師匠はかぶりを振った。 
    「私たちが聞いたのは、もういいかい、という言葉でした。ちえさんは隠れる側でした。だから、ちえさんなら『まあだだよ』もしくは『もういいよ』と返すはずです」 
    そうだ。もういいかい、は探す側の言葉。探しているのは誰だ? 
    「やよいさんが……」 
    おばあさんがようやくそれだけを言った。ハンカチで涙を止めようと目元を赤くしている。 
    松原やよいが、ある日かくれんぼの最中に急にいなくなった妹を探して今も彷徨っているというのか。その魂だか思念だかで。 
    胡散臭げだった人々も、気味の悪い怪談から人情話になりそうなせいか、納得したような雰囲気になってきた。
    確かに現にそんな気持ちの悪い声の噂が広がっている以上、これは落とし処としては取っ付き易いのだろう。 
    しかし僕は、最初に師匠が言っていた「言葉は発していたが、人間的なものを感じなかった」という言葉が引っ掛かっていた。
    そこまで言うのであれば、単純な霊などではないはずだ。 
    俄然井戸端会議になってしまった場所で、それぞれの雑談の波を越えて師匠はまだ涙を拭いているおばあさんに話しかけた。 
    「すみません。あと一つだけ。隣町へ引っ越した後、やよいさんはどうされました」 
    「……結婚されてどこかへ行かれていたはずですが、二十年くらい前に旦那様と死に別れて隣町へ戻ってらっしゃいました。 
    その後は私ともまた往来がございまして親しくしておりましたが、確かあれは五、六年前だったかと思いますが、胸を悪くして入院先の病院で亡くなりました」 
    「五、六年前」 
    師匠はそう呟くと、違う、というように首を振った。


    143 もういいかい  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2010/08/29(日) 22:20:53 ID:zEqctehg0
    「いいか。声が聞こえるという噂は、やよいさんの存命中からあった。では生霊か? 生霊になってまで昔いなくなった妹を探していたというのであれば美談だが、本人は隣町に住んでいるんだ。 
    生身で来ればいいんだから、わざわざ生霊になる必要もない。
    では昔妹がいなくなったことを普段は忘れているかほとんど認識していないとして、夜眠っている時にだけそれを思い出し、魂が肉体から離れて隣町から探しに来ているのか。 
    そして五、六年前にやよいさんが死んだ後も、今度は死霊となって以前と変わらない現れ方で妹を探し続けてる?」 
    師匠の囁きを聞いているとなんだかややこしくなってきた。 
    「生霊から死霊へそのまま引き継がれる怪異なんて聞いたことがない。それ以外にもめんどくさい前提が多すぎる。
    オッカムの剃刀というのは哲学だか論理学だかの言葉でな、ある現象を同じ程度にうまく説明する仮説があるなら、 
    より単純な方がより良い仮説である、っていう金言だ。私なら、こう仮説するね。
    『もういいかい』と言って探しに来ているのは松原やよいではない」 
    それはただの反論で仮説ではないでしょう。 
    そう返そうと思ったが、ぞくりとする悪寒に口をつぐんだ。 
    では一体なにが松原ちえを探して集会所を彷徨っているというのか。 
    僕らを無視してざわざわと思い思いの会話をしている人々の中で、師匠はゆっくりと考えをまとめるようとするように呟く。 
    「子どもなんだ。かくれんぼをしていた子ども。探しにくるはずの鬼。なかなか見つけてくれない。わたしはここにいるのに。ここに。
    この地面に下に。そうか。遊び相手だ。遊び相手がいない子どもはどうする? 孤独の中で架空の遊び相手を作る。 
    イマジナリー・コンパニオンだ」 
    師匠の独り言を聞いて僕も思い当たった。イマジナリー・コンパニオンは幼児期に特有の空想上の友だちのことだ。 
    しかし。 
    本来それは本人にしか見えないし、知覚できないもののはずだ。 
    「いや、触媒があれば、混線するように他者が知覚することもありうる」 
    経験があるのか、師匠はそう断言する。 
    「触媒って……」 
    問い掛ける僕に、師匠は地面を指さす。「本人だ」 

    145 もういいかい  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2010/08/29(日) 22:22:48 ID:zEqctehg0
    松原ちえの霊魂だか、残留思念だかを通して僕らにも彼女の架空の遊び相手の声が聞こえるというのか。
    この世にはいない、架空のかくれんぼの鬼の声が。 
    一体それはどんな姿をしているのだろう。 
    想像しかけた。 
    師匠の表情が変わる。「しまった」と口元が動く。 

    『もういいかい』 

    聞こえた。確かに聞こえた。またあの声が。 
    周囲を見たが、反応しているのは僕と師匠だけだった。みんなお喋りに夢中だ。しかし異常なものはなにも見つからない。 
    夜空や集会所の壁、台所の窓、プロパンのボンベ、そして地面を順番に見回すがなにも見つからない。 
    しかしゾクゾクと背筋の毛が逆立つ。なんだ。異様な気配。どこからともなく異様な気配を感じる。 
    まあだだよ、と言ってしまいたくなるのを必死で堪える。 
    師匠は脂汗を浮かべて目を剥いたまま俯いている。息が荒い。 
    「いま、わたしに、触るなよ」 
    それだけをようやく搾り出すように呟く。 
    口元が声にならない言葉を紡いでいた。僕はそれを読み取る。チャンネルが、あっちまった。と、そう言っている。 
    師匠には見えている。 
    胸が脈打つ。想像しまいとする。なにを想像したくないのか。もちろん、いないはずのかくれんぼの鬼。十歳そこそこの、知的障害を持つ少女が、父親に石で打ち殺された少女が、 
    そのまま地面の底に埋められた少女が、ずっと誰かがみつけてくれるのを待ち続けるその少女が、空想で創りあげた鬼。
    夜な夜な集会所を彷徨うなにか。 
    ああ、想像しまいとして、想像してしまう。思考が止まらない。 
    やがて、数分にも、数時間にも思える時間が過ぎ去り、硬直した肩を師匠が叩いた。 
    「もう消えた」 
    かくれんぼの鬼をやりすごすには、じっと息を殺して耐えるしかないということを今さら思い出す。 
    師匠の顔色は蒼白になっている。一体どんな恐ろしいものを見たのか。 


    148 もういいかい ラスト  ◆oJUBn2VTGE ウニ 今夜は終わり 2010/08/29(日) 22:24:12 ID:zEqctehg0
    顔を上げた師匠は慌しく、そこに集まった人々に向かって「今日はもう解散してください」と言った。 
    そして明日以降、なるべく早くこの下を掘り起こして遺体を見つけ、丁寧に弔ってあげてくださいと。 
    集まった人々がガヤガヤとそれでもなんとか全員帰ってくれた頃には夜の十時を過ぎていた。
    最後に残った鎌田さんに師匠は言った。 
    「もしこの下から遺体が出てきても、警察には私のことは言わないで下さい。
    地区で井戸を掘ろうとしたとか、なにか適当なことを言って上手く誤魔化して下さい」 
    「はあ」 
    反応が鈍い鎌田さんに念押しをする。大事な所だ。警察に目をつけられるとやりにくくてかなわない。
    今回のケースは古い話なのでまだいいが、彼らは犯人しか知りえないことを知っている者はとりあえず犯人と見做して対応するものだから。 
    「それから……」 
    師匠は少し言いよどんでから、「できたら」と続けた。 
    「みいつけた、と言ってあげて下さい」 
    鍵を返しながら、軽く頭を下げた。 

    1 なぞなぞ  ◆oJUBn2VTGE ウニ New! 2010/08/20(金) 23:41:34 ID:kFozVi3d0
    大学四回生の冬だった。
    俺は仲間三人と少し気の早い卒業旅行をした。 
    交代しながら車を運転し、北陸まわりで関東へと入った。
    宿の手配もない行き当たりばったりの旅で、ビジネスホテルに泊まれれば良い方。
    どこも満室で、しかたなく車の中で寒さに震えながら朝焼けを見たこともあった。 
    目的はない。ただ学生時代特有の怠惰で無為な時間の中に、もう少し全身を沈めていたかった。
    みんな多かれ少なかれそんな感傷に浸っていたのだと思う。 
    ある街に着いた時、俺はふと思いついた。知り合いがこのあたりに住んでいたはずだ。 
    携帯電話で連絡をしてみると、懐かしがってくれた。一時間くらいあとで落ち合うことにする。 
    並木道がきれいに伸びている新興住宅地の中を通り、路肩に下ろしてもらい「終わったら連絡くれ」と言って去っていく仲間の車を見送る。 
    都心から離れるとあの、人であふれた息の詰まるような町並みよりも、空間的にずいぶん余裕がでてくるようだった。 
    カラフルな煉瓦で舗装された道を自然と浮き足立つステップで進み、大きなマンションが群れるように立ち並ぶ方へ目をやる。 
    マンションというより、団地か。そこへ向かう道は軽く傾斜し、丘になっている。 
    その団地の入り口に公園があった。
    広い敷地には、わずかばかりの遊具とたくさんの緑、そして住民が憩うためのベンチがいくつかあった。 
    そこにその人は座っている。 
    小春日和の温かい日差しに目を細めながら、こちらに手を振る。 
    俺は照れ隠しに大げさな動作で手を振り返し、ことさらゆっくりと歩いていった。 
    「え~と、元気でしたか。……多田さん」 
    なんだか面映い。ここ数日、砕けた仲間同士の掛け合いしかしてなかったので、口が滑らかに動かない。 
    元気だとその人は言った。 
    以前より少しふっくらしたようだ。髪の毛も伸ばしている。なにより、あの真摯で鋭かった眼差しが柔らかくなっている気がする。 
    ベンチの隣に座って近況を報告した。 

    709 なぞなぞ  ◆oJUBn2VTGE ウニ New! 2010/08/20(金) 23:44:01 ID:kFozVi3d0
    昼下がりの公園は自分たちのほか、時おり主婦らしき若い女性が通りがかっては去っていくだけだった。 
    「そうか、おまえも卒業か」 
    感慨深げな声に、うしろめたい気持ちで頷いた。
    卒業を待つ仲間たちと違い、俺だけは単位が足りずに留年することが決まっていたからだった。 
    旅行なんてしている場合ではない気がするが、捨て鉢になっていたというわけでもない。
    ただそのころの俺は、すべてなるようにしかならない、という達観めいた平静の境地にあったような気がする。 
    けれど格好悪いのであえてその事実を告げることはなかった。 
    風の凪いだ陽だまりの中、二人でいろいろな話をした。たかだか二、三年前の過去が遥か遠い昔の出来事のように色あせて、それでも仄かな輝きとともに蘇ってくる。 
    「智恵も結婚したんだってな」 
    「ええ。二次会に呼ばれましたけど、あの人も変わりませんねえ」 
    相手はどんなやつだと言うので、「やっぱり、ああいうタイプの人でした」と答えると「なるほど」と笑った。 
    チリ紙交換の車がどこか遠くを走っている音がする。 
    顔を上げ、ハッとした表情を見せて、なにか思い出そうという風情だったが、すぐに「まだいいか」とつぶやいた。
    その横で俺は胸に小さな針が刺さったような微かな痛みを覚える。顔を伏せ、その痛みの正体はなんだろうと自問する。 
    「そういえば、この団地にも七不思議があってな」 
    ふいにその人は切り出した。 
    「え。学校によくあるあれですか」 
    「ああ。まあ小中学生も多いし、同じノリで生まれたんだろう」 
    そう言って順番に教えてくれた。 
    団地への上り坂を時速百キロで駆け上るババア。 
    夜中C棟の前のケヤキの木の枝にぶらさがる首。 
    夕方E棟の壁に映った自分の影が勝手に動く。 
    団地内の公衆電話BOXにお化けからの電話が掛かってくる。 
    ………… 


    710 本当にあった怖い名無し New! 2010/08/20(金) 23:45:59ID:Grhl+kuK0
    キターーーーーーーーーwww 

    711 なぞなぞ  ◆oJUBn2VTGE ウニ New! 2010/08/20(金) 23:48:55 ID:kFozVi3d0
    「わりと、よく聞くような話ですね」 
    「そうだな。でもこの団地の七不思議は子どもだけじゃなくて、主婦連中にも信じている人たちが多いみたいだ。
    時どき噂が聞こえてくるよ。手のかかる小さい子どもを持ち、狭い空間に押し込められた大人たちにも心の病巣があるということかな」 
    あそこを見てみな。 
    指さす先に目をやると、ブランコのそばに小ぶりなジャングルジムがぽつんと建っている。 
    「あのジャングルジムに、いつの間にか小さい子どもが入って遊んでるっていう話もある。見通しがいいし、あんな細いパイプの骨組みのどこかに隠れられるはずもないのに、誰もいなかったはずのジャングルジムの中に気がつくと男の子がひとり入っているんだ。 
    パイプを上り下りしながら内側を這いまわってるらしい。
    見てしまっても気がつかないふりをしていると、またいつの間にかいなくなってるんだと」 
    「まるで妖怪みたいですね。怪異に出会ってしまった時の対処法とセットで存在する噂だなんて」 
    「確かにな」 
    二人ともジャングルジムを見ていた。男の子の姿はない。 
    あの遊具があんなに小さかっただろうかと思う。自分にもあんな狭いパイプの中を這い回って遊んだ時代があったということが、なんだか不思議だ。 
    「子どもと言えば、こんな話もある。ベビーカーを押して母親が団地の中を散歩していると、周りに誰もいないのに、声が聞こえるんだ。キョロキョロしているとまた聞こえる。 
    囁くような小さな声。
    ベビーカーの中からだ。まだ喋れなかったのに、とうとう赤ん坊が喋れるようになったんだと喜んで母親がベビーカーの中を覗き込む。なのに赤ん坊はぐっすり眠っている…… いったいなにが赤ん坊に囁いていたのか」 
    「それは」 
    「なんだ」 
    怖い話ですね、と素直に言えなかった。なにか合理的な解釈ができないかと考えたが、情報が少なすぎた。 
    仕方なく、「ノイローゼじゃないですか。育児ノイローゼ」と言うと、「かもな」と頷いた。 
    そしてそのまま少し、遠い目をした。 

    712 本当にあった怖い名無し sage New! 2010/08/20(金) 23:52:58 ID:mMsLURDw0
    バカ上げんな 
    祭りになるぞwww 

    713 なぞなぞ  ◆oJUBn2VTGE ウニ New! 2010/08/20(金) 23:53:59 ID:kFozVi3d0
    ふいにカチャリという音が聞こえる。 
    地面に鍵が落ちている。ジーンズのポケットから落ちたらしい。屈んで手を伸ばし、拾ってあげる。 
    「すまんな、こんな状態で」 
    その人は窮屈そうに手のひらを広げ、受け取った。渡すとき、指先が触れてなんだか照れたような気分になる。 
    照れ隠しにそのまま指を折ってみせる。 
    「むっつですね。ここまでで」 
    「うん? ああ、七不思議か。そうだな。最後のひとつは面白いぞ」 
    面白い? それはオチ的なものだということだろうか。 
    「面白いというか、怪談として珍しいというのかな。こんな話だ」 
    そうして丁寧に話してくれた。 


    この団地には「なぞなぞおじさん」という怪談がある。 
    A棟の702号室にいるおじさんらしい。 
    どうしてなぞなぞおじさんなのかというと、読んで字のごとくなぞなぞが大好きなおじさんだからだ。 
    噂を聞いた子どもが702号室のドアの前に立って、コンコンとノックしたあとドアについている郵便受けをカタリと内側に押してから、部屋の中に向かって話しかける。 
    「おじさん、おじさん、クジラよりも大きくて、メダカよりも小さい生き物な~んだ?」 
    おじさんはなぞなぞが大好きだけど、なかなか答えがわからない。ずっとずっと考えている。ドアの前で待っていても返事はない。 
    仕方がないので引き返して自分の家に帰る。 
    答えはイルカ。そんなのイルカ! だからイルカ。こんなに簡単なのに、おじさんは分からないのだ。 
    子どもの住む団地の一室で、家族は寝静まり自分も部屋でもう寝ようとしているころ、玄関のドアをコンコンと叩く音が聞こえる。 
    家族が誰も起きないので、ベッドから這い出し、恐る恐る真っ暗な玄関に向かうと、コンコンとドアを叩く音が止まる。 

    714 本当にあった怖い名無し sage New! 2010/08/20(金) 23:59:05 ID:dHqURfAoO
    支援 

    715 なぞなぞ  ◆oJUBn2VTGE ウニ New! 2010/08/21(土) 00:00:05 ID:kFozVi3d0
    カタリとドアの郵便受けが開く音がする。 
    「クジラよりも大きくて、メダカよりも小さい生き物な~んだ?」 
    郵便受けから低い大人の声。その声は続ける。 
    「答えはね、泥。泥だよ」 
    子どもはどうしようもなく怖くなる。なぞなぞおじさんがやって来たのだ。こんな時間になって。 
    でもイルカなのに。答えはそんなのイルカ! なのに自分の声が出せない。 
    「泥だよ」 
    もう一度小さくつぶやいて、カタリと郵便受けが戻る。 
    ドアの向こうから気配が消える。おじさんが帰ったのだ。『泥』という意味のわからない答えを残して。 
    そんな噂。 
    団地の子どもたちはその噂を聞いて、面白半分に次々と702号室の郵便受けになぞなぞを放り込む。 
    「お父さんが嫌いなくだものはな~んだ?」 
    「公園で静かにそうっと乗るものな~んだ?」 
    「世界の真ん中にいる虫はな~んだ?」 
    …… 
    答えはパパイヤ。パパが嫌だから。 
    答えはシーソー。シーッとソーッと乗るから。 
    答えは蚊。せ・か・いの真ん中は「か」だから。 
    けれどなぞなぞおじさんはそんな簡単ななぞなぞが分からない。 
    夜中まで考えて、家族の寝静まる子どもの家にやってくるのだ。郵便受けから低い声で。 
    「お父さんが嫌いなくだものはね。歯の生えた梨」 
    「公園で静かにそうっと乗るものはね。刳り貫かれた楡の木」 
    「世界の真ん中にいる虫はね。鼻歩き」 
    …… 

    716 なぞなぞ  ◆oJUBn2VTGE ウニ New! 2010/08/21(土) 00:05:13 ID:kFozVi3d0
    その気持ちの悪い答えを聞いても、絶対に「違う」と言ってはいけない。 
    「違う」と言っても別のもっと気持ち悪い答えを低い声で囁いてくる。
    それを繰り返していると、自分でも本当の答えが分からなくなってくるのだ。 
    答えが分かるまでなぞなぞおじさんは帰らない。なのに答えが消えてしまう…… 


    「という話だ」 
    どうだ? というように見つめられる。 
    「それは」 
    確かに怖いが、まるで変質者だ。 
    「その702号室は無人なんですか」 
    「いや、おじさんが住んでるよ」 
    「え、じゃあ実在の人なんですか」 
    「そう。普通のおじさん。もちろんお化けなんかじゃない。団地の集会にも顔を出すし、近所づきあいも普通にしてる。
    むしろどうしてそんな噂が生まれたのか本人が一番首をかしげている」 
    「本人にも心あたりがないんですか」 
    「らしいよ。ただ、子ども好きでな。よく近所の子どもになぞなぞを出していたんだ。
    答えを当てられたら飴とかガムをあげていた。
    逆に子どもが出すなぞなぞに答えられなかったりしても、そういうお菓子を巻き上げられたりね」 
    それを聞きながら、俺はやっぱりそのおじさんがやってることなんじゃないかと感じた。ただ誇張されているだけで。 
    「奥さんがいるんだけど、ちょっと前まで共働きでな。昼間はたいていその家は留守なんだ。
    七不思議の噂ではその昼間に702号室に行くことになっている。
    それで郵便受けから部屋の中になぞなぞを一方的に話す。 
    肝心なことはそのなぞなぞおじさんは答えが分からなくて返事がない、ということがパターンになっていることだ。
    当たり前だな、誰も部屋の中にはいないんだから。でも夜にそのなぞなぞの答えを話しにやってくる、というところが変だろう。 
    なぜその誰も聞いていないはずのなぞなぞを知っているのか」 

    2 なぞなぞ  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2010/08/21(土) 00:22:00ID:8knY+Ox40
    そうか。子どもにとっては昼間に誰もいない家だからこそ、ノックをしてドアの郵便受けからなぞなぞを投げ掛けるなんていうイタズラができるのだ。なのに、いないはずの誰かにそのなぞなぞを聞かれている。 
    これはいったいどういうことだろう。 
    「答えがないから七不思議なんだろう。
    その702号室のおじさんは変な噂が立ったせいで奥さんに怒られて、今なぞなぞ禁止になってるよ。
    というか、近所の子どもと遊ぶの自体自粛中」 
    子どもが好きな人だろうに、少しかわいそうな気がするが世間体というものがある。
    ほとぼりがさめるまで仕方がないのかも知れない。 
    ほとぼり? 
    ふと思う。そんなもの、さめるのだろうか。一度七不思議になったものが、そう簡単に。 
    なにかきっかけになった事件や事故があったとしても、一度そういう怪談になってしまったものは、延々と子どもたちのコミュニティーの中で一人歩きをし、生きながらえていくのではないだろうか。 
    「いや、それがな。最近奥さんが仕事を休んでて家にいるようになったもんだから、子どもが昼間来ても郵便受けからなぞなぞを出した時点で追い返されてる。奥さんは怖い人だから、いずれ子どもたちも懲りるだろう」 
    そうか。それなら確かにほとぼりはさめるかも知れない。 
    七不思議が消えるのか。 
    笑ってしまった。 
    「可笑しいか」 
    頷く。 
    「でも、直接本人から聞いた話で、笑えないのがあるんだ」 
    「本人というは、そのおじさんですか」 
    「そう。まだ共働きのころ、たまたま仕事を休んでて昼間一人でいたらしいんだ。密かに楽しみにしてたのは、噂につられた子どもが実際にドアをノックしてなぞなぞを出してくるんじゃないかってこと。 
    もしそんなことがあったら、どうやって脅かしてやろうかとニヤニヤしてたらしい」 
    「全然懲りてないじゃないですか」 


    でも子どもがやってくる気配はない。それはそうだ。普段留守をしている平日の昼間なら、子どもたちだって学校があるはずだ。たまたま休校だとか、水曜日で午後は授業がないとか、そういう日じゃないと。 

    3 なぞなぞ  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2010/08/21(土) 00:25:11ID:8knY+Ox40
    子どもが来そうになかったので、近くのコンビニに買い物をしに行った。
    帰って来て702号室のドアの前に立った時、思いついてノックをしてみた。当然誰もいないから返事はない。ドアの郵便受けを親指で押し込んでみる。数センチ幅の隙間ができる。 
    屈んだまま子どもの真似をしてなぞなぞを出してみた。 
    『おじさん、おじさん、松の木の下ではお喋りしたかったのに、桜の木の下まで歩いたら綾取りをしたくなりました。な~ぜだ?』 
    ……返事はない。こんな馬鹿なことをしているのが恥ずかしくなって廊下をキョロキョロしてしまう。子どもたちはこれのどこを面白がっているんだろうと思いながらドアを開けて部屋に入る。中に誰かいたら嫌だなと思ったけど、もちろん誰もいない。 
    ホッとしてコンビニで買ったものを袋から出して冷蔵庫にしまっていると、玄関のドアをノックする音が聞こえる。
    はあい、と返事をして冷蔵庫を後ろ足で閉め、はい、はい、と言いながら玄関に行き、サンダルを引っ掛けてドアの鍵を外そうと手を伸ばす。 
    すると視線の下、郵便受けがカタリと鳴る。外の音がほんの少し流れ込んでくる。ざわざわざわざわ…… 
    あ、これは、と思った瞬間、声が聞こえる。 
    『おじさん、おじさん、松の木の下ではお喋りしたかったのに、桜の木の下まで歩いたら綾取りをしたくなりました。な~ぜだ?』 
    誰の声だ。鍵を外そうとした手が空中で止まる。 
    あれ? いつの間に夜になったんだろう。暗い。玄関が暗い。電気。電気をつけないと。 
    声は続ける。 
    『答えはね……』 
    木が変わったから。答えは気(木)が変わったからだ。心臓が激しく動いている。
    その、どこかで聞いたことのあるような、低い、男の声がささやくように言う。 
    『答えはね、桜の木の下には、死体が埋まっているから』 
    ……ドカン、とドアを蹴った。声は黙る。すぐにドアの鍵を外し、開け放つ。光が溢れる。
    さっきまでまるで深夜のように暗かったのが嘘みたいに。外には誰もいない。誰かが走り去る気配もない。 
    なんだ今のは? 足がガクガクする。自分の声のようだった。
    さっきまでドアの向こうに自分が立っていたのか? なにがなんだか分からなくて、ひたすら震えていた。 


    って、いう話。 

    4 なぞなぞ  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2010/08/21(土) 00:28:51ID:8knY+Ox40
    とおどけてみせるのを、俺は久しぶりにゾクゾクした気持ちで見つめていた。 
    「怖いですね」 
    完全に怪談だ。なぞなぞおじさんという七不思議に出てくる存在が、自分自身とは別個のもののように立ち現れている。
    まるで……  
    そこまで考えたとき、ハッとして横に座る人の顔を見た。 
    この人の周囲には、「それ」が多すぎる。 
    かつての自分の体験を記憶の底から呼び覚まそうとして、一瞬意識がこの場所から離れた。 
    その時だ。 
    俺の耳は子どもの声を拾った。ぐずるような声。近い。 
    ゾクリとしてジャングルジムに視線をやる。その中にさっきまでいなかったはずの子どもの姿を見てしまう気がして顔が強張る。 
    一秒、二秒、三秒…… 
    俺のその様子を見てその人も緊張したようだったが、やがて俺がなにを考えたか分かったようで苦笑する。 
    ああ、そうか。 
    俺はあえて見えない振りをしていたのだ。冷静になれば、なにも怪談話などではないのに。 
    照れくさくなり、「ちょっとトイレに」と言って立ち上がる。 
    「あっちにある」 
    指で示された方へ歩くことしばし。小ぎれいな公衆トイレを見つけて用を足し、俺はその場で考えた。 
    行ってみるか。 
    トイレの前にはC棟という刻印がされたクリーム色の壁がある。A棟は近い。
    挙動不審に見られない程度にキョロキョロしながら何色かに色分けされた舗装レンガの上を歩き、Aの刻印のある巨大な建物の前に立つ。 
    玄関でのセキュリティーはなかったので堂々と正面から入り込み、エレベーターに乗る。「7」を押すと、途中で止まることもなく目的地で扉が開いた。 
    平日の昼ひなか。太陽の角度の関係か、妙にひんやりした空気が漂っている廊下に出る。 
    静かだ。ここまで住民の誰とも出会わなかった。 

    5 本当にあった怖い名無し sage 2010/08/21(土) 00:33:16ID:CHDa6SViO
    ウニさんキタ━━(゚∀゚)━━!! 

    支援 

    6 なぞなぞ  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2010/08/21(土) 00:34:32ID:8knY+Ox40
    702号室は端の方だ。壁と良く似た色のドアが並んでいるのを横目で見ながら歩き、やがて702の表示を見つける。 
    ドアの両脇の壁に、自分で取り付けたのか、プラスチックの板があった。 
    『こどもたちのために禁煙を』 
    『喫煙は決められた場所で』 
    そんな活字が黒く刻まれている。 
    なぞなぞおじさんはどうやら、禁煙運動だか嫌煙運動だかをこの団地で推進している人らしい。
    団地の集会では、お母さんたちからは支持され、お父さん連中からは煙たがられているに違いない。 
    俺は小さく笑ってドアをノックする。 
    しばらく待っても反応はない。やはり仕事に出ているらしい。 
    ドアノブの横、下目の位置に横長の郵便受けの口がある。色は銀色。軽く屈んで右手の親指で押してみる。
    覗き込んでも部屋の中は見えない。ドアの内側に郵便物を受けるカバーがあるのだ。 
    少し大きめの声で言う。 
    「おじさん、おじさん、ヘビースモーカーがある朝急に禁煙したのはな~ぜだ?」 
    篭った声がそれでもカバーの向こう側に漏れて行くのが分かる。 
    けれど室内から人の気配はなく、なぞなぞに答える声もなかった。 
    しばらく待つ。静寂が耳に響く。耳鳴りがやって来そうで身構えているが、いつまで経ってもそれは来なかった。 
    カタリと郵便受けから指を離し、702号室を後にする。 
    一度廊下で振り返ったが、ほんの少しドアが開きかけている、なんてことはなかった。 
    A棟の玄関に降り立ち、出来るだけ遠回りして戻ろうと、来た方向の逆へ足を向ける。 
    なんとか迷わずに元の公園に戻ってくると、その人は逆方向から来た俺に、あれ? という表情をして、そしてすぐにニコリと笑った。 
    「気をつかわせたな」 
    ちょうど胸元をしまうところだった。 
    胸に抱いた赤ん坊はさっきまでぐずりかけていたのに、今は満足そうな顔で目を閉じている。
    赤ん坊の口をハンカチで軽く拭き、その人は俺に笑いかける。 

    7 なぞなぞ ラスト  ◆oJUBn2VTGE ウニ2010/08/21(土) 00:39:46 ID:8knY+Ox40
    「家に寄って行かないか」 
    その提案に一瞬迷ってから、遠慮をした。「友だちがもう迎えに来ますから」 
    「そうか、残念だな」とさほど残念そうでもなく言うと、その人は赤ん坊に向かって、「あぶぶ」と口をすぼめて見せた。 
    俺は、もう行って来ましたよ、と口の中で呟く。そうしながら、三桁の番号が印字された鍵があのタイミングでポケットから落ちたのは偶然なのかどうか考えている。 
    やがてその夢想も曖昧なままどこかに消え、ただ冬の合間に差し込まれた柔らかい小春日和の公園に立っている。 
    小春日和にあたる季節を、アメリカではインディアン・サマーと言うらしい。
    寒さの本格的な到来の前にぽっかりと訪れる、冬に向けた準備のための暖かな時間。春でも大げさだと思うが、夏とは凄い例えだ。 
    その時、ふいに思ったのだ。 
    数年前、人のいないプールで始まった自分の夏が、終わってしまったのはいつだろうかと。 
    思えば、ずっと夏だった。秋も、冬も、春も、またやって来た夏も。
    見たもの聞いたもの、やることなすこと、なにもかも無茶苦茶で、無茶苦茶なままずっと夏だった気がする。
    山の中に身を伏せて虫の音を聞いた秋も。寒さに震えた冬の夜の海辺でさえ。 
    やがて、別の世界に通じる扉がひとつ、ひとつと閉じて行き、気がつけば長かった夏も終わっていた。 
    『夏への扉』という小説がある。 
    その中でピートという猫は、十一もある家の外へ通じる扉を飼い主である主人公に次々と開けさせる。
    扉の向こうが冬であることに不満で、夏の世界へ通じる扉を探して主人公を急かすのだ。 
    何度寒さに失望しても、少なくともどれかひとつは夏への扉であると疑わずに。 
    俺は失望はしていない。そんな別の世界へ通じる扉などない方がいいということはよく分かっているからだ。 
    ただそのころ垣間見た、ありえない世界の景色に今さら感傷を覚えることはある。そんな傷が、胸に微かな痛みをもたらすのだろうか。 
    「じゃあ、さようなら」 
    手を振って公園を出る。 
    その人はベンチから立ち上がり、こちらを見送っている。 
    これからその人が帰る扉の向こうには、ありふれた生活があるのだろう。七不思議の世界などではなく。 
    俺はもう一度さようならと呟いて、歩きながらゆっくりと背を向けた。 
    小春日和のベンチと、ずっと抱いていた遠く仄かな輝きと、そしてかつて愛した夏への扉に。

    1 通夜  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/11/14(土) 00:07:01 ID:vynNPKLZ0
    女の子はその暗い廊下が好きではなかった。 
    かび臭く嫌な匂いが壁や床に染み付いている気がして、そこを通るときにはどうしても息を殺してしまう。
    その廊下の先にはおじいちゃんの部屋があった。女の子が生まれたころからずっとそこで寝ている。
    足が悪いのだと聞いたけれど、どうして悪くしたのかは知らなかった。 
    昔は大工の棟梁をしていたと自慢げに話してくれたことがあったから、きっと高いところから落っこちたんだろうと勝手に思っていた。 
    部屋を訪ねるとおじいちゃんはいつも喜んでくれて、お話をしてくれたりお菓子をくれたり、時にはお小遣いをくれることもあった。そんなことがお母さんに知られると怒られるのはおじいちゃんだった。 
    「近ごろの嫁は、口の利き方がなっておらん」とぶつぶつ言いながらしょげえり、そんなことがあった夜には痛い痛いと大げさに騒いでお父さんに気の済むまで足を揉ませた。 
    「あてつけ」という言葉を知ったのは、そんな時にぼやくお母さんの口からだった。 
    その日も女の子はミシミシと音を立てる暗い廊下を通ってその奥にある襖に手をかけた。 
    おじいちゃん、と言いながら中腰で襖を開け、膝を擦るように部屋の中に滑り込む。薄暗い室内は空気が逃げ場もなく淀んでいて、外の廊下よりも嫌な匂いがした。

    部屋の真ん中に布団がある。女の子が覚えている限り、そこに布団が敷かれていない時はなかった。 
    おじいちゃん。 
    ここに来ると自然に甘ったるい声が出る。その語尾がひくりと掻き消えた。 
    うっすらと膨らんだ掛け布団から顔が出ている。
    その顔の方から、いつものかび臭さではない、異様な匂いが漂ってきていた。 
    唾を飲み込みながら目を凝らして近づいていくと、蝋のように白い、それでいて光沢のない顔が天井を仰いでいた。口元にはなにか液体が垂れたような跡があった。嫌な匂いはそこからしているようだ。 
    おじいちゃん。 
    もう一度呼びかけてみたが、反応はなかった。 
    膝が震えた。 
    眠りが浅く、いつもは誰かが部屋に入って来るだけで起きてしまうのに。 



    866 通夜  ◆oJUBn2VTGE ウニ  投下しようと思ったらとばっちりアク禁で 2009/11/14(土) 00:11:41ID:wTRxtdGI0
    吐いたものが喉に詰まったんだと思った。すぐに掻き出してあげないといけない、そう思っても身体が動かない。
    部屋の中は冷え切っていて、視線の先には生きている者の気配はまったくなかった。 
    布団の端から手が出ていたけれど、皺だらけのそれは力なくだらんと伸びている。
    恐る恐る触れてみるが、そのあまりの冷たさに息を飲んで指を引っ込めた。
    まるで吹きさらしの大根を触るようだった。 
    どうしよう。おじいちゃんが死んじゃった。 
    女の子はうろたえて部屋の中をキョロキョロと見回した。
    大人を呼ばないといけないというあたりまえのことが思いつけなかった。 
    どうしようどうしよう。 
    彷徨う女の子の視線の中に、背の低い箪笥が映った。おじいちゃんと同じくらい年を取った黒っぽい箪笥。
    煤けたその木目を見ていると自分の胸が高鳴り始めていることに気づく。 
    その箪笥の一番下の引き出しには綺麗な色の巾着袋が仕舞ってあるはずだった。
    そしてその袋の中には、大粒の真珠をあしらった指輪が眠っている。 
    女の子が今よりもっと小さかったころ、おじいちゃんが一度だけ見せてくれたのだ。
    死んだおばあちゃんの形見だといって照れたように笑いながら。 
    おばあちゃんが死ぬ少し前に、ずっと欲しがっていたその指輪をこっそり買ってあげたのだという。
    今際のきわに指に嵌めてやると、おばあちゃんはただぽろぽろと涙を流していたそうだ。 
    「お父さんもお母さんも知らないんだ」といった時のいたずら小僧のような顔は今も忘れられない。 
    一度見せてもらってからというもの、女の子はその指輪が気に入ってしまい、何度も欲しい欲しいとせがんだ。
    でもこればかりは遣れんとおじいちゃんも譲らなかった。 
    「お嫁に行っても?」と訊くと、少し困った顔をしたあとで「お嫁に行ってもだ」と答えた。 
    また見せてといっても、「もういかん」と怒ったように首を振り、こっそり見ようにもおじいちゃんはいつもこの部屋にいて目を光らせているので、箪笥を覗く隙もなかった。 
    そのおじいちゃんが、死んだ。 

    868 通夜  ◆oJUBn2VTGE ウニ  ネットカフェにやってきました 2009/11/14(土) 00:13:32 ID:wTRxtdGI0
    どきどきと身体の中から音がする。 
    今なら指輪を見られる。見ても怒られずにすむ。 
    いけないことだと分かっていながら、勝手に動く足が、腕が、指が止められない。息を詰まらせながら箪笥を引き、家の中の微かな物音に怯えながら巾着袋を探り当てる。 
    震える指で袋の口を縛っていた紐を解くと、中には色いろ大事そうなものが入っているのが見えた。
    紙の類を掻き分けながら探っていると指先に硬い小箱の感触があった。 
    ゆっくりとそれを袋から出す。両手を添えて蓋を開けると、見覚えのある指輪が出てきた。 
    真珠の指輪だった。 
    悪い子だ悪い子だ。 
    自分を罵る自分の声が聞こえた。だって、見るだけだから、見るだけだからと自分で自分に言い聞かせながら、本当の本当はこうするつもりだったんだから。 
    女の子はスカートのポケットに指輪をすとんと落とした。 
    空の小箱を袋に戻し、どうしようもなく暗い気持ちで目を泳がせながら箪笥の方に向き直ったその瞬間、女の子の耳は「ぶぶ」という音をとらえた。 
    ひやりと背中を冷たい手が撫でていった気がした。
    袋を持ったまま、首をめぐらせると、そこには布団に仰向けに横たわったままのおじいちゃんがいる。
    他には動くものの影ひとつつない。 
    とくんとくんと脈打つ胸を押さえながらゆっくりと布団に近づく。 
    斜め上から首を伸ばし、その凍りついたような顔を覗き込む。
    白目を剥き、口からは吐瀉物を溢れさせたままで、見るも恐ろしい苦悶の表情がそこに貼り付いていた。 
    ぶぶ。 
    また音がした。 
    おじいちゃんの喉が微かに動いた。 
    悲鳴を飲み込んだ女の子の両手の指が、痙攣するように顔の横で開いた。
    巾着袋がおじいちゃんの手の先に落ちる。 
    足が自然と後ずさり、畳の上を滑るように布団から離れると女の子は部屋から逃げ出した。 
    混乱する頭で薄暗い廊下を抜け、自分の部屋に飛び込む。 
    どうして。どうして。 
    そんな言葉ばかりがぐるぐると回っている。死んでいたのに。死んでいたのに。どうして。 

    869 通夜  ◆oJUBn2VTGE ウニ こんな時間になってしまいました すみません 2009/11/14(土) 00:16:05ID:wTRxtdGI0
    それから部屋の隅でうずくまったままガタガタと震え続けた。
    脳裏にあの恐ろしい死に顔と、「ぶぶ」という気味の悪い音が何度も蘇り、そのたびに目を強く瞑り、耳を塞いだ。 
    どれほどの時間が経ったのか、やがて家の中の静けさが一筋の悲鳴に破られた。 
    「おやじが死んでる」 
    お父さんの声だった。女の子はびくりとして顔を上げる。ついで「はやく来てくれ」という怒鳴り声。 
    耳を澄ましていると、ドタドタという家族の足音がいくつも重なって聞こえた。 
    女の子はおっくうな重い腰を上げて自分の部屋から顔を出す。
    その鼻の先を掠めるように、布巾を手にしたお母さんが駆けていった。 
    やがておじいちゃんの部屋の方から騒々しい声が溢れ始める。 
    死んでた? やっぱりおじいちゃんは…… 
    なぜか今ごろになって涙が出てきた。悲しいという感情がようやく全身に巡り始めたようだった。 
    のそのそと立ち上がり、廊下に出る。
    みんなの声のする方へと足を運ぶと、おじいちゃんの部屋からお父さんの喚き声が流れてきた。 
    お父さんは布団に取りすがりながら「おうおう」と泣いていて、お兄ちゃんとお姉ちゃんはオロオロとするばかりだった。お母さんはおじいちゃんの口元を拭きながら、近所のお医者を呼んでくるようお兄ちゃんに言いつけていた。 
    襖のそばで立ちすくみながらその光景を見ていた女の子は、部屋のある部分に目を遣った瞬間、そこに釘付けになった。 
    箪笥が閉じている。 
    思い返せば、巾着袋を箪笥に戻す前に部屋から逃げてきてしまったはずだった。
    そのままにしておけば、自分が指輪を取ったことが家族に分かってしまうかも知れないということにまで頭が回らなかった。 
    なのにその箪笥が今、目の前で何ごともなかったかのようにおじいちゃんの死を囲む背景に溶け込んでいた。 
    そうだ。巾着袋は? 
    女の子はキョロキョロと見回すが布団の周りには落ちていなかった。
    そこにいる家族の手元を見ても誰も持っていない。 
    それほど広い部屋ではない。どこにも見あたらないのはすぐに分かった。 
    息が苦しい。 

    870 通夜  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/11/14(土) 00:18:45 ID:wTRxtdGI0
    女の子は胸元を押さえながら、ひたひたと背中の方からにじり寄ってくるような恐怖と戦っていた。 
    おじいちゃんが元に戻したの? 
    そうとしか考えられなかった。自分が部屋から逃げ出したあと、布団からむっくりと起き上がったおじいちゃんが巾着袋を拾い上げ、箪笥にそっと戻した…… 
    だとしたら。 
    女の子は震えながら涙を流した。さっきまでの悲しくて出てくる涙とは違う。 
    スカートのポケットの中の微かな感触が途方もない罪悪感となって溢れ出してきたのだ。 
    おじいちゃんが大事にしていたおばあちゃんの形見の指輪を、盗った。 
    それを思うと立っていられないほど哀しくなった。 



    師匠から聞いた話だ。 


    大学一回生の冬だった。 
    バイトの帰り道、寒空の下を俯いて歩いていると、闇夜に浮かび上がる柔らかい明かりに気付いた。 
    提灯だ。 
    住宅街の真ん中に大きな提灯が立っていて、その周りにはいくつかの影が蠢いているのが見て取れた。 
    「お通夜だな」 
    隣を歩いていた女性がぼそりと言う。
    加奈子さんというさっきまで同じバイトをしていた仲間で、その家まで送って帰るところだった。 
    近づくにつれて、提灯の表面に「丸に桔梗」の家紋が浮かび上がってくる。
    その抑えた黄色い光には、なんとも言えない物悲しい風情があって、なんだかこっちまでしんみりしてしまった。 
    その提灯が飾られる家の門の前で黒いスーツ姿の人々がひそひそと何ごとか交し合っている。 
    立派な日本家屋で、門の前を通る時にこっそり中を覗き込んでみると門と広々とした玄関の間の石畳にテーブルが置かれていてそこにも多くの人々がたむろしていた。お通夜の受付なのだろう。 

    871 通夜  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/11/14(土) 00:22:23 ID:wTRxtdGI0
    目を凝らしていると受付の若い女の人と目が合ってしまい、彼女のどうぞというジェスチャーに対して、聞こえる距離ではないのに「いや、違うんです」と小声で言い訳をしながらその場を離れた。 
    「珍しいか、お通夜が」 
    「別に」 
    そう答えながら僕は、最後に行ったお通夜はいつ、誰の時だっただろうということを思い出そうとしていた。 
    ざわざわした気配が遠ざかっていくのを背中に感じながら歩いていると、加奈子さんがふと立ち止まったのが分かった。 
    振り向いて、どうしたんですと言おうとすると、その目が横の暗闇の方へ向けられているのに気づいて口をつぐんだ。 
    気持ち足音を殺して近づいて行き、視線の先を追うとそこには明かりのない狭い路地が伸びていた。 
    お通夜をしていた家をぐるりと取り囲む塀と、隣の家の垣根に挟まれた小さな空間だった。 
    街灯から離れていて夜目にも視界がはっきりしなかったが、その路地を塞ぐようになにかの木箱や粗大ごみにしか思えないようなものが置かれているようだった。 
    たまたま置き場に困ったものをひとまず置いてあるようにも思えたし、ここを通したくないという暗黙の意思表示にも思えた。 
    その木箱の奥に、微かに淡い月光を反射するものが見えた。 
    なんだろうと思って首を伸ばそうする横で、加奈子さんがゆっくりと近づいて行った。古ぼけたソファーが斜めに塀に立てかけられていて道を塞いでいる。その手前まで来ると、光がその向こうの木箱の後ろに隠れる誰かの瞳だと分かる。 
    怯えたように瞬いた光が、それでも僕らがこれ以上近づいてこないと分かったのか、静かにこちらを向いている。 
    「どうしたの」 
    加奈子さんが呼びかける。 
    しばらくして「隠れてるの」という、か細い声がした。女の子の声だった。 
    「どうして」 
    その問いには答えは帰ってこなかった。 


    872 通夜  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/11/14(土) 00:24:30 ID:wTRxtdGI0
    風が冷たい。誰も動かず、ただ静かな時が流れた。 
    やがてその空気を切り裂くように、塀の向こうから大きな怒鳴り声が響いてきた。 
    『サチコッ、どこ行ったの。サチコ!』 
    その声にビクリと反応して、木箱の後ろにさらに身体を縮込ませる気配があった。 
    塀の方に目をやった加奈子さんがぽつりと言う。 
    「今のはお母さん? お母さんから隠れてるの?」 
    じっと待っていると、やがてほうと漏れるように小さな声がした。 
    「怖いの」 
    「怖い? お母さんが?」 
    かぶりを振る気配。 
    待っても返事はなかった。加奈子さんは腰に手を当てながら続ける。 
    「こんなことにずっといたら風邪引くよ。今、お通夜をやってるよね。行かないの?」 
    お通夜。 
    そうか。この子はお通夜が怖いんだ。僕は一人合点した。自分にも経験がある。
    死んだ人間の顔を見たり、そのそばで夜を明かすという風習をはじめて知った時はわけもなく怖くなった覚えがある。 
    昨日まで息をしていた肉親がもう動かない死体になってそこにあるという、恐怖。 
    この小さな女の子の心中を思うと、なんだかこっちまで陰鬱な気持ちになってきた。 
    「ねえ、なにが怖いの。教えてくれない?」 
    加奈子さんはその場に屈み込んで、教えてくれるまで動かないぞという意思を示した。
    仕方なく僕もそれに習う。 
    本当は早く帰りたかった。寒い。もっと厚着してくれば良かったと今さら後悔する。 
    やがて木箱の後ろに隠れたまま、ぽつりぽつりと震える声で女の子は語り始めた。 
    冷たい風に身体を小さくして仕方なくそれを聞いていると、ふいにぴたりと膝の震えが止まった。 
    かわりに身体の中からもっと冷たいなにかがじわりじわりと沸いてくるのを感じていた。 


    女の子が語ったのは奇妙な話だった。 
    祖父の死に出くわした彼女が、それを家族に告げる前に祖母の形見だという真珠の指輪を盗んでしまう。
    その時、彼女の耳は死体だと思っていた祖父の喉から発せられる「ぶぶ」という気味の悪い音を聞く。 

    873 通夜  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/11/14(土) 00:28:52 ID:wTRxtdGI0
    怯えて逃げ出した彼女が自分の部屋でうずくまっているとやがて家族が祖父の死に気づき、大騒ぎになる。 
    そのさなか、祖父の部屋に戻った彼女は元通りになった箪笥を目にする。
    そして忽然と消えてしまった巾着袋。 
    まるで死んでいたはずの祖父が片付けてしまったかのように…… 
        

    語り終えた女の子が息を飲むように小さな音を立てる。 
    ゾクゾクした。思いもかけない話だった。 
    彼女の話を聞く限り、祖父の死因は吐瀉物を喉に詰まらせての窒息死だろう。
    その様子の描写からして、その時点で死んでいたのはまず間違いないと思われる。 
    その死体の喉から音がして、残されたはずの袋は消え、箪笥は片付けられていた。
    このことから導き出されるのは、どう考えても薄ら寒い想像ばかりだった。 
    もし仮に祖父が生きていたなら、彼女はその目前で彼を助けようともせず、大切にしてた形見の指輪を盗んでしまったのだ。 
    その後、ほどなくして本当に息絶えてしまう祖父の死に際に、とんでもない罰当たりなことをしてしまったことになる。 
    そんな彼女の心中を思うと、胸がしめつけられるように痛んだ。 
    そしてもし仮に、祖父が初めから死んでいたとすると…… 
    自分の周囲の暗闇が一層濃くなった気がしてそっと息を吐く。 
    師匠はこの話を聞いてどう思っただろうと横目で伺う。 
    加奈子さんはこうした話を蒐集するマニアで、僕は彼女を師匠と呼んで憚らなかった。 
    「その、巾着袋は結局箪笥の中に戻ってたの?」 
    その師匠が闇に向かって静かに問い掛けた。 
    沈黙が続いたが、やがてぽつりと返答があった。 
    「うん」 
    「指輪は?」 
    「……戻した。あとで」 
    「怖くなったから?」 
    「……うん」 
    「お医者さんはおじいちゃんのことをなんて言ってた」 
    「……ちっそく、だって」 


    874 通夜  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/11/14(土) 00:35:46 ID:wTRxtdGI0
    「死亡推定時刻……ううん、死んだ時間は?」 
    かぶりを振る気配。 
    師匠は少し黙った。 
    塀の向こうではその死を悼むお通夜が営まれている。吐く息が冷たい。 
    生きていたのか。死んでいたのか。 
    そのどちらも女の子にとって救いのない答えだった。 
    その子がお通夜に出ることもできず、ここでこうしてうずくまっていることを思うとどうしようもなく哀しくなる。 
    きっと祖父の死顔を見ることができないのだろう。
    祖父の死に際して自分のしたことが、彼女をこれからも苛み続ける。 
    そう思っていた時、僕の中に一筋の光が見えた。 
    そうだ。祖父は戻したのだ。巾着袋を箪笥に。何ごともなかったかのように。そう。孫娘の盗みという悲しい行為もなかったようにだ。 
    他の家族に知られぬように、祖父は今際のきわに最後の力を振り絞って孫をかばったのだ。
    あるいは、すでに息を引き取っていながら、その死体が動き…… 
    その光景を想像し、ぞくりと肩を竦める。 
    ともかく嘘でも何でも僕はこの想像に飛びつくしかなかった。これしか目の前でうずくまる女の子を救う方法が思いつかなかった。 
    「あのさ」 
    口を開きかけたその僕を師匠の片手が制した。黙っていろ、という目つきで睨みつけられる。 
    なぜか分からず困惑する僕を尻目に、師匠はたった一言木箱の向こうに問い掛けた。 
    「お父さんは、こう言ったんだね。『おやじが死んでる、はやく来てくれ』って」 
    それを聞いた瞬間、全身の毛が逆立つような気がした。 
    質問の真意は分からない。分からないまま、僕はなにか恐ろしいことが始まるという予感に身体を縛られてた。 
    木箱の向こうから返答がある。 
    「そう」 
    「あなたはそのあと耳を澄ましていた。そうね?」 
    「うん」 

    877 通夜  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/11/14(土) 00:43:00 ID:wTRxtdGI0
    「もう一度訊くよ。お父さんは『おやじが死んでる、はやく来てくれ』と、それだけを言ったのね?」 
    ゾクゾクする。歯の根が合わない。気温の低さだけではない。なんだ。師匠はなにを言いたいんだ。 
    「……うん、そう」 
    ふ。という吐息。師匠はなにか覚悟を決めたように一瞬だけ目を閉じ、そして開いた。 
    「だったらお母さんは、どうして布巾を持って行ったの」 
    あ。 
    呆けたように口を開いた瞬間、唇の端がぱっくりと割れ、軽い痛みが走った。 
    そうだ。母親は布巾を持って行って、祖父の口の吐瀉物を拭いている。
    だが、父親は祖父が死んでるから早く来てくれ、という呼びかけしかしていないのだ。 
    祖父は食事の最中でもなかった。ただ死んでいると聞いただけで、どうして布巾が必要だと分かったのだろう。 
    答えは自ずと見えてくる。 
    母親も、祖父の死を知っていたのだ。その死に方を。 
    なのに女の子と同じく、それを黙っていた。父親が気付いて騒ぎ出すまで。 
    そのことから導き出される絵は? 
    「あなたが部屋から逃げたあと、次に部屋に入ったのはお母さんだった」 
    師匠は淡々と語った。 
    母親の目に飛び込んで来たのは、吐瀉物を詰まらせた祖父の死に顔だった。
    驚いて布団に近づいた彼女は、その祖父の手元に転がる巾着袋に気付く。 
    祖父が死ぬ間際に中をあらためていたのか、袋の口が開いている。 
    母親は誰かの声を聞く。心の中の、暗く、奥深い場所から囁く声。 
    袋の中を覗く。大事そうなものが色々と入っている。例えば紙の類……お札。 
    彼女はそれを抜き取り、視線の先に一つだけ開いている箪笥の引き出しをとらえる。 
    巾着袋の口を閉め、引き出しにそっと戻す。 
    そして祖父を残したまま部屋を出る。廊下の途中で誰かに出会えば、「おじいちゃんが死んでる」と喚けばいい。けれど誰にも会わなかった。 
    それならばそれでいい。一番に死体を見付けなければ、絶対に疑われることはないから。 
    なにかと言えば自分にあてつけがましい意地悪をする祖父が、ずっと居座っていた部屋なのだ。 
    881 通夜  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/11/14(土) 01:00:05 ID:wTRxtdGI0
    例え大事なものが無くなっていたところで、その目が光っている部屋の物を取るなんて、出来っこないのだから。 
    そう。祖父の死に出くわしでもしない限りは…… 
    「おじいさんの喉から音がしたのは、お腹で発生したガスが逃げ場を失って立てたものね」 
    師匠はあっさりと言った。 
    「あなたのおじいさんは生き返ったわけでも、まして死んでいながら動き出したわけでもない。だから」 
    言葉を切った。 
    続きを待ったが、師匠はそれを口にしなかった。 
    沈黙。 
    僕は寒さに両肩を縮めながら、微かな違和感を覚えていた。 
    師匠の語った真実、それは彼女の提示しただけのもので、けっしてたった一つの確かなものだという確証はなかった。僕はさっき言おうとして止められた自分なりの真実をもう一度持ち出して、互いを比べてみた。 
    比べるとはっきりと分かる。師匠の真実は強引なところもあるが本筋は論理的で、他者を頷かせるだけのものだった。けれどたった一つ、明らかに欠けているものがある。 
    それはこの、祖父のお通夜にも出られない、思いつめた小さな女の子に対してもっとも必要なものだった。 
    「どうして、そんな、思いやりのないことを言うんです」 
    僕は口の中で呟いた。 
    悲しくなった。僕にだけあとでそっと教えてくれれば良かったのだ。どうしてこの場で、彼女の前で言う必要があったのか。自分の母親のした、救いのない行為を。 
    師匠は厳しい表情で暗闇の奥を見つめている。木箱の向こうには息を潜める気配。 
    その時、塀の向こうから大きな声が上った。 
    『サチコッ』 
    さっきの女性の声だ。思わず首を竦める。けれど、その後に続いた言葉を聞いた瞬間、得体の知れない寒気が走った。 
    『サチコッ、どこ行ってたのよ、この忙しい時にまったくあんたって子は』 
    思わず向いた塀の方から、ゆっくりと首を戻す。ギシギシと首の骨が軋むような音がする。 

    882 通夜  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/11/14(土) 01:01:06 ID:wTRxtdGI0
    道を塞ぐソファーの向こう、堆く積まれた木箱の陰にひっそりと隠れる小さなものの気配。 
    なんとなくこの子がそのサチコちゃんだと思っていた。 
    違うらしい。 
    では、この子はだれ? 
    また女性の声が夜のほとりに響いた。 
    『ほらほら、早く行っておばあちゃんのお顔見てあげなさい。ちゃんと綺麗にしてもらってるから怖いことなんてないのよ』 
    …… 
    おばあちゃん? 
    ドキンドキンと心臓が波打つ。 
    死んだのはおじいちゃんのはずでは? 
    なんだ? なんだこれ。 
    身体が震える。唇の端にプツリと血が膨らむのを感じた。 
    木箱の向こうに何かがいる。 
    薄っすらと顔だけが見える。 
    光に照らされているわけではない。月は雲に覆われ、今はまったく見えない。 
    ただ、暗闇にそういう色が着いたとでもいうように、青白い、蝋のような、それでいて光沢のない顔が浮かんでいた。 
    僕はそこから目を逸らせない。 
    首筋が緊張している。顔も動かせない。 
    木箱の陰に幼い女の子の顔だけが凍りついたように浮かんでいる。そしてそれはやがてぐにゃぐにゃと蠢き、端のほうからほつれるように段々と薄くなっていった。 
    そして最後に、完全に消え去る瞬間、それは老婆の顔になって何ごとか告げるように口を開く―― 
    消えた。 
    もう見えない。なにも。 
    けれど僕の頭の中には、デスマスクのようにその最後の顔がこびりついていた。 
    肩を叩かれ、我に返った。 
    「もういない。いなくなった」 
    師匠は立ち上がり、興味を無くしたように狭い路地の奥に背を向けた。 
    そしてはじめて寒そうに肩を震わせると軽く屈伸運動をする。 

    883 通夜 ラスト  ◆oJUBn2VTGE ウニ2009/11/14(土) 01:02:55 ID:wTRxtdGI0
    「まあ要するにだ」 
    ぐっと沈み込む。 
    「頼朝公、幼少のみぎりのされこうべ、ってやつだな」 
    伸ばす。 
    「死んだやつが世に惑うに、死に際の姿で出てくるとは限らないってことだ」 
    沈み込む。 
    「相応しい場所には相応しい姿で現れる。彼女自身のお通夜に相応しいのは、あの子どものころの姿だった」 
    伸ばす。 
    「なぜって? ずっと心にわだかまっていたからだろう。ずっと昔、自分の祖父の死の際に起きたことが。
    それが自分の死の際に蘇ったんだ。身体は死化粧をされ、棺おけの中に収められていても、魂はこんな場所に隠れていた。 
    お通夜に参加なんか出来なかったんだ。あの時起こった出来事の意味が分かるまで、ずっと」 
    そうか。 
    だから師匠は口にしたのだ。あの思いやりに欠けた真実を。 
    「じいさんがされたように、あの子も嫁にはいびられたみたいだね」 
    そう呟いて師匠は通りの方へ足を向けた。 
    僕はついて行きながら「どうしてです」と訊く。 
    「だって、声を聞いた瞬間、怯えたじゃないか」 
    あ、そうか。サチコという女の子を捜す母親の声だ。それを聞いた時の反応に、僕は木箱の向こうの女の子がサチコという名前なのだと勘違いしたのだ。 
    師匠は塀を横目に来た道を戻り、家紋の浮かぶ提灯が二つ並んでいる門の前まで来た。 
    「あの」 
    門の前で煙草を吹かしていた男性に声を掛ける。 
    「なにか」 
    「ここのおばあちゃん、亡くなったんですね」 
    「ああ。俺の叔母なんだけどね。ホントいきなりぽっくり逝ったからびっくりして飛行機に飛び乗って来たんだ」 
    「おばあちゃん、お名前はなんといいましたっけ?」 
    師匠は教えられたその名前を口の中で繰り返した。 
    「どうもありがとう」 
    そう言って踵を返すところを止められた。 
    「あれ。顔みていかないの? お通夜やってるよ」 
    師匠はかぶりを振った。 
    「少し、話したことがあるだけですから」 
    微笑んだあと、僕に向かって帰ろうと言った。

    1 四つの顔  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/11(日) 22:41:09ID:e4PX3/wx0
    大学一回生の冬だった。 
    そのころ俺は大学に入ってから始めたインターネットにはまっていて、特に地元のオカルト系フォーラムに入り浸っていた。 
    かなり活発に書き込みがあり、オフ会も頻繁に行われていたのだが、その多くは居酒屋で噂話や怪談話の類を交換して楽しむという程度で、一応「黒魔術を語ろうという」というテーマはあったものの、 
    本格的にその趣旨を実行しているのはごく一部の主要メンバーだけという有様だった。 
    俺もまた黒魔術などという得体の知れないものを勉強しようという気はさらさらなく、その独特のオカルティックなノリを緩く楽しみたいという、ただそれだけの動機だった。 
    そんなある日、いつものように居酒屋でオフ会をしたあと、Coloさんというフォーラムの中心メンバーの家に有志だけが集った二次会が開かれた。 
    その前の居酒屋ステージで、はじめてオフに参加したという軽薄そうな男が京介さんというハンドルネームの女性にしつこく言い寄り、ついに彼女がキレて一人で帰ってしまうという騒動があったせいで白けたムードが漂い、常連だけで飲みなおそうということになったのだ。 
    マンションにあるColoさんの部屋で買い込んできたお酒をダラダラと飲んでいると、自然とオカルト話になる。俺を含め、全部で五人。 
    そういう話が好きな面子が揃っているから当然なのだが、考えるとこれだけ何度も集まりながらまだ話すネタがあるというのが結構凄い。 
    特に沢田さんという女性と山下さんという男性は怪談話の宝庫だった。 
    沢田さんは看護婦をしていて、実体験はあまりないものの、病院にまつわる怖い話をかなり蒐集しており、その頼りなげな語り口は恐怖心を必要以上に煽ったものだった。 
    山下さんは三十年配の最年長組で、霊感が強いのか体験談がやたらと多く、他のメンバーからは「半分以上眉ツバ」などとからかわれていたものの、時に異様なリアリティで迫ることもあり、一目置かれた存在だった。 
    その夜も沢田さんの病院話とみかっちさんという女性の子どものころの話、それから山下さんの話とが順番に語られていった。 
    その中でも一番印象に残ったのが、山下さんがボソボソと語った「疲れてくると人間の顔が四パターンしか見えなくなる」という話だった。 


    583 四つの顔  ◆oJUBn2VTGE ウニ また変な所に改行が?! 2009/10/11(日) 22:44:35 ID:e4PX3/wx0
    俺はかなり眠くなっていて、みかっちさんに「寝るな」と小突かれていたのだが、カシュン、という缶ビールのプルトップが開く音に反応して頭が多少クリアになった。 
    「ぼ、僕はね。疲れると四つのパターンしか顔が見えなくなるんだ」 
    山下さんは缶ビールから口を離し、おずおずとそう切り出した。 
    「なにそれ。四パターン? それ以外の顔は?」 
    十歳以上年下のはずだが、みかっちさんは少しでも顔見知りになった人にはたいていタメ口だ。 
    「だから、人間全部が四パターンのどれかの顔になるんだ」 
    「はあ? なわけないじゃん」 
    「ま、まあ僕にそう見えるってだけで……」 
    せめられてるような表情をして口をつぐみかけたので、俺はみかっちさんを制して続きを促す。 
    「と、言っても、よっぽど疲れたときだけなんだけど。なんかこう、疲れて外歩いてると、道行く人の顔がだんだん同じように見えてきて、く、区別がつかなくなるんだ」 
    「それ、疲れてるんだって」とみかっちさんが口を出し、我ながら面白いことを言ったとでも思ったのかやたら一人でウケて笑いはじめた。 
    「うるさいな、もういいよ」 
    山下さんは怒り出し、目つきが鋭くなった。 
    彼にはエキセントリックな所があり、俺は少し扱いづらい人だという認識をしていた。 
    沢田さんがみかっちさんの口を塞ぎ、なんとか話の続きをしてもらう流れに持っていく。
    そんな途中で止められると気になってしかたがない。
    「か、完全に区別がつかなくなるわけじゃなくて、この人とこの人は同じに見えても、その横のこの人は別の顔って感じ。それがぜ、全部で四パターン。同じパターンの中での区別はつかないから、その中に知り合いがいても分からない」 
    不思議な話だ。みかっちさんではないが、それはたしかによっぽど疲れてるんだろう。 
    「それって、どんな顔なんです?」 
    沢田さんが興味津々という様子で身を乗り出す。 
    「それが、疲れてないときには、は、はっきり頭に浮かばないんだ。なんていうか、その、……あああ、せ、説明しにくいな」 
    585 四つの顔  ◆oJUBn2VTGE ウニ いや、ブラウザによるのか…… 2009/10/11(日) 22:46:57 ID:e4PX3/wx0
    「絵とかにも描けない?」 
    Coloさんが久しぶりに口を開いた。 
    「描けない」 
    「その四パターンって、醤油顔とかソース顔とかって分け方と関係ありますか。あと、なんだっけ。タヌキ顔、キツネ顔ってのもあったな」 
    俺の問い掛けに、山下さんは首を横に振る。 
    「か、関係ないみたい。もとの顔は、関係ない、みたい」 
    元の顔が関係ない? じゃあどうやって四パターンに分かれてるんだ? 
    「よっつって、血液型かな」 
    「あ、かも。A、B、O、ABの四パターン」 
    あ、それか、と一瞬思ったが、考えてみると、道ですれちがっただけ人の血液型なんて分かりっこないじゃないか。 
    案の定、山下さんも頭を振る。 
    「じゃあ、そうね。男と女で二パターンでしょ。あとはぽっちゃりと痩せ気味あたりで分けてるんじゃない? もう疲れてくると、脳味噌がめんどくさくなってきて、個人の識別がテキトーになるのよ」 
    みかっちさんが一人で納得している。 
    すると、山下さんが驚くようなことを言った。 
    「お、男とか女とも関係ないと思う。だ、男女の区別もつかない」 
    「はあ?」とみかっちさんが変な声を出す。 
    「男と女の区別がつかないって、それどんな顔よ」 
    「だ、だから、説明がしにくいんだけど、とにかくそういうのじゃない四パターンなんだ。あ、で、でも正確に言えば性別は服装とか髪型でだいたい分かるよ」
    男女の区別もつかない顔って、どんな顔だろう。想像してみるが、ホラー映画に出てきそうな、のっぺりした仮面が頭に浮かんで少し気持ち悪くなる。 
    「でももっと疲れてきたら、髪型とか輪郭とか体型とか、さ、最悪は服装まで同じように見えてきて、完全に誰が誰だか分かんなくなる」 
    ゾッとした。 
    そんな世界に一人で取り残されたらと思うと、気持ちの悪い寒気が背中を走った。 
    「でも、それでも、よ、四パターンなんだ」 
    587 四つの顔  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/11(日) 22:50:13ID:e4PX3/wx0
    缶ビールが空になっていることに気づいて、山下さんは舌打ちをする。 
    「わたしはどれです? 誰と一緒?」 
    沢田さんが自分を指差す。 
    すると山下さんはColoさんと俺を指差して、それからこの場にいないオカルトフォーラムのメンバーの名前を何人か挙げた。 
    「ちょっと、なんでわたしだけ仲間はずれよ」 
    みかっちさんが不服そうな顔をして身を乗り出す。だいぶ酔っているようだ。 
    「は、半分以上、沢田さんのグループなんだ」 
    どうやら、四つのパターンにも勢力の違いがあるらしい。 
    話を分かりやすくするために、とりあえず俺たちはその四パターンを頻度が多いという順にA、B、C、Dと名づけた。 
    山下さんの言うことには、半分以上がA、その半分がB、さらにその半分がC、Dはかなり少ないらしい。
    「わたしはどれよ」 
    みかっちさんに詰め寄られ、山下さんは答えに窮した。 
    「い、今はまだ普通に見えてるし、そんなに疲れてるときにあんまり知り合いに会わないから……」 
    そう言って思い出そうとしていたが、しばらく経ってから「たしかC」という返事をようやく搾り出した。
    「なによそれ」と言いながら、一番少ないというDじゃなかったことに、心なしかホッとしているようだ。
    その後は、どうして人間の顔が四パターンに見えてしまうのかという謎を解き明かす、というより完全に興味本位で、テレビに出てくる有名人の顔を次々に挙げてはどのグループに属するかを無理やりに聞きだし、それに一喜一憂して楽しんでいた。 
    「ちょっと、わたしのCの組、ブスばっかりじゃない。どうなってんの」 
    「たまたまでしょう。男前の俳優もいたじゃないですか」 
    「女はブスだらけじゃない」 
    「女優と女子アナつかまえてブスブスって、あんまりでしょ。どういう基準なの」 
    「そういえばBは美人揃ってる気がしますね」 
    「Aはなんかごちゃまぜって感じ。個性がないのよ個性が」 


    588 四つの顔  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/11(日) 22:52:41ID:e4PX3/wx0
    そんなことを言いあっては笑い飛ばしていたのだが、だんだんみんな気づき始めた。 
    俺が空気を察してそれを言い出そうとすると、それより先に沢田さんが口を開く。 
    「……Dは?」 
    まだ誰もDのグループに属する人が出てこなかった。
    結構な数の有名人や知り合いをかたっぱしから挙げていったというのに。 
    それを聞いた山下さんは一瞬、なにかに怯えるような表情を浮かべて言い淀んだ。 
    みんなにじっと見つめられ、やがておずおずと口に出す。 
    「し、知ってる人には、いない」 
    場が静かになる。気持ちの悪い沈黙だ。 
    「それ、どんだけ少ないのよ。Dの人ってよっぽどハブられてんのね」 
    みかっちさんが軽い口調で言ったが、変な余韻を残してその語尾が宙に消えた。 
    「じゃあ、Dの人ってどんなとこで見るんです」 
    恐る恐る俺がそう訊くと、山下さんは強張った顔をして眼鏡の奥の視線を落ち着かなげに上下させた。 
    「み、み、道で、とか」 
    どうしてそんな言い方になるのだろう。はっきり言えばいいのに。そうじゃないと、なんだか…… 
    怖くなってくる。 
    「あと…………」 
    そう言って迷うような仕草を見せた。みんなそれを変に緊張した面持ちで見つめる。 
    そばにあった空の缶ビールを半ば無意識に持ち上げかけて、一瞬その軽さに驚いたような顔をした後、山下さんはゆっくりと口を開いた。 
    「部屋の中、とか」 
    ゾクリとする。 
    なんだ、部屋の中って。 
    往来ですれ違う不特定多数の人々の中に混ざってごく少数だがDに属する顔をした人がいる、というならイメージは湧く。 
    なのに。 
    部屋の中? 
    意味が分からない。状況設定が見えてこない。 

    591 四つの顔  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/11(日) 22:59:35ID:e4PX3/wx0
    みんな山下さんの言動から目が離せなくなっていた。
    「ほんとうに疲れてる時だけど、こ、こないだお風呂に入ろうとして洗面所のドアを開けたら、まだお湯張ってない湯船に、立ってるんだ」 
    え? どういうこと。どういうこと。 
    沢田さんがそんな言葉を口の中で呟く。 
    「だ、誰だか分からない。区別のつかない顔。何度か見たことがある、一番少ない顔」 
    それが、立ってて。 
    と、山下さんは半笑いのような変な顔をして続ける。
    「そのままドアを閉めたら、ず、ずっと静かなままで、しばらくして開けたら誰もいなかった。
    ……それから、夜中めちゃくちゃ疲れて家に帰ってきた時、げ、玄関のドアを閉めて鍵掛けて、 
    靴脱いでから部屋の中に入ろうとしたら、なんとなく振り向きたくなって、ふ、振り向いたんだけど、玄関のドアが半分開いてて、その、Dの顔が覗いてた。……近づこうとしたらすぐに閉まって、取っ手のとこ見たら、鍵掛かったままだった」 
    みんな口が利けなかった。 
    「一人暮らし、でしたよね」 
    Coloさんが確かめるように言う。 
    怪談だ。いつのまにか。 
    変化球から入った分、心構えができていなかった。ドキドキする。 
    「それ、生きてる人間なんですか?」 
    沢田さんが怯えながらも問い掛ける。 
    「さあ」 
    この世のものではないという印象は持つけれど、生きている人間だとすると、そっちの方が怖い気がする。
    姿がはっきり見えていながらそれが誰だか分からない。そしてありえない場所に現れる―― 
    聞いている方も無性に気持ち悪いのだから、それを見ながら正体を認識できない本人の方がよほど気味が悪い思いをしていることだろう。 


    593 四つの顔  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/11(日) 23:02:56ID:e4PX3/wx0
    山下さんは急に明るい声を出して「次、つぎ。次の話に行こう」と囃し立てた。あまり深く語りたくないようだった。 
    そうしてまたいつものありがちな怪談話のループに戻って行ったが、どこか皆気が乗らない様子だったのは、すっきりしない四パターンの顔の話が妙に気になっていたからかも知れない。 
    俺も疲労時の山下さんの頭の中でDという共通の顔にまとめられる、なんだか分からない存在のことが心のどこかにずっとこびりついていた。 
    それからみんな酒が進みだんだんと無口になってきて、俺は気がつくとみかっちさんに揺さぶられていた。 
    寝てしまったらしい。 
    時計は十二時を回っていたというのに、みかっちさんとColoさんは「鏡占いに行こう」と言って俺を揺する。 
    とりあえず顔を洗わせて下さい、と立ち上がった時に部屋を見回したが山下さんと沢田さんはいなかった。
    「疲れたからって、帰った」 
    みかっちさんはバカにしたような口調で酒臭い鼻息を部屋にまいた。 


    その日以降、オフに山下さんが現れることはなかった。 
    ネット上の掲示板でも書き込みがほとんど見られなくなっていた。 
    ある夜、ふと気になって山下さんが最後に書き込みをしたのはいつごろだろうと調べてみた。 
    それは五日ほど前だった。タイムスタンプから逆算すると、Coloさんの部屋であの話を聞いた時から二週間あまり経っている。 
    内容を見たとき、スクロールするマウスが止まった。
    え? 
    嫌な感じが背中を走った。 
    こんな書き込みがあっただろうか。覚えていない。 
    『Dが増えている』 
    たったそれだけの一行レス。前後の他の仲間の会話と噛み合っていない。紛れ込んでいる、という表現がしっくりきた。 


    594 四つの顔  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/11(日) 23:06:21ID:e4PX3/wx0
    それより古いレスを見てみたが、そこから四日前に仲間の会話へ当たり障りのない合いの手を入れているだけだった。
    さらに遡ると、くだんのオフ会以前まで行ってしまう。 
    Dが増えている。 
    俺は黒を背景色にした掲示板を見ながら呟いた。 
    椅子が小さく軋む。 
    Dとはもちろん、あの山下さんが見るという四パターンの顔の一つだろう。 
    それも誰もいないはずの風呂場に立っていたり、鍵の掛っているはずのドアから覗いていたりといったありえない現れ方をする存在。 
    それが増えるとはいったいどういうことなのか。 
    Dは出現頻度としては少なかったはずだ。次に少ないというCと比較してもかなり少ないような印象だった。 
    それが増えるということは、AやB、もしくはCに見えていた人間が、いつのまにかDの顔に見えるようになったということだろうか。 
    俺は薄気味悪くなって首を回し、卓上鏡を横目に見た。 
    いつもの自分の顔が映っている。 
    これが山下さんには他の人間と区別のつかない、ある種の仮面的な顔に見えるというのか。 
    俺の顔はAのはずだった。 
    今もAだろうか。 
    自分の顔に変った所がないか、鏡に近づいてしげしげと眺める。心なしか目の周りがむくんで見えた。 
    伸びをして、瞼を手の平の腹で押す。 
    山下さんに見えている顔とは、どんな顔だろう? 
    誰でもあって誰でもない顔を想像してみたが、どうしたって知っている誰かに似ている気がした。 


    さらにその二日後、夕飯を食べてぼうっとしている時にPHSが鳴った。 
    見覚えのない番号だったので、「はい」とだけ言って出ると「良かった。いた」という声。 
    沢田さんだ。 
    たまのオフ会以外ではほとんど接点がない。電話を掛けてくるなんて初めてではないだろうか。 

    597 四つの顔  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/11(日) 23:09:29ID:e4PX3/wx0
    「掲示板見てる?」 
    「いえ」 
    そう答えながらブラウザを操作し、オカルトフォーラムのページを表示させる。 
    「二時間くらい前」 
    そう言われて最新のレスを確認すると山下さんのハンドルネームがそこにあった。 
    『Dが増えている』 
    以前見たレスと同じ内容。 
    けれど始めに見たものよりも得体の知れない気持ち悪さがあった。 
    そのレスの少し前にも山下さんの書き込みがあった。
    『怖い』 
    そのたった二言だけ残して山下さんは去っている。なにかが起こっているような予感がして鳥肌が立った。
    「家に電話してるんだけど、出ないの。携帯も」 
    「落ち着いてください。大丈夫ですよ」 
    沢田さんの声が切羽詰まったような響きだったのでなるべくゆっくり話し掛ける。 
    「怖い、っていう書き込みに気づいてすぐに電話したのよ。でも出てくれなくて、何度か掛け直してたら、『Dが増えている』って書き込みがあった」 
    電話を鳴らしている間に書き込みが? 
    それが事実ならおかしい。 
    家にいながら電話を無視していることになる。それとも別の場所でパソコンを使っているのだろうか。 
    「家に行ってみたいんだけど、一緒に来てくれない?」 
    「今からですか」 
    「そう。ちょっと、怖いし」 
    どうして俺なんだろうと思ったが、考えると確かにフォーラムの常連には男性が少なく、山下さんが当事者となるとあとは俺くらいしかいないのだった。 
    「京介さんは」 
    女性ながら俺より頼りになりそうな人の名前を挙げてみたが「バイト中みたい」との返答があった。 
    やっぱり行かないといけないのか。 


    599 四つの顔  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/11(日) 23:12:02ID:e4PX3/wx0
    できたら家でごろごろしていたかったが、心配する沢田さんの気持ちも分かる。なんだか変だからだ。 
    仕方なく俺は同行に了承して電話を切った。 
    山下さんの家は知らなかったので沢田さんの指定するコンビニへ向かう。 
    自転車をこぎながら嫌な胸騒ぎがするのを必死でごまかそうとしていたが、頭の中には『Dが増えている』という言葉ばかりがぐるぐるとリピートされその度になけなしの勇気を振り絞らなくてはならなかった。 
    コンビニの車止めの上に立って背伸びしていた沢田さんを見つけて、声を掛ける。 
    「ちょっと先なんだけど」 
    そう言う沢田さんについて自転車を押しながら歩いた。 
    人通りの少ない夜の遊歩道を抜け、物寂しく点滅する街灯の下を歩き、やがて二階建てのアパートが見えてくる。 
    「一階の右端なの」 
    緊張した声でそう言うと、沢田さんは携帯を取り出しリダイヤルボタンを押した。 
    しばらく耳を当てていたがやがて諦めて腕を下ろす。
    「やっぱり出ない」 
    顔を見合わせていたが、とりあえず部屋を訪ねてみないことには始まらない。道端に自転車をとめ、右端のドアの前に立った。 
    横にある台所らしき窓は真っ暗だ。ドアの真ん中に口を開けている郵便受けからはなにもはみ出していない。
    ずっと留守をしているのなら、新聞やチラシが詰め込まれていても良さそうなものだ。 
    チャイムを鳴らしてみる。耳を澄ましたが、中でちゃんと鳴っているのかよく分からない。 
    しばらく待ってからドアを叩く。 
    「山下さん」 
    「山下さぁん」 
    さらに待っても反応は無かった。 
    左の方から光が近づき、乱暴な音とともに背後を通り過ぎる。
    俺がその車に気を取られてよそ見をしていると、「開いてる」という声がした。 
    振り返ると沢田さんが口を押さえてドアノブを握っている。 
    「山下さん」 


    603 四つの顔  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/11(日) 23:16:33ID:e4PX3/wx0
    もう一度呼びかけながら二人でドアの隙間から中を覗き込む。暗くてよく見えない。 
    「いるような感じがしませんね」 
    俺は声を潜めて玄関にソロソロと足を踏み入れる。そして壁際に手を這わせ、電気のスイッチを探り当てた。 
    眩しさに一瞬顔をしかめながら靴を脱ぐ。 
    「鍵の掛け忘れですかね」 
    山下さんの部屋は一人暮らしにしては割と広い。そしてとても綺麗に整理整頓されている。
    余計な物が全く無く、有る物はすべてきっちりと相応しい向きに並べられている。台所も料理道具が揃っているのに、まるでほとんど使われていないかのようにピカピカだった。 
    神経質な彼の性格そのままの部屋だ。 
    テレビの前にあるベッドを見ると掛け布団がほとんど起伏もなく伸ばされている。 
    生活臭がない。一体いつごろまで彼がこの部屋にいたのかも分からなかった。 
    「でも二時間半くらい前まではいたはずなんですよね」 
    机の上のパソコンに目を遣った。近づいて本体のパワーボタンに手を伸ばしかけると「ちょっと、悪いよ」とたしなめられる。 
    それもそうだ。様子が変だからと訪ねてきたものの、勝手に留守中の部屋の中をいじくって良いはずはない。
    失踪したわけでもないのに。 
    そう思った時、ふと頭にその単語が引っ掛かった。失踪? どうしてそんなことを思ったのだろう。
    パソコンの前に立ったまま床に目を落として考える。
    その思考が、一筋の悲鳴にかき消された。 
    ハッとして振り向くと、洗面所があるらしきドアの向こうから続けざまに短い声が上がる。 
    「どうしたんです沢田さん」 
    そちらに足を踏み出しかけると、いつかの山下さんの話が脳裏を過ぎった。 
    『まだお湯張ってない湯船に、立ってるんだ』 
    Dが…… 
    ぞわぞわと背筋が冷たくなる。誰だか分からない人物が無表情でドアの向こうに立っているのを勝手に脳がイメージしてしまう。 


    605 四つの顔  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/11(日) 23:20:22ID:e4PX3/wx0
    躊躇しかけて、なんとかそれを振り払うと半分閉まったドアを開け放つ。 
    沢田さんが小刻みに身体を震わせながら立っている背中が目に入る。その肩越しに、洗面所の鏡があった。
    その真ん中が割られていて、放射状に亀裂が伸びている。怯える沢田さんの顔がまるで切り裂かれたように不鮮明に映っていた。 
    俺も固まりかけたが、嫌な予感がしてすぐさま風呂場の戸に手を掛ける。思い切って開け放つと、ひんやりした空気が顔に当たった。 
    中には誰もいなかった。湯船の蓋は取られ、お湯も張られていない。 
    はあ、という声がしてそれが自分の出した安堵のため息だと気付くまで少し時間が掛かった。 
    「どうして、これ、こんな」 
    割れた鏡の前で棒立ちになっている沢田さんに「大丈夫です」と無責任な声を掛ける。 
    他に異常はないかと部屋のすべての場所を確認して回ったが結局なにも見つけられなかった。 
    他人の部屋で勝手に家捜しをすることに対する引け目をあまり感じなかったのは、あまりに生活感のない空間だったからだろうか。 
    しばらくして落ち着いた沢田さんに「もう帰りましょう」と言うと、軽く笑って頷いた。 
    山下さんの携帯は相変わらず通じないし、部屋に帰ってくる様子もなかったが、なにかの事件に巻き込まれたと判断するには材料が乏しすぎる。 
    割れた鏡は気になったけれど物取りや暴漢に襲われたにしては部屋の中に全く荒らされた形跡がない。 
    この程度で警察に連絡しては山下さんにとっても迷惑だろうという判断をせざるを得なかった。 
    ただあれだけ神経質に部屋を整理整頓している人が、どうして割れた鏡をそのままにしているのか、それだけはよく分からない。 
    『Dが増えている』という書き込みをしてから、山下さんは鍵も掛けずに出て行った。 
    まるで何かから逃げるように。鏡はその時割れたのか。割ったのは誰? 
    あれこれ考えているとまた薄気味悪くなってくる。沢田さんにつつかれて我に返ると玄関に向かった。 

    607 四つの顔  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/11(日) 23:25:12ID:e4PX3/wx0
    部屋を出るとき、上がり口に見覚えのある靴が置いてあるのに気がついた。山下さんがいつも履いている靴だった。 
    裸足で外へ? まさかな。 
    他の靴くらい持っているだろう。 
    変な考えを振り払い外へ出ると、すぐにドアの鍵を掛けられないことに思い至る。
    開いていたからといってそのままにして行くのはまずい気がして、どうしようか悩んでいると沢田さんがドアの側に置かれていた小さな鉢植えの下に手を入れる。 
    引っ張り出したのは鍵だった。 
    「内緒」 
    人差し指を唇に当てながら彼女はドアに鍵を掛け、また元の場所に戻した。 
    そう言えば、二人は付き合っているという噂があったことを思い出す。今さらだが、沢田さんがやけに山下さんを心配している理由が分かった。 
    途中まで沢田さんを送ってから自分の家に帰る間、自転車をこぎながらふと思ったことがある。 
    山下さんの体験の中で、帰宅直後に鍵をしたはずのドアが開いていて誰かの顔が覗いていたという部分。 
    その後近づくとドアが閉まって、ノブを見ると鍵が掛かったままだったという怪談じみた話だったが、実際ああしてドアの側に鍵を隠してあったのなら、それを知る人間には不可能なことではない。 
    一体山下さんの言うDとは、彼の脳が生み出す幻なのか。それとも彼の脳が被せる匿名の仮面を着けた生身の誰かなのか…… 
    そんなことを考えながら家に帰り着き、軽くかいた汗を流すためにシャワーを浴びた。
    シャンプーをしている時、いつも以上に背中の方が気になった。目を閉じている間、後ろに誰かがいたら嫌だというあの感じ。 
    シャンプーが沁みるのを我慢してチラチラと薄目を開けながら早めに洗髪を切り上げる。 
    風呂場から出てしばらく布団の上でまったりしていたが、思いついてパソコンの電源を入れる。 
    ブラウザを立ち上げ、いつもの掲示板に入り込んだ途端、最新の書き込みに目を奪われた。 
    『またDがきた。出て行ったあとに取っ手を見たらまた鍵が掛かっていた』 


    610 四つの顔  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/11(日) 23:29:55ID:e4PX3/wx0
    山下さんだ。なんなんだこれは。 
    一瞬ゾクッとしたが、すぐにその書き込みの意味を理解する。 
    書き込まれたのは『Dが増えている』という山下さんの書き込みを見てから沢田さんと二人で彼の部屋へ行った後だ。 
    鍵を掛けて出ていったDとは俺たちのことに違いない。 
    なんの悪ふざけなんだこれは。 
    留守に見せかけてどこかに隠れていたのか。あれほど探し回ったのに。 
    気分が悪い。山下さんが何故そんなことをするのか、理由が思い浮かばなかった。
    怪談話を真に受けて乗ってきた俺たちにイタズラを仕掛けたということなのか。 
    『ワサダさんが連絡取りたがってましたよ』 
    ワサダとは沢田さんのハンドルネームだ。そう書き込んでしばらく待ってみたが反応はなかった。もう落ちていたのだろう。 
    バカらしくなってパソコンを切り布団に寝転がった。
    まったく、心配して損した。 
    けれど眠りにつく少し前、さっきの書き込みのタイムスタンプがふと頭に浮かんだ。 
    あれ? 
    その時間って、俺たちがまだ部屋にいた時間じゃないか? 
    まさか。そんなはずはない。たぶん俺たちが部屋を出てすぐに書き込んだんだろう。隠れ場所から這い出てきて。
    ほくそ笑みながら。 
    そんなことを思いながら瞼を閉じた。 


    714 四つの顔  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/18(日) 22:16:56ID:Zfjh8a480
    翌日、バイトが終わってこれから家に帰り夕飯を食べようという時に沢田さんから電話があった。 
    昨日の山下さんの書き込みを見て、フォーラムの管理人をしているメンバーに連絡をとったのだそうだ。
    やはり沢田さんも書き込み時間がおかしいことに気がついたらしい。 
    山下さんが『またDがきた』と書き込んだのは自分たちがまだ部屋にいた時間だった、と沢田さんは断言する。 
    「部屋にいたとき時計見たから間違いない」 
    だからあの書き込みは別の誰かがしたものか、あるいは本人が別の場所にいて書き込んだか、そのどちらかだと。 
    そう思って管理人に問い合わせると、「ほぼ間違いなく山下さんがいつものパソコンで接続したもの」との回答があったのだとか。 
    アクセス解析で分かるのだそうだ。 
    「これってどう思う?」 
    「どうって。さあ。確かに不思議ですけど」 
    そう答えたものの、頭の中にはいくつかの可能性が浮かんでいた。 
    ひとつめ。山下さんはいつも自分の家ではなく、別の場所からネットに接続していた。 
    ふたつめ。俺たちがオフで出会い、山下さんだと認識している人物は、ハンドルネーム『山下』を名乗る人物とは別人だった。 
    みっつめ。沢田さんが案内してくれたあの部屋は、山下さんの部屋ではなかった…… 
    現実的なのは、ひとつめか。 
    どうしてネット環境があるのにわざわざ自分の部屋以外で? という疑問は残るが、ありえなくはない。 
    ふたつめは気持ちの悪い回答だが、これまでの掲示板やオフでのやりとりなどで同一人物であることを疑う理由はないように思われた。 
    みっつめは単なる沢田さんの勘違いという線。部屋を間違えて、そこの住民がたまたま留守だったという締まらない話だが、沢田さんは一度ならずあの部屋に来たことがある様子だったから、それもなさそうだ。 
    玄関のドアの横に表札があり、それが『山下』だったことを俺自身覚えていることからしても。 
    もし仮に山下さんと沢田さんがグルで、二人して俺をからかおうという腹ならまた話が違ってくるけれど。
    そんなことを考えていると、重要な部分を聞き逃しそうになった。 


    715 四つの顔  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/18(日) 22:18:34ID:Zfjh8a480
    「ちょっと待ってください。鍵が消えてたって、今日も行ってたんですか」 
    「そう。書き込み時間はなにかの間違いだとしても、あの部屋、絶対どっか隠れる場所があったはずだと思ったから」 
    なのに昨日帰るとき元の場所に戻したはずの鉢植えの下の鍵がなくなっていたのだと言う。 
    ドアは施錠されていて入れなかった。ノックしても応答はなし。 
    「もうなにがなんだか分かんない」 
    疲れたような声でそうこぼす沢田さんに「まあ、なにかあったわけでもないし、しばらくほっときましょうよ」と言ってみたが、オカルト仲間とは言え赤の他人の俺と違ってそこそこ親密なお付き合いのあるらしい彼女にとってはそう割り切れるものではないようだ。
    「まあいいや、色々ごめんね」 
    と電話が切られた。 
    静かになってこれまでの経緯を一人で思い返していると、どうも沢田さんが一方的に山下さんから避けられているだけのような気がしてきた。 
    確かに掲示板への書き込みが減り、その内容もおかしなものになってはいたが、おかしいと言えばもともとオカルトフリークの集う奇妙な場所なのだし、中には前世がどうとかもっと無茶苦茶なことを言い出す人もいるのだから取り立てて騒ぐほどのものでもない。 
    ただ沢田さんが個人的に連絡を取ろうとしてそれが上手くいってないだけなのではないだろうか。 
    痴話げんかの類ならもう関わらないでおこう。 
    その時は無責任にそう思ったものだった。 


    「四パターンの顔ねえ。それ面白いな。要は世の中の人みんなが四種類のお面のどれかを被ってるようなものか」 
    「しかも疲労のピークに入ったら体格とか服装まで区別がつかなくなるらしいです」 
    「てことは国民総着ぐるみ状態か」 
    大学の先輩でもあるオカルト道の師匠に会ったとき、たまたまその話をしてみるとやけに嬉しそうに食いついてきた。 
    「病んでるね、その人」 
    まあ普通ではない人だけれど、あなたに言われたくはないだろうと思う。 

    716 四つの顔  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/18(日) 22:20:12ID:Zfjh8a480
    ニヤニヤしながらひとしきり頷いた後で、師匠はぼそりと言った。 
    「Dは明らかにこの世のものじゃないね」 
    それは自分も思った。現れ方もそうだが、元々霊感の強い人なのだし。 
    「実際は三パターンと考えた方がいいかも知れない。大多数のA、次点のB、少数派のC。
    すべての人間がそのどれかに見えてしまう心の病気。
    それに加えて、霊感で察知したこの世のものではない存在を、そのどれにも当てはまらない第四の姿で認識してしまうんだ。
    だとするならば、その山下さんの霊感はかなり強いね」 
    「どうしてです?」 
    「他の三パターンと質的に同じレベルで見えてしまってるからだ。多少見えてしまう人でも、たいていはそれはそれと分かる」 
    確かに俺も経験上、人間なのか霊なのか分からないものを見てしまうことはあったが、それでもほとんどのケースでは普通の人間と同じようには知覚していない。霊は霊だ。 
    「そういう、常に霊を視覚的に人間と同レベルに認識してしまう人はごく稀にいるみたい。
    それの極まったような物凄い例を知ってるけど、そんな人はまずまともに世間では暮らせないね」 
    「誰です。その人」 
    「アキちゃん」 
    知らない名前だった。まだその時は。 
    「まあともかく、その山下さんに見えているDが霊的なものだとしたら、それが増えているってのが気になるな」 
    そうだ。最初にその書き込みがあってから彼と誰もコミュニケーションをとれていない。少なくともフォーラムの仲間内では。 
    「単純にDを霊と置き換えると、目に見える霊が増えているってことか」 
    「霊感が上がってきてるってことですか」 
    「いや、とは限らないよ。そのまんま、実際に霊が増えているのかも」 
    あっさりと師匠は言う。 
    「彼の周囲で。それとも雑踏の見ず知らずの人々の群れの中で。あるいはテレビに映る無数の人間たちの中で……」 
    この人はまた嫌なことを言って俺を怖がらせようとしている。咄嗟に心の中の眉毛に唾をつける。 

    719 四つの顔  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/18(日) 22:22:48ID:Zfjh8a480
    「そもそもこの街に何人の人間がいるかなんて、誰も正確な数を把握していない。役所? 役所が把握しているのは形式上住所を置いている人の数だけだろう。特に大学生なんて住民票を移さずにこの街に住んでる代表格だ。その住民票がない人間だっている。 
    本当にこの街にいる人間の数を知りたかったら、時間を止めてひとりふたりと数えていくしかない」 
    その結果、少々人間の数が多すぎたところで。と師匠は続けた。 
    「本来誰も気づきはしない」 
    なにを言っているんだこの人は。 
    「まあ、それはさて置いて、その山下さんの見ているDが増えてきたってのは、どかかから湧いてきたというわけじゃなさそうだ」 
    「なぜです」 
    「またDがきた、っていう書き込みは部屋を訪ねた君らのことを言ってるように受け取れるけど、二人とも前のオフ会の時点ではAだったはず」 
    そうだ。本人がそう言っていた。 
    「ということはAに見えていたものがDに見えるようになったってことだよ」 
    「ちょっと待ってください。Dは霊的な存在じゃないんですか」 
    「自分でも知らないうちに、そうなってるんじゃない?」 
    指を向けられ、思わず目を反らす。でもそんなわけはない。 
    「おっ。否定するね。自分が死んでることを認めたがらない。典型的な霊体の症状です」 
    からかわれている。さすがにむかついてきた。 
    「まあそう怒るな。Dになった君が依然として霊的存在ではないとすると、初めからDは人間だったってことになるんじゃないか」 
    Dは人間。 
    それは俺も考えた。玄関のドアから覗く顔は植木鉢の下の鍵を使えば人間にも可能だ。 
    帰宅した山下さんが中から鍵を掛けたのを見計らって植木鉢の下から鍵を出し、ドアを開ける。
    気づいた山下さんが近づいてくる前にドアを閉じて、外から差したままの鍵を捻って施錠し、逃げる。
    一階の端部屋だったから、角を曲がれば上手く逃げ隠れできるだろう。 
    誰がなぜそんなことを、という疑問は残るが。 
    ただ風呂場に立つDは分からない。その風呂場はこの目で見たが、小さな窓はあったものの人間が出入りできるようなものではなかった。気づかれないように家宅侵入して、同じく気づかれないように出て行くなんてことができるだろうか。 


    721 四つの顔  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/18(日) 22:25:03ID:Zfjh8a480
    「難しく考える必要はないよ。ヒトは生身の人間ではなく、まして霊でもない人間を見ることがあるじゃないか」 
    「幻覚だと」 
    でも、師匠も山下さんの霊感が強いのを認めていたじゃないか。 
    「だとするならば、ってつけてたよ。Dを霊と仮定した場合の話だ。僕の結論は最初に言ってる」 
    師匠はまたニヤニヤ笑いながら言った。 
    「病んでるね、その人」 
    だったらさっきまでの話はなんなんだ。本当に回りくどいなこいつは。 
    「最初は幻覚が見えたんだよ。それでも生身の人間と幻覚の区別がついてたんだ。
    それがだんだん本物の人間まで幻覚のように思えてきたって話。末期的だね」 
    あからさまに他人事だと言わんばかりの口調で、幻聴の場合だとどうだとかいう話をつらつらと続けた。 
    「あんまり関わらない方がいいと思うよ」 
    最後にそう忠告してくれたが、それは結局俺の結論と同じだった。 


    それからしばらくは山下さんのこともDのことも、あまり考えることなく過ごした。
    新しく始めたバイトやサークル活動で忙しく、オカルトフォーラム自体にもほとんど顔を出さなかった。 
    沢田さんからの電話もなく、俺の中で終わったことになりかけていた。 
    ところがある夜、寝る前に何気なくフォーラムの掲示板を覗いてみると、一番下に『殺し方ってなに?』という書き込みがあって、思わずドキリとする。 
    嫌な予感がした。 
    その少し前の書き込みに対するレスのようだった。投稿者は俺の知らないハンドルネーム。新顔だろうか。
    緊張しながら上にスクロールしてみる。 
    すると今から一時間ほど前に、山下さんの名前で書き込みがあった。 
    『あいつらの殺し方がわかった』 
    その文字を見た瞬間、心臓の鼓動が早くなった。 
    あいつらってなんだ? 殺し方って? 


    722 四つの顔  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/18(日) 22:29:07ID:Zfjh8a480
    さらに遡る。 
    『いや、フリじゃない。ツモリなんだ』 
    間に、業者の宣伝がいくつか入り込んでいる。俺は画面から目を離せずにゆっくりとマウスを動かしていく。 
    『あいつらは人のフリをしている。ぼくだけがそれを見抜くことができる』 
    危険だ。 
    俺は立ち上がった。 
    なにをしようと思ったわけでもない。ただ無意識に身体が動いたのだ。 
    山下さんの書き込みはその三つだけ。五分ほどの間に書き込まれ、そしてそれから現れていない。 
    何人かが冗談めかしてレスをしているが、常連の名前はなかった。 
    みんなこの書き込みの意味を理解していない。情緒不安定なんてものじゃない、山下さんは本当に危険な精神状態にある可能性があるのだ。 
    Dが増えている。彼の平穏な生活を脅かすDが。疲れた時、人の顔が四パターンに見えたように、少しずつ狂っていった彼の精神が、増えていくDに追い詰められていく。 
    そして彼の中でついに暗く恐ろしい決断が下された。
    その増えたDとは。あいつらとは。俺であり沢田さんであり、大多数のただの人間のはずなのに。 
    俺は家を出ると自転車に飛び乗り山下さんの部屋に向かった。ドロドロと纏わりつくような嫌な予感がして仕方なかった。 
    まずコンビニに到着し、前回のコースをそのまま辿る。やがて見覚えのあるアパートが見えてきた。 
    ドアに掻きつくように駆け寄ると激しくノックする。名前を呼ぶ。深夜だが周囲の迷惑など気にしていられない。 
    「山下さん」 
    動きを止めて静かにしてみたが、中からはなにも聞こえない。裏に回ってベランダ側から覗き込もうとしてもカーテンに覆われていて中は伺えない。しかし明かりは一切漏れておらず、相変わらず人の気配は無かった。 
    次に俺は周辺道路を歩き回った。山下さんらしき人影がないか目を凝らしたが、見つからない。 
    疲れ果てて、なんの収穫もないまま帰らざるを得なかった。 


    723 四つの顔  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/18(日) 22:33:36ID:Zfjh8a480
    三ヶ月が経った。 
    あれからついに山下さんの姿を見ることはなかった。失踪したのだ。
    仕事先にも告げずにいなくなったらしいということを沢田さんから聞かされた。 
    しばらくは新聞やテレビで地元の傷害事件のニュースがあるたびに山下さんが関わってはいないかと恐れたものだったが、杞憂に終わっている。 
    アパートの部屋は保証人になっていた家族が片付けたそうだ。今はその部屋にはそんな経緯も知らない新しい住人が入っている。 
    春になり、有形無形の様々な別れがやってきた。 
    看護婦をしていた沢田さんが実家のある県外の別の病院へ移ることになり、オカルトフォーラムのメンバーでお別れ会と称したオフ会を開いた。 
    人当たりも良く、オカルティックな話題を多く提供してくれた功労者ならではの扱いだった。 
    沢田さんは散々回りからお酒を注がれてかなり酔いが回ったらしく、口数が減ってきたかと思うと外の空気が吸いたいと言い出したので俺が付き添って居酒屋の外に出た。 
    主役がいなくても盛り上がっている宴席を尻目に沢田さんは歩道に植樹されたケヤキにもたれかかるようにして立っている。 
    「吐きますか」 
    と訊いて近づこうとした俺に彼女は頭を振って、かわりに「電話があった」と言った。 
    「誰からです」 
    「山下さん」 
    一瞬誰のことか分からなかった。ヤマシタさん。ヤマシタさん? 
    「元気か、なんて言うから、どこにいるのって怒鳴ってやったら、部屋にいるよ、って」 
    山下さんって、あの山下さんなのか。 
    「いるわけないじゃない。あの部屋、もう他の人が住んでるんだし。そう言ってやったら、そんなはずはないって笑うの。
    ぼくはずっとここにいるって」 
    半ば覚悟していた狂気に寒気がするのと同時に、妙な符合が頭に引っ掛かる。 
    最初に沢田さんと部屋を訪ねた時、俺たちがそこにいたと思われる時間帯に書き込みがあったこと。
    その俺たちをどこかで見ていたかのようなその内容。そして玄関の靴。 
    まるで目に見えない彼がひっそりとそこにいたかのような。 
    「なにしてたのって訊いたら、ずっと探して回ってたって」 
    なにを? 決まっている。Dだ。 



    728 四つの顔  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/18(日) 22:50:13ID:Zfjh8a480
    「あいつらは人間のつもりなんだって。いつの間にかその本人と入れ替わってるんだって。
    自分でも気づいていないから普通の人間みたいに生活してるけど、ぼくにだけは分かるんだって。Dの顔に見えるから」 
    探して、どうしたんだ? 
    沢田さんは顔をケヤキの幹の方に向けたままポツリポツリと語る。 
    「フリじゃなくて、ツモリだから、教えてあげればいいだけなんだって。おまえは人間じゃないよって。そしたら……」 
    忌まわしい言葉を飲み込むように押し黙る。 
    「怖かった。彼がなにを言ってるのか分からない。電話越しに声が近くなったり遠くなったりしてた。狂ってると思った。
    でも狂ってるのは私かも知れない。そんな電話本当は掛かってきてなかったのかも知れない」 
    小さな声が微かに震えている。 
    自分の周囲の人間がいつの間にか良く似た全く別の存在に入れ替わられているという妄想にとりつかれるというのは聞いたことがあるが、山下さんは少し違うようだ。 
    入れ替わっているのは、彼自身なのではないか? 
    いや、入れ替わりと言っていいのか分からない。 
    客観的に見て彼のいる空間と我々のいる空間とが交わっていないという、この不可思議な現象にこちらの頭もこんがらがってくる。 
    山下さんは確かに狂いかけていた。けれどその狂気が、内側にだけでなく外側、つまり現実にまでじわじわと浸潤していったというのか。 
    「もう街に人がほとんどいなくなったって。見つけ次第、自分が殺してあげたから。
    誰もいない街を毎日歩いて歩いて、それでも不安が消えない、って泣きそうな声で言うのよ。それで……」 
    会いたいって。 
    沢田さんは絶句した。 
    俺はちょっと待って下さいと小さく叫んで手を前に突き出す。 
    割れた鏡が頭に浮かんだ。 
    彼のいない部屋に残された唯一の生きた痕跡。いや、あの時も彼はいたのかも知れない。部屋に侵入してきた二人のDに怯えながら。 
    鏡。鏡。もう一つどこかでその言葉を聞いた。 
    そうだ。彼が初めてその四つの顔の話をした夜。俺はいつの間にか眠ってしまっていて、起きた時には彼はもういなかった。
    疲れたから帰ると言い残して。 


    730 四つの顔 ラスト  ◆oJUBn2VTGE ウニ2009/10/18(日) 22:52:34 ID:Zfjh8a480
    その時、鏡占いに行こうという話になっていたはずだ。鏡。鏡。 
    疲れたから帰る? 
    疲れた時には四つの顔が見える。鏡の向こうには何が見える? 
    俺はA、沢田さんはA、ColoさんもA、みかっちさんはC……彼自身は? 
    誰も訊かなかった。どうして訊かなかったんだろう。思い返すと、どうも彼がその話題にならないよう上手くかわしていたように思う。 
    彼は鏡を見たくなかった。だからあの夜、先に帰った。そして自分の部屋の鏡を割った。 
    なぜ見たくなかった? 
    俺は想像する。 
    鏡の前に立っている俺自身を。そしてその鏡に映っている顔が、一瞬、どこかで見たような、どこでも見ていないような、知っている誰かのような、知らない誰かのような、無表情の人間の顔に見えた気がした。 
    ハッとして我に返る。 
    すべてのDを殺して回っているという彼が本当に恐れているのは…… 
    自分に真実を告げる他者の存在。 
    「会いたいって言うのに、私、来ないでって」 
    沢田さんが口元を押さえる。 
    それで実家へ帰るのか。 
    急な引越しの理由が分かった。 
    あれ? 
    その時、急にデジャヴを感じた。こうなることを知っていたような気がするのだ。なんだろう。気持ちが悪い。 
    「『分かった』って、そう言って電話が切れた。もう繋がらない。掛けても、現在使われていない番号だって……」 
    沢田さんは泣いているようだった。 
    しばらくそうして二人とも黙ったまま夜風に吹かれていたが、やがて落ち着いた頃合を見て席に戻ろうと言った。 
    居酒屋の自動ドアの前に立ち、それが開く瞬間、ガラス製の不完全な鏡に映った俺と沢田さんの後ろ、誰もいないはずの空間に、無表情の人間がひっそりと立っているような気がした。

    1: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:11:44.03 ID:ggCCbC2y0.net
    怖い。。

    2: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:14:13.44 ID:ggCCbC2y0.net
    誰か話聞いてくれ。。。

    釣りだと思ってくれても構わんから。。

    3: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:15:39.33 ID:CLe76j690.net
    聞きましょう

    4: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:15:52.30 ID:FMPcgiOi0.net
    聞きたい

    5: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:17:21.41 ID:5cg3kK9u0.net
    地震か

    6: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:19:38.97 ID:ggCCbC2y0.net
    >>3 >>4
    関東の私鉄に乗ってたんだが、変な駅に着いた

    7: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:21:06.57 ID:CLe76j690.net
    >>6
    お、きさらぎ駅か?

    8: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:21:52.38 ID:sl33Maup0.net
    はやく

    9: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:21:53.76 ID:+eKoWkdw0.net
    >>6
    みんな地震でそれどころじゃなさそうだけど続けて

    10: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:24:51.93 ID:ggCCbC2y0.net
    >>7
    きさらぎではないと思う。

    俺もよく異世界系の話とか読むけど、まさか自分が体験するとは思わんかった。

    iphoneで音楽聴きながらネットサーフィンしてたんだよ。
    アナウンスとかも全然聞こえてなかったけど、かなり混んでたのは覚えてる。

    11: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:26:04.49 ID:CLe76j690.net
    とりあえず今はその変な駅にいるの?
    いるなら画像うpして

    12: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:26:28.83 ID:rHRvIOYX0.net
    うんうん

    13: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:27:11.25 ID:ysIg0RnL0.net
    変な駅ってことはいつ気づいたの?

    14: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:27:46.83 ID:xzW98Msk0.net
    みんなを地震から落ち着かせるためっていうのはダメだぞ

    15: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:29:08.34 ID:ggCCbC2y0.net
    んで、ふとドアの上のLED?を見たら次の駅は自分の最寄り駅だった。

    そろそろか、と思って降りる準備し始めたら、周りに人がいないことに気づいた、

    あんなに混んでたのに、ウソみたいに人がいない。

    俺がネットサーフィンに興じてるうちにみんな降りてしまったのかと思った。
    けど、俺が降りる駅はそれなりにでかい駅だからその駅に着く前に乗客が全員降りるなんてことは考えられない。

    不思議に思いながら外に出た。
    正直夢かと思った。

    16: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:29:46.72 ID:gR3j/j4m0.net
    んでんで?

    17: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:29:53.40 ID:CLe76j690.net
    ほう

    18: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:30:48.95 ID:YyT/NJis0.net
    地震の前?あと?

    19: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:31:50.26 ID:ggCCbC2y0.net
    ホームに降りると、見慣れた駅だった。

    、、、けど、何かが違った。

    椅子の位置とか、電光掲示板とかホームの位置とかそういうんじゃない、


    何かが違う。雰囲気というか、空気というか。。。
    直感的に自分がいつも使っている駅とは違う気がしたんだ。

    けど、まったく違うってわけじゃなかったし、
    疲れてるんだろうと思って改札へと向かった。

    20: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:33:21.02 ID:4F92mGEz0.net
    人は居たの?

    21: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:33:21.18 ID:WsXxOuuj0.net
    ここ以外にアクセスしたりLINEしたり出来んの?

    22: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:36:55.14 ID:ggCCbC2y0.net
    改札へ着くと、感じ始めていた不安と疑念が確信に変わった。

    終電が終わったわけでもないのに、改札にも改札の向こうに見える駅前にも誰もいなかった。

    構内の電気はついているし、改札や券売機は動いているようだった。

    ますます気味が悪くなってはやく帰ろうと思って、改札を通って外に出た。

    だけど、駅前にはタクシーもバスもなかった。人っこひとりいなかった。

    ロータリーに林立してる街灯があたりを照らしているだけだった。ㇾ

    23: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:37:56.42 ID:gGK9Kr7a0.net
    gPS!使え!

    24: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:38:40.05 ID:CLe76j690.net
    なんか異世界に来てしまった的なお話っぽくなってきたな
    作業服みたいな格好の男にでも会ったの?

    25: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:38:52.65 ID:EmLgJUBD0.net
    いろんなことが起きる日だな

    26: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:39:24.21 ID:JfZW6e4i0.net
    大丈夫か?

    27: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:39:28.59 ID:ggCCbC2y0.net
    >>11
    今はもう家に帰ってきた。
    けどマジで写真撮ってる余裕はなかったんだよ。。。
    写真無いから信憑性ゼロに近い、、

    >>18
    じしんのあと

    28: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:42:04.57 ID:CLe76j690.net
    >>27
    なんだ帰ってこれたんだ

    29: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:43:04.47 ID:ggCCbC2y0.net
    いよいよ怖くなってきた俺は、親に迎えに来てもらおうとスマホを見たが、圏外だった。

    さっきまでネットしてたのに圏外?しかも、俺が住んでいるところは圏外になるような場所ではない。
    マジでわけがわからんかったし、夢なら覚めてくれと思った。

    公衆電話を探したが、どこを探しても見つからなかった。

    そこで俺はきさらぎ駅のことを思い出した。
    ひょっとして異世界に来ちゃったんじゃないか、このまま戻れないんじゃないかって。

    30: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:43:08.73 ID:+eKoWkdw0.net
    >>27
    今いるのはどっちの世界なの

    31: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:44:16.93 ID:ekAYBmlw0.net
    時空のおっさんに会ったか?

    32: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:46:49.25 ID:ggCCbC2y0.net
    とりあえず異世界系だと、何かを燃やせばいいっていうのが鉄板だっていうのを思い出した。

    それでどうにかなるのならなんでもいいから燃やそう。そう思った。
    俺はポケットからライターを出して、バッグに入ってた適当な紙に火をつけて燃やした。

    33: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:48:47.15 ID:CLe76j690.net
    書ききるまで頑張れ

    34: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:49:20.33 ID:JoXQsxZY0.net
    見てるよ

    35: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:49:42.64 ID:ggCCbC2y0.net
    でも、紙は燃えたが何も起きなかった。

    感じる雰囲気は一緒だし、あたりには誰もいないままだ。

    もうそのとき本当にもう戻れないって確信した。

    どうすればいいのか、もうどうしようもないのか、駅の前を行ったり来たりしていた。

    36: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:51:08.35 ID:rBFstOLL0.net
    今日色々ありすぎ

    37: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:51:43.59 ID:td27/5rT0.net
    何番煎じだよwww

    38: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:53:42.63 ID:HQzadar40.net
    んで?

    39: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:57:55.60 ID:ggCCbC2y0.net
    その時、視界の隅で何かが動いたような気がした。

    もしかして人がいるのか。
    そう思って何かが動いたほうに目を向けた。

    そしたら、黒いスーツを着た30歳くらいの男がこちらをじっと見ていた。
    不思議とその男のことを怖いとは思わなかった。
    たぶん人がいることに安心した気持ちが勝ってたんだと思う。

    男は、俺のほうに来て
    「かむ、けうんお…?」
    みたいな訳の分からんことを言ってきた。

    「え、、?なんですか?」

    って聞き返すと、男はびっくりしたような顔をして、俺に言った。

    「もどれ、

    って。

    え?どういうこと?って思って、気づいたら満員電車の中だった。

    40: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:59:43.39 ID:gGK9Kr7a0.net
    まじかよ

    41: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:59:49.52 ID:kgJGd3xi0.net
    妄想は手持ちのノートにどうぞ

    42: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 22:59:57.48 ID:zOlTuYDa0.net
    夢オチかよw

    44: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 23:01:39.07 ID:CLe76j690.net
    時空のおっさん作業員から普通のリーマンに転職したのかよ

    45: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 23:01:44.40 ID:TJrv2mqY0.net
    無事に帰ってこれてよかったですね…

    46: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 23:04:19.95 ID:ggCCbC2y0.net
    全身汗びっしょりで、周りの客は奇怪なものを見る目で俺のことを見ていた。

    あれは夢だったんだろうか。

    自分の最寄り駅の名前がアナウンスされて、恐る恐る外に出てみると、そこはいつもの駅だった。
    降りてく客が一斉に改札口へと向かっていく姿が見えた。

    あーやっぱ夢だったんか。
    よかったと思ってバッグのポケットに入ってたスマホを持った。
    スマホをポケットから取り出したとき、黒い何かが一緒に落ちてきた。

    なんだろうと思って、拾って触ってみると、

    完全に燃え切って真っ黒になった紙の残骸だった。

    47: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 23:04:52.40 ID:+eKoWkdw0.net
    >>39
    おかえり
    ちな、どこ駅?

    48: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 23:05:51.45 ID:zOlTuYDa0.net
    すげーw釣られてる奴がいるw

    49: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 23:05:53.15 ID:HrfX4YWU0.net
    神の残骸Up

    50: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 23:06:03.92 ID:JoXQsxZY0.net
    帰ってこれて良かった
    そのおっさんはやっぱり時空のおっさんなんかな

    52: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 23:06:22.84 ID:x1pMzMT20.net
    夢オチおつ

    53: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 23:08:03.42 ID:zOlTuYDa0.net
    紙燃やす
    燃えカスポッケへ
    粉々になる

    54: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 23:08:17.34 ID:ggCCbC2y0.net
    夢落ちか、それとも精神病なのか、、、、

    ガチで異世界ってこともあるんdroーか

    56: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 23:11:11.48 ID:mWtfgjLW0.net
    >>53
    真っ黒に燃えたら灰になるのにな

    57: 1@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 23:11:54.87 ID:ggCCbC2y0.net
    でもまだなんか怖いんだよなぁ、、

    58: 1@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 23:12:36.52 ID:ggCCbC2y0.net
    ちょっと待って、友達から電話かかってきたから一旦離脱するわノシ

    59: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 23:15:12.77 ID:j17jFV/10.net
    あっ…

    60: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 23:18:47.12 ID:TCNRba5n0.net
    文章から滲み出る創作感が痛々しい

    61: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 23:19:31.04 ID:SMCRZfFI0.net
    >>15
    ……ネットサーフィン

    これはつっこまなくていいのか

    62: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 23:19:55.76 ID:HQzadar40.net
    俺も最近金縛りにあって家族に話しても
    あんまし信じてもらえんかったから
    とりあえず大変だったねと心配する…

    65: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/14(木) 23:34:36.83 ID:yw5CCuK50.net
    帰ってから報告されてもな(・Д・)
    これ以上何も無いだろ
    あったらその記憶力の方が怖いわ

    71: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/15(金) 23:58:20.36 ID:xUlgqTgj0.net
    プログラムの中で生きるマトリックス的な世界観のバグだと考えると面白いな

    76: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/04/18(月) 00:10:25.31 ID:E+6SVjUd0.net
    時空のおっさんネタって応用ききすぎて悪い気がする。まぁ楽しかったからいいや

    1 刀  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/02(金) 22:17:41ID:o7OYvvFV0
    師匠から聞いた話だ。 


    大学二回生の春の終わりだった。 
    僕は師匠のアパートのドアをノックした。オカルト道の師匠だ。 
    待ったが応答がなかった。 
    鍵が掛かっていないのは知っていたが、なにぶん女性の部屋。
    さすがにいつもなら躊躇してしまうところだが、ついさっきこの部屋を出て行ったばかりなのだ。 
    容赦なくドアを開け放つ。 
    部屋の真ん中で師匠は寝ていた。 
    その日、朝方はまだそれほどでもなかったのに昼前ごろには急に気温が上がり、昨日の雨もあってか、猛烈に蒸し暑かった。 
    その部屋はお世辞にもあまりいい物件とは言えず、こういう寒暖差の影響はモロに受ける。 
    師匠は畳の上、うつ伏せのままぐったりして座布団に顔をうずめている。 
    僕は靴を脱いで上がるとその側に近寄って声を掛けた。 
    「……」 
    なにか応答があったが、モゴモゴして聞き取れない。 
    「師匠」 
    もう一度言いながら肩を叩く。 
    ようやく座布団から顔がわずかながら浮き上がる。もの凄くだるそうだ。 
    また、なにか言った。 
    耳を寄せる。 
    「おばけ見る以外、したくない」 
    はあ? 
    「ちょっと」 
    僕はまた座布団に顔をうずめた師匠の身体を揺する。 
    「これですよ、これ」 
    そうして左手に下げた紙袋をガサガサと頭上で振ってみせる。 
    「ちょっと。見てくださいよ、これ」 
    師匠は薄っすらとかいた汗を頬に拭って顔を半分こちらに向け、眠りかけのうたぐり深そうな目つきでボソリと呟く。 
    「おばけ以外、見たくない」 

    334 刀  ◆oJUBn2VTGE ウニ 時々変な位置に改行が入るな…… 2009/10/02(金) 22:23:14 ID:o7OYvvFV0
    ええと。 
    そんな宣言どうでもいいですから、お金下さい。立て替えたお金。 
    そもそもついさっきお遣いを頼んだのはそっちでしょう。 
    僕はあきれて紙袋から印鑑を取り出すと、またもや顔を座布団にうずめている師匠の前で振って見せたが、反応がないので首筋に押し付けてやった。 
    やっべ。 
    赤いものがついた。店で試しに押した時のインクが残っていたらしい。 
    師匠はようやくその感触にすべてを思い出したのか、深いため息をついて上半身を起こした。 
    「そうか。頼んでたな。いくらだった」 
    注文していた印鑑ができてるはずだから取りに行って来いという、お願いというより半ば命令だった。 
    「高かったですよ」 
    僕の言った値段に鼻を鳴らして恨めしそうに財布を探る。やがて決まりの悪そうな顔になった。 
    「また金欠ですか」 
    心なしか痩せて見える。 
    「いや、金が入るあてはあるんだよ。今日だって…………今日?」 
    財布を探る手を止めて僕の顔を見た。そしてすぐさま電話に飛びつく。 
    どこかにかけた。相手が出る。 
    「すんません。忘れてました」 
    開口一番それだ。 
    僕は立て替えた印鑑代が戻って来るのか不安になった。 
    しばらくのやりとりの末、師匠は受話器を置く。頭をかきながら。 
    「事務所行くの忘れてた」 
    事務所というのはバイト先の興信所のことだ。名前を小川調査事務所という。 
    師匠は時どきそこで依頼を受ける。たいていは他の興信所をたらい回しにされたあげくにやって来る奇妙な依頼ばかりだ。 
    そんな奇妙な依頼が今回は名指しでやって来たらしい。 
    噂を聞いてのことだろう。 
    このごろはそんなご指名による依頼が多い気がする。それなりに結果を出しているということか。 

    335 刀  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/02(金) 22:28:05ID:o7OYvvFV0
    僕はその手伝いをしている。見よう見まねだが割と面白いので師匠から声が掛かるのを楽しみにするようになっていた。 
    「待ち合わせしてた依頼人、帰っちゃったみたいだけど所長が話聞いてくれたみたいだから、今から事務所行く」 
    もちろんついて行く。印鑑代もかかっているから。 

    事務所について早々、所長の小川さんは師匠を叱った。もちろん待ち合わせをすっぽかしたことについてだ。 
    こんな小さな興信所では依頼の一件一件が大切な商談だから、たとえどんな変な依頼でも割り切って大切に扱わなくてはいけない。
    少なくとも依頼人の前では。常にそんな心がけをして欲しい……云々と。 
    小川さんは飄々としているようで締めるところは締めている。 
    師匠はしゅんとなって聞いてたが、適当なところで説教も切り上げられ、話は依頼内容 にうつった。 
    「と、言うもののこいつはどうかな。期待に沿えるかどうか怪しい感じがする」 
    小川さんは砕けた調子で手を広げて見せた。 
    依頼人の名前は倉持というそうだ。男性で、七十年配の老人。刀剣の蒐集が趣味だという。依頼はその刀剣についてだった。 
    「金、持ってそうな名前」 
    と師匠がぼそりと呟いた。 

    倉持氏は先日、ある日本刀に関する勉強会に参加した。
    勉強会とは言っても刀剣研究家という肩書きを持つ先生の講義のあと、それぞれ持ち寄った自慢の一品を見せびらかして全員でああでもないこうでもないと、 
    とりとめもない雑談に終始する集まりなのだそうだ。 
    その中によくこうした集まりで顔を合わせる同年輩の男がいて、いつになく嫌味たらしい表情をしていると思っていると、大事そうに一振りの刀を取り出して口上を始めた。 
    ものは新々刀、会津の名工、三善長道。慶応のころというので、おそらく八代目。 
    刃長は二尺七寸五分。幕末らしい長刀で、非常に見栄えのする姿。 
    小板目の地肌に、刃紋は匂い出来の大互の目乱れ。 


    337 刀  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/02(金) 22:31:05ID:o7OYvvFV0
    やや研ぎ減りはあるものの、元重ねは三分もあり、迫力に満ちた一振り。 
    などと実に自慢げだ。 
    三善長道といえば初代は会津虎徹と称される最上大業物の名工。素性の良いものはおいそれと手が出せない高値がつく。 
    けれど時代が下り、代が重なれば「さほど」ではなくなる。 
    刀身や拵えなどをひっくるめて総合的に見ると、良い物だとは思うがそれほど自慢したくなるものだろうかという疑問が湧く。
    以前見せびらかしていた河内守国助の方がよほど良い品だ。 
    そう思っていると長道を持ってきたその男はこう言った。 
    「ところがこの迫力、野趣、いったい見栄えだけからくるものだろうか」 
    なにが言いたいのだろうと、周囲が注目する。 
    すると男はこの刀の出自に関する話をし始めた。 
    長々と話したが、要約するにこの三善長道は幕末期に大洲藩のさる家老の家中にあり、そのころ勤皇で固められた藩風のなかその家老の身内に、長州の起こした禁門の変に呼応して私兵により挙兵をしようとした者があった。 
    八月十八日の政変後の際どい政治情勢のさなか許されない愚挙であったため、家老はこれを強く諌めたが聞く耳持たれず、泣く泣く密かに斬り捨てて御家の安泰を図ったという。 
    その身内の若き藩士を斬った刀がここにある三善長道である、と告げられて勉強会の面々はほおと感嘆の声を上げた。 
    刀は人を斬るためのものだが、人を斬った刀というものにはなかなかお目にかかれない。
    正確には、斬ったという事実を確認できないのだ。なにしろ鑑定書にはそんなものは出てこない。 
    三善長道を持ってきた男はこれを懇意にしているさる噺家から譲り受けたのだそうだ。
    噺家の血筋はその家老に通じており、家宝の刀とともに家中の秘密としてその逸話が伝わっているのだという。 
    それを聞いた刀剣趣味の者たちは興味津々の体で口々に目の前の三善長道を褒め称えた。 
    「そう言われてみると、なるほど他にはない凄みがある」だの、「刃先からうっすら妖気のようなものが漂ってきている」だのと口にしては触らせてもらっていた。 

    339 刀  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/02(金) 22:35:06ID:o7OYvvFV0
    刀剣研究家の先生までもが「若き血気が志半ばで断たれた怨念が篭っているようだ」と感慨深げに言い出して、倉持氏は内心気分が良くなかった。 
    銘は本物でもその逸話の真贋は分かるまいに、と思ったが口に出すことは躊躇した。 
    この場に水を掛けるのはいかにも悪者にされてしまいそうで。 
    会がお開きになり、家に帰ってからも気分が落ち着かないので所蔵している日本刀をすべて出してきて並べてみると、これらの中にも人を斬ったことのある刀が混ざっているのではないかという思いが湧いてきて、居ても立ってもいられなくなったのだそうだ。 

    「それで私か」 
    「そういうこと」 
    倉持氏は『オバケ専門』の師匠の噂を聞きつけ、鑑定を依頼してきたのだという。 
    鑑定! 
    僕は思わず吹き出しそうになった。 
    う~ん、これには無礼打ちされた町人の霊が憑いてますねぇ、などとやるのだろうか。 
    傍目にも胡散臭いことおびただしい。 
    「刀のことはあんまり分かんないから、ちょっとな」 
    師匠は困惑した様子でため息をつく。 
    「ボクだってそうさ。カタナシ、ってやつ」 
    小川さんは冗談のつもりなのか判断つきかねる軽口を言って手のひらを上げる。 
    「ただ、実際になにか家で変な気配がしたり音がしたり、心霊現象かと思うようなことが起こってるらしいんだ」 
    「……思い込みだろう」 
    「さあね。ともかくそういうこともあって一度専門家に見に来て欲しいんだそうだ」 
    専門家ねえ、と肩をすくめながらも師匠は興味が湧いてきたような目つきをした。 
    「もう受けたの?」 
    「後日連絡ってことにしてある」 
    師匠は考え込むようなそぶりをしながら思いついたように首を傾げた。 
    「……三善長道って、なんか聞いたことがあるな」 
    僕は思わず口を挟む。 

    341 刀  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/02(金) 22:38:36ID:o7OYvvFV0
    「近藤勇の愛刀ですよ。新撰組の。池田屋事件の功に対して京都守護職の松平容保から拝領した物です。
    近藤勇と言えば虎徹の方が有名ですけど、そっちは偽名だったって言われてますね」 
    師匠は、なんだおまえ、という顔をした。 
    「詳しいな」 
    小川さんは急に真剣な顔つきになった。 
    「実家にいっぱいあるんで、刀やら脇差やら。門前の小僧程度ですけど」 
    そう言う僕の肩に、師匠は乱暴に手を置いた。 
    「よし、受けよう。その依頼」 
    ええっ。と呻いてしまった。 
    もしかして、なんか失敗したら僕のせいにされるのではないかという不安がよぎった。 
    「引き受けてくれるなら、早い方が良いって言ってたぞ。家まで来てくれって」 
    「じゃあもう今日とかでも?」 
    「二、三日はほとんど家に居るらしい」 
    師匠はさほど考えもせずに宣言した。 
    「今日、今から行くって電話して」 
    「了解」 
    零細興信所のたった一人の所員たる所長は、遅刻してきたアルバイトの勝手な都合をあっさり了承した。 
    「暇だろ?」 
    師匠は有無を言わせぬ笑顔をこちらに向けた。仕方がなかった。僕だって興味がある。 
    その後小川さんは倉持氏に電話をして、これからご氏名の所員が助手を一人連れて行く旨を伝えた。 
    そして住宅地図を確認したり先方に渡す契約書などについて師匠と簡単な打ち合わせをした後で、落ち着かなげな様子で妙に言いよどんだ。 
    どうしたんだろうと思っていると、「あー」と少し視線を上に向けてから「まあ、なんだ」と言った。 
    「さっきはちょっと言い過ぎたな。悪かった。いつも変な依頼を回して、すまない」 
    小川さんは師匠に軽く頭を下げた。 
    ふっ、と師匠の顔が和らぐ。「いや、すっぽかしたのは弁解できない。気をつけます」 


    342 刀  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/02(金) 22:44:46ID:o7OYvvFV0
    「そうだな」と言ってから、小川さんはネクタイの先をねじった。 
    「まあ、そういうことをするなとは言わないけど、昼間っからってのはちょっと控えるんだな」 
    ん? と言う顔をした。僕と師匠で。 
    小川さんは自分の首筋を叩いて見せた。思わず二人ともその首のあたりを見つめる。細い首だ。 
    ハッと気づいた表情をして、師匠は自分の首筋を触りその指先に視線を落とす。 
    薄っすらと赤い色がついている。首筋にもかすれて広がった丸い微かな赤い跡。 
    あ、印鑑の。 
    そう思った瞬間、「このボケェ」という怒声とともに師匠の足が鳩尾に飛んできた。 

    痛ってぇ。 
    と、右腕をさすりながら事務所の階段を下りていると師匠が何かを思い出したのか「ちょっと外で待ってろ」と一人で引き返して行った。 
    事務所の下の喫茶店の前で顔見知りのウエイトレスと立ち話をしていると嬉しそうな顔をして師匠が下りて来る。 
    「なんか食ってこうぜ」 
    そう言って、千円札を何枚かヒラヒラさせた。 
    どうやら調査費を前払いしてもらったらしい。しかし家に行って刀を見るだけの仕事で調査費なんて使うことあるんだろうか。 
    疑問に思ったが、まあくれたからには使っていいのだろう。 
    「でも今から行くって電話したばかりですよ」と諌めると、師匠は恨めしそうな顔をして「じゃあさっさと片付けてこよう」と僕をせかし始めた。 
    コピーした地図を見ながら自転車に二人乗りして目的地に向かう。 
    蒸し暑さに何度も汗を拭いながらペダルをこぐこと二十分あまり。古い家の並ぶ住宅街の一角に倉持氏の家を発見した。 
    「へぇ」と言いながら師匠が後輪の軸から足を下ろす。 
    想像していたより立派な日本家屋だ。数寄屋門から覗く庭がかなり広い。 
    門の傍らについていたインターホンで来意を告げると、倉持氏本人の声で「どうぞお入りください」と返答があった。 


    345 刀  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/02(金) 22:49:13ID:o7OYvvFV0
    庭と言うより庭園とでも言うべき景色を見ながら石畳の上を歩いて玄関にたどり着くと、ガラガラと戸が開いて和服姿の老人が出迎えてくれた。 
    「倉持です」 
    痩身から引き締まった表情の顔が伸びている。七十年配だと聞いていたが矍鑠とした姿はもう少し若く見えた。 
    「どうぞ、お上がりください」 
    値踏みするように師匠を見つめながら右手を流す。 
    僕は緊張したが師匠は平然と靴を脱いで倉持氏の後をついて行った。 
    涼しげな音をさせる板張りの廊下を進み、僕らは庭に面した広い和室に通された。 
    「いまお茶を」と倉持氏が消え、ほどなくして戻って来たときにはお盆の上に高級そうな和菓子も一緒に乗せられていた。 
    主人と客がそれぞれに居住まいを正し、もう一度名乗りあった。 
    僕もおずおずと名刺を差し出す。 
    「坂本さん」 
    まだその響きに慣れない。偽名を使うのは所長に無理やりあてがわれたからだが、いつもこの嘘が見抜かれないかと不安になる。 
    僕の将来に対する配慮らしいが、そんなやっかいごとに巻き込まれる可能性を恐れるならそもそもこんな師匠みたいな人について回りはしないのだが…… 
    「僕の方は助手というか、あの、ただの付き添いです」 
    口調が気に入らなかったのか師匠が「堂々としてろ」と目で発破をかけながら僕の足を小突いた。 
    「さっそくですが、ご依頼の品をお見せいただきたい」 
    契約に関するやりとりを終えて、師匠はそう切り出した。 
    「ええ、いま」 
    倉持氏は両手をついて立ち上がった。 
    二人だけになった部屋で僕は師匠に声をひそめて話しかけた。 
    「なにか感じますか」 
    静かな日本家屋は外の蒸し暑さが心なしか緩和されたような空間で、少しづつ汗が引いていくのが心地よかった。 
    師匠は畳から壁、そして天井の四隅へと首を巡らせた後で「なにも」と言った。 


    347 刀  ◆oJUBn2VTGE さる 2009/10/02(金) 23:01:12ID:o7OYvvFV0
    僕も同感だった。心霊現象の気配などなにも感じない。どうやら倉持氏の思い込みの可能性が高いようだ。 
    ということは、自分の所有する蒐集物の中に人を斬った刀があって欲しいという彼の願望がいかに強いかということを暗に示している気がして、少し気が重くなった。 
    先だっての勉強会で金銭の多寡を超えたその付加価値の存在を認識してしまったことが彼の精神に与えた影響は大きいと思わざるを得ない。 
    そしてそれはこの依頼の難易度にも関わる問題だった。 
    もし刀を見ても師匠がなにも感じ取れなければ、その通り告げて終わるというものではないかも知れない。 
    だからあの倉持氏のいかめしい表情のことを思うとどうしても気が重くなるのだった。 
    「お待たせしました」 
    その当人が戻って来て座につく。想像に反してその手は空だった。 
    そんな僕らの視線に反応して軽く笑みを浮かべる。 
    「ご鑑定いただくものは別室に用意してあります」 
    その前に、と倉持氏は含みを持たせるように少し間を置いた。 
    「ご評判を伺って相談した次第ではありますが、こうしたことは私も初めてですし、テレビなどで霊能者の方を拝見することがありますが、なかなかどうして皆さんそれぞれにやり方も違えば仰ることも違いますのでね、 
    なんと申しましょうか、ま、私もそうした方にお会いする機会もなく、いったいぜんたいどういうものなのだろうと、こう思う所もございまして」 
    師匠の顔が曇った。 
    回りくどい言い方だが、ようするに証拠を見せろと言っているのだ。人を斬った刀かどうか人知を超えた力で鑑定するのというのだから、それが何の能力もない人間に適当なホラを言われたのではたまらないということか。 
    自分から頼みに来ておきながら、したたかなものだ。 
    どうするのかと思って見ていると師匠は軽く息を吐いて「いいでしょう」と言った。 
    「私は死者の霊と交感することができます。ですから、もし人を斬り殺した刀があればそこにこびり付く死者の霊を見ることができるでしょう。……たとえばあなたの背中に今も寄り添う奥様のように」 


    348 刀  ◆oJUBn2VTGE さる 2009/10/02(金) 23:03:40ID:o7OYvvFV0
    空気が変わった。倉持氏の顔が緊張で震える。 
    「どうしてやもめだと?」 
    「見えるからですよ。そして奥様は私に様々なことを教えてくれます。あなたは先代から続く食料品の卸業で立派な家を建てられた。
    今では息子さんに会社を譲られ、悠々自適に暮らして趣味を楽しまれている。隣に並んでいるのがその息子さん夫婦の家ですね」 
    コールドリーディングだ! 
    僕は興奮した。 
    たぶん奥さんの霊が見えるというのは嘘だ。さっきこの家になにも感じないと言ったばかりだから。 
    ということは師匠は実際に目にしたものや、相手との会話から情報を引き出しているに違いない。 
    インチキ霊能力者と同じ手口を使っているのだ。そうして信用を勝ち取ろうとしている。 
    なんて人だ。 
    僕は畏敬と呆れるような思いが入り混じったモヤモヤした気持ちのまま、その師匠がどこで情報を得たのかと目を皿のようにして倉持氏の身に着けているものや部屋の間取、家具などを探った。 
    そしてこれまでのやりとりを思い浮かべる。 
    そう言えば倉持氏自身がお茶を運んで来たことなどは今現在独り身であることを示唆しているようにも見えるが、たまたま奥さんが外出中であったり、病院に入院中であったりというケースだって考えられる。 
    僕にはまったく想像がつかない。どうやって師匠はここまで推理できたのか。 
    「息子夫婦は確かに隣に住んでおりますが、今も息子のやっている食料品の卸の屋号は私の名字と同じです。
    広いようで狭い街です。聞き覚えがあったのではないですか」 
    倉持氏は震える声で、それでも頑張っている。 
    「いえ、残念ながら。それと奥様はあなたのご病気を心配されていますね。……心臓ではないですか。倒れたこともおありのようだ」 
    「む」 
    倉持氏は息が詰まったような声を漏らした。 

    351 刀  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/02(金) 23:08:08ID:o7OYvvFV0
    「これ以上は今回の依頼内容からは逸脱しますので、別の機会に願いたい所ですが。信じる信じないはお任せします」 
    師匠はふっ、と力を抜いた表情を見せて続けた「奥様はとてもお綺麗な方ですね。みさこさん、とおっしゃる」 
    張り詰めた空気が破れ、倉持氏は「失礼」と言って胸元を押さえたまま部屋を出て行った。 
    僕も驚いていた。気持ちが悪いものを見る目で師匠を見てしまう。 
    「どうしてわかるんです」 
    恐る恐る訊いてみると、師匠は涼しい顔をして言い放った。 
    「知ってたから」 
    そんなはずはない。依頼人の名前も今日聞いたばかりだ。
    それも師匠自身は約束をすっぽかしたせいで今の今までその倉持氏とやりとりもしていない。 
    これは僕の知らない師匠の霊能力なのではないかと、寒気のする思いを味わっていると鼻で笑うような言葉が降って来た。 
    「あのな。こういう霊能力を期待してるような依頼人と会う時は、会う前から情報収集するのがセオリーだよ」 
    会う前から? そんなバカな。師匠は僕とずっと一緒にいたじゃないか。僕にはそんな情報、入っていない。 
    横から試されているような目で見られていると、ハッと気付いた。 
    そうだ。事務所から出る時、師匠だけ引き返して行った。あの時だ。 
    お金の無心をしにいったと単純に思っていたが、もしその所長との交渉が一瞬で終わっていたとしたら、僕が下でウエイトレスと立ち話をするだけの空白の時間ができることになる。 
    「今回の依頼って、私の噂を聞いて名指しで来たって言ってたよね。自分で言うのもなんだけど、私なんか全然有名じゃないし。
    そんな噂をするのなんて、前に依頼を受けた人に決まっている。 
    その中で日本刀趣味の七十過ぎの爺さんと交友関係がありそうな人なんて数が限られるよ。
    というか、もうだいたいそんな噂を広めてるの、あの婆さんに決まってんだけど」 

    352 刀  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/02(金) 23:11:18ID:o7OYvvFV0
    師匠は具体的な名前を一人出した。以前、心霊現象の関わるある事件を解決してからやたら気に入られてしまい、感謝と親切心のつもりで様々な場所で頼みもしないのに宣伝をしてくれているのだそうだ。 
    「事務所から電話して、その婆さんからできるだけ聞き出した」 
    つまらなそうに言う。 
    コールドリーディングじゃなかった。 
    同じようにエセ霊能力者が良く使う技術で、もっと直接的かつ身も蓋もない裏技。ホットリーディングだったのだ。 
    そしてその情報を元に、死者の霊との交信を演じて見せたわけか。 
    凄いと思うと同時に、なんだかやり口が手馴れていて気持ちが悪かった。 
    この人、その道でもやっていけるんじゃないかと思ってしまう。 
    「失礼しました」 
    襖が開いて、また倉持氏が戻って来た。薬でも飲んできたのか、多少青ざめてはいるものの落ち着いた様子だった。 
    「大変ご無礼を申しました。どうかお気を悪くなさらずに」 
    僕らよりよりはるかに年長者である老人が頭を下げるのを見て、なんだか後ろめたい気になったが、おどおどしているわけにもいかない。 
    なるべく無表情を心がけた。 
    「では、刀を見ても?」 
    「は、はい。こちらです」 
    案内を受けて部屋を出、廊下を抜けて別の部屋へ入った。 
    さっきと同じような造りの和室だが、三、四畳分は優に広い。
    そして室内には刀掛台がいくつも並べられており、そのどれにも存在感のある日本刀が飾られていた。 
    数えると大小あわせて十本。ちょっとした光景だ。 
    「すぐ戻ります」 
    倉持氏はなにかに気付いたような顔をして部屋から出て行った。 
    残された僕らはその場に立ったまま刀剣の立ち並ぶ様を眺める。 
    「なあ、あれ、間違ってるよ」 
    師匠がおかしそうに指をさすので、なんだろうと思ったがその先には黒漆の一本掛の台に飾られた一振りがある。 

    354 刀  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/02(金) 23:16:02ID:o7OYvvFV0
    背が反っており、腹にあたる部分が下向きになっている。他の六本はすべて逆に腹を上向きに出っ張らせている。 
    一つだけ掛け方が異なっているので、間違っていると思ったらしい。 
    「あれはタチですよ」 
    小声で注意する。 
    「え?」 
    「太刀です。打刀より古い型の武器です。馬に乗って戦うことを前提に作られたもので、刃を下にした状態で腰に吊り下げて使います。『佩く』って聞いたことあるでしょう? いわゆる刀の方は刃を上にして腰に差します。だから台に掛ける時もそれにあわせてるんです」 
    「なんで刀は刃が上なの」 
    「戦さの時だけじゃなくて、武士が普段から持ち歩くものになっていったからですよ」 
    「持ち歩くとなんで刃が上なの」 
    「下だと刀身の重みで刃が鞘の内側にあたって痛むからです」 
    へえ。という顔をして師匠はしきりに頷いている。 
    実は適当に言ったのだが、たぶん当たらずとも遠からずのはずだ。 
    それにしても、と僕は少し身体を引いた。 
    当然、それらは茎(なかご)を抜いた状態、つまり裸で並べてあると思っていたからだ。
    鑑定と言う言葉のイメージがそうさせたのだが、しかし確かによく考えてみると霊能力で鑑定するのだから、柄の内側に隠れている銘など確認する必要はない。 
    むしろ余計な先入観を与え、鑑定の信憑性を疑う結果になるだけだろう。 
    この依頼人はなかなかにしたたかな人物だ。 
    師匠がその太刀に近づこうとした時に倉持氏が戻って来た。手に布を持っている。 
    そう言えば今日は蒸し暑さのせいで手も汗ばんでいた。 
    ということは鞘から抜かせてはくれるようだ。 
    布を受け取り、汗を拭く。師匠もそれにならう。 
    「抜いても?」と顔を向けると、老人は無言で頷いた。 
    僕は左端の黒く落ち着いた拵えが印象的な一振りを手に取った。 
    そして鞘を持つ左手を腰に引きつけ、右手で柄を握ると棟を鞘の中で滑らせながら真っ直ぐに抜いた。 

    355 刀  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/02(金) 23:20:39ID:o7OYvvFV0
    刀身を見て、すぐに白いもやの様な線に気付いた。持ち手から斜めに上がっている。 
    水影だ、と思った。 
    二度焼きした時に出る線だ。二度焼きは再刃と呼ばれ、その刀の持っていた本来の価値を大きく損なうものだ。 
    がっかりしかけたが、よく見ると再刃特有の刃紋の濁りもなく美しい形を保っている。
    水影がそのまま映りにつながっているところを見ると、これは逆にそうした趣向なのだと気付かされた。 
    姿からすると堀川物かも知れない。だとすると案外これは値が張る。 
    持つ手が少し緊張した。 
    その隣では師匠が別の刀を手に取り、同じく鞘から抜こうとしている。しかし危うげな手つきで、しかも胸の前で刀を横にして左右に力を入れて引き抜こうとしていた。 
    僕は思わず首を振って注意する。 
    自分の左手の鞘をもう一度腰にあてて、さっきの僕と同じように抜けというジェスチャーをした。 
    刀身を晒している時は喋らないのがマナーだということは雰囲気で察してくれたらしい。 
    師匠は無言のまま見よう見まねで腰から引き抜いた。 
    唾がつくと錆の原因にもなるので、刀剣を鑑賞する時には会話は慎むのが普通だ。
    そのために懐紙を咥える習慣さえあったのだ。 
    刃を上にして抜くのも鞘の内側に擦らないようにするためだ。横にして左右に抜くと、刃を鞘に押し付ける形になり、鞘も痛めるし刃にも「ひけ」という傷がつくことがある。 
    こんなに素人とは思わなかったのでドキドキしながら師匠の動きを注視していたが、その手に現れた刀身に思わず目が行った。 
    あまりに滑らかな肌、そして刃紋。 
    現代刀だ。 
    木製の漆台も二本掛けで、大小が揃っている。
    残された脇差の拵えも全く同じ意匠で、しかも鍔に見覚えのある家紋があしらわれている。 
    さっきの部屋にあった桐の箪笥にあった家紋と同じだ。倉持家の家紋なのだろう。 
    ということは注文打ちに違いない。 
    ここで僕の頭は回転を早めた。 
    まずいな。 

    357 刀  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/02(金) 23:24:41ID:o7OYvvFV0
    師匠はこのあとどうするつもりなのだろう。 
    もしなんの霊感も働かない場合、正直にそれを依頼人に告げるだろうか。
    依頼人は自分のコレクションの中に人を斬った刀があることを望んでいるのだから、そんな結論にあっさりと納得するだろうか。 
    安くない料金を興信所に払い、その代償としてお金に代えられない付加価値を見出す、というのが倉持氏の目的なのだろうから、逆にそんな刀はないというお墨付きを得た結果になると、これは酷い意趣返しだ。 
    もし倉持氏がそんなことを想定もしていないような短絡的な人物だったなら、面倒なことになりそうだ。 
    だから、いっそ師匠は霊視まがいのホットリーディングで見せたようなプロ意識と言うか、割り切った考え方をして「どうせわかりっこないから」と出まかせを言う可能性があるのだ。 
    たとえば、「この刀はかつて人の生き血を吸っています」と。 
    その発言がもし今持っているその現代刀に対して飛び出してしまうと実にまずいことになる。 
    そんなワケないからだ。 
    けれど師匠はそれを知らない。その刀が最近打たれたものだということを。 
    せめて家紋に気付いてくれ、と祈りながら師匠を横目で見ていると、首を振りながら難しい顔をした。 
    (違う) 
    そう言っているようだ。 
    僕は手の内の刀を一通り鑑賞したあとで鞘に収めた。師匠もそれにならう。 
    「これらはすべてご自分で?」 
    師匠の問い掛けに倉持氏は頷いた。「ええ。若いころからの道楽で、自分で買い集めたものです」 
    期待するような目を向けてくる。 
    それから僕らはそれぞれすべての刀剣を抜いた。もちろん一振りだけある太刀も。 
    どれも高そうなものばかりだった。しかし新刀、新々刀、現代刀と、どれも時代や体配が異なり、あまり蒐集物にこだわりは感じられない。 
    銘が見てみたかったが、とりあえずここは師匠に任せることにする。 
    「拝見しました」 


    358 刀  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/02(金) 23:28:22ID:o7OYvvFV0
    座布団の上に居住まいを正し、依頼人に正対する。 
    「ありません」 
    きっぱりした口調に倉持氏の顔が強張る。 
    「ないと」 
    「はい」 
    窓ガラス越しに庭の白い砂の照り返しが射し込み、師匠の横顔を照らしている。 
    背筋を伸ばして前を見据えるその前髪をわずかに開けた窓から吹いてくる風が揺らす。 
    「少なくとも、人を斬り殺したような痕跡は見つかりません。殺された人間の怨念や情念は全く感じない。
    以前人を刺した包丁を見たことがありますが、何年経ってもそこに残る怨念は消えていませんでした。 
    もっとも刀のそれははるかに古いものでしょうから、消えてしまうものなのかも知れませんが。
    いずれにしても私には見ることができませんでした」 
    お役に立てず、残念です。 
    師匠は軽く頭を下げた。 
    倉持氏はなにかを言おうとして口を開きかけたが、すぐにつぐんだ。
    あまりにはっきりとした否定に、反論をすべきか迷っているようにも見えた。 
    信じたくなかったらそれでいい。別の霊能力者を探して同じことを頼めばいいだけだ。 
    ただ、誓ってもいいが、まず自分で霊能力者を名乗るような人間なら、今僕らがなにも感じられなかったこの刀の中の一振りを無責任に指差すに違いない。 
    そんなことで満足するならどうぞ御自由に、というところだ。 
    「そう、ですか。しかし……そんな……では……」 
    師匠の視線から目を逸らし、倉持氏はぼそぼそと歯切れ悪く放心といったていで呟いている。 
    見つからなかったからと言って、規定の料金を負けてやるわけにもいかない。
    その分多少の愚痴はじっと聞いてあげるしかないだろうと覚悟していた。 
    しかし依頼人は妙に落ち着かなげな様子をしていたかと思うと、その表情に不穏な翳りが覗き始めた。 
    落胆しているのかと思って見ていたが、その目の色に浮かぶものはそれとは少し違うように感じられた。 
    なんだろう。師匠も怪訝な顔をしてじっと目の前の和服姿の老人を見つめている。 

    359 刀  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/02(金) 23:31:23ID:o7OYvvFV0
    彼を包むその感情は落胆ではない。絶望? 違う。なんだろう。とても懐かしい感じ。親しみのある感情。 
    目を、逸らしたくなるような。 
    ……恐怖。 
    恐怖ではないか。これは。 
    そう思った瞬間、寒気に襲われた。 
    わああああああん。 
    身体が硬直する。 
    なんだ今の音は。音? 今僕は音を聞いたのか? 
    部屋を見回すが、変わった様子はない。 
    しかし、ずうんと重いものが腹の下にやって来たような感覚。 
    部屋の中の光量は全く変わらないままで、すべてが暗くなっていく感じ。 
    ビリビリと僕の中の古い、人体に今はもうないはずの感覚器がその気配をとらえていく。 
    うぶ毛が逆立つ。 
    死者の霊魂が。凍てつくような悪意が。 
    今、僕らの周りに湧き出てこようとしていた。 
    「動くな」 
    師匠が短く言った。 
    やばい。 
    これはやばい。近すぎる。 
    まったく心構えができていなかった僕はパニック状態に陥りかけた。 
    知らぬ間に広い畳のそこかしこから、人の頭のような形をした真っ黒いなにかがいくつもいくつも生えてきている。 
    前を向いたまま動けない僕の首の後ろにも、なにかがいた。無数の気配。吐き気のするような。 
    外よりいくぶんかましだった蒸し暑さも、そのまま変質したようにどろりとした濃密な冷たさとなって、部屋の中に充満している。 
    僕は自分の霊感が異常に高ぶっているのがどうしようもなく恐ろしかった。相手の正体も分からない。 
    倉持氏もその気配に気付いているのか、顔を硬直させたままぶるぶると頬の肉を小刻みに震わせていた。 


    361 刀  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/02(金) 23:34:41ID:o7OYvvFV0
    さっきまで。 
    さっきまでなにも感じなかったのに。どうして? 
    畳からずるりと出てきた黒い影たちが、浮遊を始める。 
    人の形をしている。 
    視界の端をかすめたそれは首のあたりが千切れかけ、皮一枚で繋がっているようにぶらぶらと揺れているように見えた。 
    黒く塗りつぶされているようで顔かたちなどはまったく分からない。 
    ただ、その黒いものが笑っているような気がするのだった。 
    いくつもの影が部屋の中を浮遊し、そのどれもが身体の一部が欠けていた。 
    心臓が早く脈打ちすぎて止まりそうだ。 
    確かに家の中で、変な気配や音、心霊現象のようなことが起こっていると聞いていたのに。 
    それを、コレクションの中に人を殺した曰くつきの刀があって欲しいと願う心理が生み出した過剰な錯覚だろうと高をくくってしまっていた。 
    どうしたらいい。どうしたらいい。 
    視界が暗くなっていく。どろどろと部屋ごと溶けて行くようだ。 
    師匠が、動いた。 
    それに反応して倉持氏がそばにあった掛台から脇差の一振りを掴み、中腰のまま胸元に引き寄せる。 
    怯えた表情だ。周囲を包む異様な空気を察知しているらしい。 
    師匠は構わず一歩前に踏み出す。そして倉持氏の目を見据える。 
    「戦争に、行きましたね」 
    その言葉に老人は目を剥く。 
    「北じゃない。……南方ですね」 
    師匠はちらりと横目で影を追うような仕草を見せた。 
    見えているのか、あの黒い影をもっと詳細に。 
    「あなたはそこで、人を斬り殺しましたね。軍刀で」 
    口をへの字にして泣きそうな顔をする依頼人に、容赦なく言葉が浴びせられる。 
    「斬り口が深すぎる。戦場じゃない。無抵抗の相手に対して振り下ろされた刃ですね」師匠の瞳が大きくなり、左目の下に指が這う。 

    371 刀  ◆oJUBn2VTGE ウニ猿 2009/10/02(金) 23:52:54ID:o7OYvvFV0
    「戦時中のことです。今それを非難するつもりはありません。しかし戦争が終わって新しい生活を送り始めても、あなたにはその凄惨な記憶ががずっと圧し掛かっていた。夜、うなされただろうと思います。死者の恨み、怨念を恐れたはずです。 
    日々得体の知れない物音に、気配に、怯えていたでしょう。だから……」 
    師匠は立ち並ぶ刀剣に目をやった。 
    「勉強会で人を斬ったという刀を見てから、あなたは『上書き』を考えたのです。あるいは無意識に。
    人を斬り殺した刀が家にあれば、そんな気配や物音も、すべてその刀に憑いているものと思い込めるからです」 
    そうか。 
    分かった。 
    そのために霊能力を雇って来て、そのお墨付きを貰いたかったのか。 
    倉持氏はなにも言えずにだだ呼吸だけが荒い。鞘の中で刀がカタカタと鳴っている。 
    「今日私はこの家にお邪魔して以来、なんの霊的な気配も感じませんでした。それは刀を見ても同じでした。
    しかしそんな霊は刀に憑いてはいないという先ほどの返答とともに、どこにもなかったはずのこの霊気が吹き出してきました。 
    今まで自分を苦しめた悪霊が、自分ではなく刀に憑いていたものなのかも知れないという期待感によってさっきまでその存在を保留されていたからです。斬った軍刀はここになくとも、死者の一部はあなたの心の中に残っていた。 
    それが私の言葉で存在を肯定され、湧き出して来たのです」 
    こうなってはもう。 
    と師匠は言った。 
    「死者の念なのか、あなたの心が生み出したものなのか、区別がつけられない」 
    嘲笑が周囲から流れてくるような錯覚があった。気持ちの悪い気配が、薄くなったり濃くなったりしながら周りを漂っている。 
    気がつくと鞘の音が止まっていた。 
    「なにをいう。なにを……なにを……わかったような……」 
    ぼそぼそと口の中で繰り返す倉持氏の目に暗い色が灯っている。その目は師匠を睨み付けていた。
    正常と異常の境でわだかまるような目の色だった。 


    372 刀  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/02(金) 23:57:00ID:o7OYvvFV0
    空気が張り詰める。座ったまま、重心が少しずつ動いていく。そろそろと鞘を腰に押し付けていく。 
    居合いをやっている! この老人は。 
    無数の針で刺されるような殺気を感じながら、自分の汗が引いていくのが分かる。 
    師匠との距離は、間合いだ。 
    息が短く、荒くなる。 
    左手の親指が鯉口にかかる。 
    右手の指が柄の下に隠れる。 
    すべての動きが止まる。 
    抜く。 
    そう思った瞬間、僕は機先を制して手元にあったガラス製の灰皿を指に引っ掛けるようにして、投げつけていた。 
    「あっ」 
    という声がして、同時に柄の先に硬いものが当たる衝撃音がした。 
    老人は左手を押さえ、脇差は鞘に収まったまま畳の上に落ちる。周囲のざわざわした影たちが一瞬で引いていく気配があった。 
    「貴様ッ」 
    物凄い形相で唸る老人を尻目に、僕は目の前の師匠の肩を抱いた。 
    「逃げますよ」 
    有無を言わせず抱きかかえるように走り出そうとする。 
    師匠はそれに抵抗しようとはしなかったが、ただ一言、老人に向かって短く言い放った。 
    「業だ。付き合え。一生」 
    そして畳を蹴って部屋を出た。 
    出るとき、ぬるん、という嫌な感触があった。自分を包む空気が正常に戻る。 
    背後からわめき声が追いかけて来る。正気が疑われる。危険だった。 
    廊下を走り抜け、玄関の靴を持ち、履く余裕もなく太陽の下に飛び出てから石畳の道を一目散に駆けた。 
    自転車に飛び乗り、師匠の重さが加わるのを確認してからペダルを思い切り踏んだ。 
    「あ」 
    と背中から師匠の声。 
    ギクリとして、それでも自転車をこぎ出しながら「なんです」と訊いた。 

    373 刀 ラスト  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/03(土) 00:00:05 ID:o7OYvvFV0
    「金、もらうの忘れた」 
    それどころじゃないでしょう。 
    そう言い返して、僕は全速力でその立派な家の門から離れ始めたのだった。 

    後日。 
    小川調査事務所のフロアで僕と師匠は上機嫌の所長と向かい合ってた。 
    「倉持さんからお金が入ったよ」 
    報告を聞いて諦めていたそうだが、昨日本人がやって来て規定の料金の十倍を超えるお金を置いていったのだという。 
    僕と師匠は顔を見合わせた。 
    「取り乱して悪かったって。あの時のことは他言無用に願うってさ。そりゃまあこちらには守秘義務ってものがあるからね。
    もちろん、と答えといたよ」 
    口止め料も含まれているわけか。確かにへたをすると殺人未遂だからな。 
    思い出していまさらゾッとする。 
    「ああ、それからこれ。きみたちにと」 
    デスクの下から大きな箱を取り出して来る。桐製の立派な刀箱だった。 
    開けると中には目算六十センチ弱の刀剣が一振り入っている。脇差だ。 
    「え? これをどうするんですって?」 
    動悸が早くなってきた。 
    「だから、くれるって」 
    凄い。こんな高価なものを。 
    ついていた登録証と保存鑑定書を読みながら興奮を抑えられなかった。 
    師匠は笑って「もらっとけ」と言った。僕に譲ってくれるらしい。価値が分かっているのだろうか。 
    「あと最後に伝えてくれって。……『わかりました』ってさ。なんのことだ」 
    師匠はそれを聞いて、嬉しそうな顔をした。ひょっとして脇差を抱える僕よりも。 
    その僕は脇差の柄のところに目立つ傷があるのに気が付いた。 
    あの時の灰皿か。 
    しっかりしてるな。 
    倉持氏のいかめしい顔を思い出して、なんだかおかしくなった。

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