都市伝説・不可思議情報ファイル

    2016年09月






    1 228 本当にあった怖い名無し sage2006/10/15(日) 14:02:53 ID:riE1mh4y0
    458 :本当にあった怖い名無し :2006/09/24(日) 02:56:25 ID:fgYIrMiQ0 
    小学3、4年ときの話 
    地元の子供たちは夏休みは毎年家の裏の林でクワガタ取りをするのが恒例だった。 
    クワガタ取りはいつもは友達といくんだけど 
    前日に探索した際でかいミヤマが取れるスポットを見つけたので 
    ミヤマ独占をもくろんでその日は一人で林に出かけた。 

    「ミヤマの木」にたどりついた俺は一心不乱にミヤマを取っていた。 
    すると後ろから「なにしてるの~」と女の声がした。 
    俺は咄嗟に隠れた。 

    いつだったか雪を集めてかまくらを作るのがめんどくさくなり 
    排雪場にすてられた雪を直接真下に掘り進みありの巣状の巨大かまくらを作った事を思い出す。 
    家からコタツを持ち出そうとした所「死ぬ気か!」とオヤジにしこたま殴られ 
    俺の巣が一夜にして壊されたた苦い記憶が蘇る。 
    「ミヤマの木」は急斜面に位置しておりかなり危険な場所なのだ。 
    大人に見つかれば二度と来れなくなる。 
    当時大人は俺にとって遊び場を奪う忌むべき敵だった。 

    229 本当にあった怖い名無し sage2006/10/15(日) 14:03:50 ID:riE1mh4y0
    459 :本当にあった怖い名無し :2006/09/24(日) 02:57:18 ID:fgYIrMiQ0 
    そっと様子を伺っていると女が走り寄ってきた。 
    見つかってから隠れたので無理もない。 
    小学校高学年くらいの女の子だった。 
    女「なにしてんの?」 
    俺「虫とってる」 
    女「もっと面白いとこあるよ」 
    俺「何処?」 
    女「あっち。底なし沼超えた向こう」 


    底なし沼は緑色の気味の悪い沼で 
    錆びた自転車やらポリバケツなどが散乱していて沼の真ん中にはかたっぽだけの長靴があった。 
    沼にはまったが最後生きて出てこれないとか隣町の子が沼にはまってそれ以来沼から 
    助けを呼ぶ声がするだとか噂の絶えない場所で誰も近寄りたがらなかった。 
    沼の向こうは誰も見た事のない異世界だった。 
    俺「よし!いこう!」 
    恐怖心もあったがなにより沼の先が見てみたい。 
    気味悪いが少なくとも「底なし」でない事は確認済だ。 
    かたっぽだけの長靴は俺のだからだ。 

    230 本当にあった怖い名無し sage2006/10/15(日) 14:04:38 ID:riE1mh4y0
    460 :本当にあった怖い名無し :2006/09/24(日) 02:58:02 ID:fgYIrMiQ0 
    沼超えは困難を極めた。 
    沼の真ん中を突っ切ったほうが早いが、長靴ではない為沼の淵を歩いた。 
    とはいえ足を取られないようにぬかるんだ地面を歩くのは体力がいる 
    ミヤマ用に持ってきたビン詰めのハチミツの重さが恨めしい 
    沼超えにハチミツはいらない。 
    虫にも悩まされた。ハチミツに寄ってくるのだ 
    いっそ捨ててしまいたかったが俺の朝食のホットケーキにも使うので無理だ 
    そして何より女がどんくさかった 
    謎の小虫が飛びかっている場所があり俺はダッシュで駆け抜けようとした。 
    その時後ろで「へぁん!」と情けない声がした。 
    無視してしまいたかったが思いとどまった。 
    女「そこ飛び越えられないよ」 
    俺「支えてやるから飛べ!」 
    一刻も早く小虫スポットから抜け出したいのになんてざまだ。 
    俺は小虫スポットに飛び込み通り抜ける事も出来ず小虫スポットで女を待つハメになった。 
    ハチミツをもっているので不快指数は200%だ。 
    女「ごめん。ありがとう」 
    俺「くる時どうやってきたのさ」 
    女「え?あっち側。あっち側は道あるんだよ」 
    女は沼の対岸を指差しいった。 
    何をいってるんだこの人・・ 
    そんなこんなでハエやらアブやら謎の虫にたかられながら道なき道を進み 
    とうとう俺は沼越えを果たした。 

    231 本当にあった怖い名無し sage2006/10/15(日) 14:06:03 ID:riE1mh4y0
    461 :本当にあった怖い名無し :2006/09/24(日) 02:58:51 ID:fgYIrMiQ0 
    沼を越え先へ進むと細い道が現れ、さらに進むと開けた場所にでた。 
    トラックやショベルカー、クレーンなどが無造作に置いてあった。人気が全くない。 
    建物も一つもない。 
    周りはうっそうとした木に覆われここに至る道は自分が歩いてきた小道しかなさそうだった。 
    トラックはどうやってここにもってきたんだろ。 
    女「ヘンな場所でしょ。うちの秘密基地」 
    トラックの荷台にはお菓子の袋が散乱していた。 
    女「いつもここで食べるんだ。他の人呼んだの初めてだ」 
    無造作に置かれてる乗り物には違和感あったが 
    あまりに静かで誰にも知られてない場所という感じがしてでワクワクした。 
    その後はトラックの運転席乗ってドライブごっこしたり俺がとったクワガタを戦わせたりして遊んだ。 
    やがて日が沈み始めたので帰る事にした。 

    俺「そろそろ帰るよ。またきていい?」 
    女「いいよ。さっきの木まで送るよ」 

    帰りは来た時とは逆ルート。道のあるルートで帰った。めっちゃ快適だった。 
    俺「んじゃね」 
    女「バイバイ。うち休み中はこのヘンうろうろしてるから。」 

    232 本当にあった怖い名無し sage2006/10/15(日) 14:07:03 ID:riE1mh4y0
    463 :本当にあった怖い名無し :2006/09/24(日) 03:00:06 ID:fgYIrMiQ0 
    あとはかって知ったる道だ。 
    林の出口に差し掛かる時、男の声が聞こえた。 
    振り返ると我が家の向かいに住むおじさんがいた。血相変えて走り寄ってきた。 
    おっさん「なにやってたの!」 
    俺   「え?ごめん」 
    おっさん「心配したんだよ~!お~い!いたぞー!」 
    何がなにやらわからない。家の方を見ると大人達が表にでてなにやら騒然としている。 
    オヤジ「何時だと思ってるんだ!」 
    母は泣いていた。そんなおそくなったかなあ・・?? 
    オヤジ「今まで何処いたんだ!」 
    あたりを見渡すと真っ暗だった。さっきまで明るかったのに・・ 
    ど深夜だった。 
    俺は深夜2時頃林からふらっと帰ってきた。 
    両親は夕飯になっても俺が戻らない為探し回ったが見つからず。 
    ご近所総動員で林の中を今まで探し回っていたという。 
    そんなはずない。さっきまで明るかったはずだ。こんな深夜に懐中電灯もなしに歩き回れるはずない。 
    女ともさっき別れたばかりだ。 
    いろいろ事情を説明したが取り合ってもらえない。 
    訳がわかんないままうやむやにされた 

    233 本当にあった怖い名無し sage2006/10/15(日) 14:08:41 ID:riE1mh4y0
    464 :本当にあった怖い名無し :2006/09/24(日) 03:00:36 ID:fgYIrMiQ0 
    もう一つ腑に落ちない事がある。 
    林を探していたのは俺の友達のK君の証言があったからだそうだ。 
    話によると俺と林に入り昼まであそび、飯を食いに一旦家に帰った。 
    俺は腹が減ってないのでここでクワガタ取ってるといい残ったそうな。 
    昼食を食べもう一度戻ると俺の姿が見えない。仕方ないので帰ったとの事。 
    知らん知らんそんな事。もともとミヤマスポットばれたくないから一人で出かけたのに・・ 
    後日もう一度林にいってみた。 
    沼越えはできたがそっから先がわからなくなっていた。 
    結局あの女の子とは一度も会えなかった。 

    俺は深夜まで明かりもなしに昼以降ずっと一人でいた事になる。 
    何してたんだよ俺・・ 


     










    1 本当にあった怖い名無しsage New! 2012/09/08(土) 15:21:11.91 ID:QnxrNIbA0
    すまん、長くなってしまうけど、俺が体験した出来事を書き込ませてくれ。 
    多分、こんなことを話しても誰も信じてもらえないと思う。 
    今現在も、これから書き込もうとしていることの記憶が急速に消えてきている。 
    だから、支離滅裂な部分もあるかも知れない。 

    昨晩、俺は仕事の帰り道、夜10時頃に近所の通りを歩いていた。 
    すると、突然にヌルリと言うか、空気の塊みたいなものにぶつかった。 
    それは一瞬のことで、その後はすぐに普通の状態に戻った。 
    仕事で疲れているのかと思いながら、周囲の状況にいい知れない違和感を感じつつ、自宅に戻ると、窓にガラスが貼られていない。 
    周囲の家を見ると、やはり窓にガラスが貼られていなかった。 
    よくよく見ると、表札もなく、郵便受けは新品同然。 
    壁も汚れていないし、夏だと言うのに虫一匹飛んでいない。 
    さらに、自宅も、そして周囲の家の照明もが一つとして灯されていない。 
    慌てて玄関の鍵を開けて中に入ると、そこには家具や間取りはそのままに、家具は新品同然、家族は誰もいない。 
    茶の間のテレビをつけても電源が入らない。 
    携帯で電話をしようとすると、圏外になっている。 
    そこで、携帯のワンセグで電波を受信してみた。 
    すると、なんか悪戯書きした顔みたいな絵と、ツートン・ツートントンみたいな電子音らしい音が聞こえた。 

    とにかく人がいる所に行かないとダメだと思った俺は、近所の繁華街に走った。 
    しかし、そこもやっぱり誰一人としていない、まるでゴーストタウン。 
    電灯も灯されていないし、窓ガラスはどのビルにも貼られていない。 
    空を見上げると、夜10時なのに北の空が夕焼けなんてもんじゃないぐらい真っ赤だった。 
    俺はもう、どうしたら良いのか分からなくなってベンチに腰掛けると、タバコに火をつけた。 
    そこは見知った繁華街内の公園だったが、風もなくシンと静まりかえっている。 

    灰皿にタバコの吸い殻に捨てに行くと、いつもはタクシーの停留所になっている所に、誰かが立っているのが見えた。 

    と、ここで、ちょっと所用でお出かけしてくる。 

    120 107 sage New!2012/09/08(土) 23:37:25.24ID:QnxrNIbA0
    すまん、訂正されて。 
    この出来事は、今現在も自分の身の上に起きていることだった。 
    あとスレ違いだと思うけど、このまま書き込ませてほしい。 

    吸い殻入れの所に誰かがいる。 
    自分以外の誰かがいる、俺は嬉しくなって駆け寄った。 
    そこに立っていた人物は、スーツ姿だった。 
    灰色のスーツ、頭は七三分け、手に携帯電話を持っていた。 
    その人物は俺を見るなり、なんだかほっとしたような表情を浮かべていた。 
    「乗ってください」 
    指さされた場所に、真っ白な車があった。 
    見たことのない車種で、助手席には誰かが座っていた。 
    後部座席に乗り込むと、さっきのスーツの人が運転席に乗ってくる。 
    そのまま車は、驚くほど静かに前に進み出した。 
    しばらくの沈黙、俺は耐えかねて質問する。 
    「ここは、どこなんですか?」 
    「大丈夫、もうじき戻れますよ」 
    質問の答えになっていなかった。 

    しばらく進むと、見知った通り(もちろん誰もいない)を通り過ぎて、見知らぬ道路に出た。 
    そこをしばらく進むと、突然車が止まった。 
    「選んでください」 
    と、そのスーツの人は言った。 

    121 107 sage New!2012/09/08(土) 23:38:28.51ID:QnxrNIbA0
    「選んでください」 
    と、そのスーツの人は言った。 
    彼は車の荷台から一枚のプレートを取り出すと、俺に見せた。 
    なんだかワケの分からない文字が書かれているプレートだった。 
    「ここに行くか選んでください」 
    その時、俺の頭の中で、なんと言えばいいのか、考えが複数浮かんだ。 
    一つは今までの自分の記憶、当たり前の日常の思い出。 
    もう一つは、誰かに殺された記憶、これを説明するには、異様なほど感情が入りすぎて、説明が難しい。 
    俺は二つの記憶を同時に持ちながら悩むことになった。 

    フェブィと呼ばれる植物の根(フォブ)を持つものとは反対のもの、 
    つまり根が上に、葉が下に生えるものが生きている状態。 

    というイメージが浮かんだ時に、俺は車に乗っていた。 
    助手席に座っていた人物が「もう大丈夫です」って言って、ペットボトルを差し出してくれた。 
    その人物の背中には、なんか悪戯書きみたいな入れ墨がされていて、ものすごく不気味だった。 
    銘柄はアク○リアスだったから、それを喉を鳴らして飲んだ。 
    「このまま寝てしまえば、すぐ戻れますよ」 
    という所で、急な眠気が押し寄せてきて、目覚めると自宅の前だった。 

    白昼夢と言われれば、きっと俺の精神が狂ってしまっただけなのかも知れない。 
    ただ、急速に消えつつある記憶の中に、俺は唯一残さなくてはならない言葉がある。 
    「1つと見えるものが1つとは限らない」 
    言葉に出すと、こんな言葉になってしまう。 
    もっといい言葉が見つけられればいいんだけど。 

    それが、今までの体験。 

    122 107 sage New!2012/09/08(土) 23:50:05.44ID:QnxrNIbA0
    その後、説明のできない出来事が起きている。 
    微妙に世界が違ってしまっている、という言い方が正しいのかも知れない。 
    俺が狂ってしまったのか、それとも、ここが俺の認識する世界と違う場所なのか。 
    俺にはもう分からない。 
    それは些細な違いだから、もう俺は自発的に行動は二度としない。 
    じっとしていれば、何も変わらないんだろう。 
    ただ、このスレを読んでくれている人たちにだけは、知ってほしかった。 
    ちょっとだけ違う世界、それが実在する可能性について。 

    あと、もし少しだけ本音を言わせてもらえるとしたら、 
    助けてくれ・・・ 



    1 雲  後編 ◆oJUBn2VTGE ウニ2013/09/06(金) 22:25:48.72ID:kIaSDyGu0
    外は雨だ。額に、顔に、大粒の雫がかかる。雨脚はさほど強くないが、空を見上げようとしても、なかなか目を開けられない。 
    それ以前に、真っ暗な空にはどれほど目を凝らそうとも何も見えなかった。 
    目を細めていた師匠が「くそっ」と短く叫ぶと、家の中に取って返した。一分と経たずに飛び出してきたその手には、車の鍵が握られていた。 
    「来い」 
    師匠は僕にそう言うと、駐車場へと駆け出す。 
    「こんな雨の中、どこ行くんです」 
    僕は追いかけながら叫ぶ。心臓がドクドク言っている。さっきまでの穏やかな時間はどこに行った? ていうか、返事は? 
    エンジンが掛かる音を聞きながら助手席に飛び乗る。 
    「傘も何も持って来てないですよ」 
    運転席の師匠に訴えるが、師匠は親指で後部座席の方を示し、「合羽と傘は常備品だ」と言って車を急発進させた。 
    フロントを叩く雨粒を跳ね飛ばしながら、ボロ軽四は住宅街をありえない速度で走る。
    急ハンドルを切っている間に電信柱が迫るのが見えて思わず仰け反った。 
    「な、ちょ、な……」 
    何か喋ろうとすると、舌を噛みそうになる。これほど乱暴な運転は珍しい。どうして師匠はこんなに焦っているんだ? 
    幹線道路に出て、さらにスピードが上がる。
    しかし右へ左へという横へのGがなくなったので、ようやく一息ついた僕は「なんなんですか。どこに行くんです」と訊いた。 
    「通ったんだよ!」 
    師匠がハンドルにしがみつきながら叫ぶ。 
    ゾクリとした。 
    通った。そうだ。さっきの、室内が一瞬暗くなる現象。あれは、何かが通ったのだ。雨雲で覆われた上空を、巨大な何かが。
    まるで無いはずの光源を遮るかのように。 
    ぞわぞわと肌が浮き立つ。何度も経験した小さな怪異とは、全く違う。
    いつもの日常とほんの少しだけずれた不思議な出来事なら、これほど師匠が取り乱すことはない。 
    そんなものと比較にならない。人知の及ばない、何か。 
    僕は雨だれが車の屋根を打つ音に聞き耳を立てる。 
    「どこへ行くんです」 
    もう一度その問いを投げかけると、「山」という短い答え。 
    「なぜです」としつこく訊くと、うるさいな、という感じで師匠は「ここに居たんじゃ、よく見えないからだ」と言った。 

    408 雲  後編 ◆oJUBn2VTGE ウニ2013/09/06(金) 22:28:16.09ID:kIaSDyGu0
    「山の方は、風下だ。降り始めてからまだたいして経ってない。雨雲がまだ到達してない可能性が高い」 
    雨雲が到達していなかったら、なんだと言うんだ。重ねてそう訊ねようとして、その前に答えに思い当たった。 
    見たいのだ。師匠は。一体何が上空で起こっているのか。あるいは、空の下の街で、今何が起こっているのか。 
    そして車線変更をした瞬間、数日前に登ったばかりの山に向かっていることに気づく。師匠がせんせいと呼ぶ、雲消し名人のいる山にだ。 
    車が山道に入る手前で、雨脚が急に弱まりやがて完全に止んでしまった。雨雲の先端を抜けたのだ。 
    水気を失ったワイパーが耳障りの悪い音を立てる。
    くねくねと曲がりくねる山道をガードレールすれすれで登り続け、前回の登山口に差し掛かったが、止まらずに通り過ぎた。道は悪くなったが、まだ車で先へ行けるようだ。 
    途中、師匠がふいに口を開いた。 
    「お前、気づかなかったか」 
    「何にです」 
    「雲だよ。雲。空に、変な雲が浮かんでたろ」 
    「変な雲?」 
    いつのことだろう。そう思って訊いてみると、師匠は「このところずっとだ」と吐き捨てるように言った。 
    「ドーナツみたいな形の雲だ」 
    何故かゾクッとした。確かに見ている。最近、何度か。
    しかしそんな食べ物に似た形の雲なんて、お腹が空いていたら何でもそう見えるってだけのことじゃないのか。 
    「ずっと見たか」 
    「え?」 
    「そのドーナツ雲をずっと見てたか」 
    「ずっとは、見てないです」 
    そう答えた僕に、師匠は奇妙なことを言った。 
    「穴の位置が変わっていない」 
    見続けていたら分かることだ。 
    師匠は険しい顔のままで言う。 
    「楕円形に近い形の大きめの積雲が、風に流されている間に、急に先端が凹むんだよ。その凹みが内側に入り込んで来て、先端がまた雲で塞がる。
    それで穴が出来るんだ。 
    雲はドーナツに似た形になる。穴の位置はどんどん風上の方へ移動していく。雲が動いていくのに、穴の絶対位置が変わらないからだ」 

    409 雲  後編 ◆oJUBn2VTGE ウニ2013/09/06(金) 22:31:14.76ID:kIaSDyGu0

    穴の位置が変わらない? どういうことだ。 
    雲は風に乗って流れて行く。 
    空全体が流れて行く中で、絶対位置というものが意味するものを考える。その時、頭の中に奇怪な想像が浮かんだ。 
    そんな、馬鹿な。ありえない。 
    思わず口に手を当てていた。 
    流れる空における絶対位置とは、地上の位置のことだ。地上の同じ地点の上空に、雲の穴が出来ている。 
    そこから導き出される絵が…… 
    脳裏に瞬く前に、師匠が車を止めた。 
    「行くぞ」 
    「ちょっと待って下さい」 
     僕は後部座席にあるはずの傘と合羽を探したが、見つからなかった。常備品が聞いて呆れる。 
    師匠は平然とドアを開けて外に出た。慌てて僕も飛び出して、追いかける。雨は降っていないが、あたりは真っ暗だ。
    車から持ち出した懐中電灯で前方を照らしながら師匠が早足に進む。 
    行き止まりに見えた舗装道から、奥の藪を抜けると前回歩いた覚えのある山道に出た。かなりショートカット出来ている。その道を二人で急ぐ。
    もちろん登る方へだ。 
    足元が良く見えない分、ガサガサという下生えの感触が気持ち悪い。蛇の尻尾を踏んでしまっても分からないだろう。 
    そうして十分かそこらは歩いただろうか。 
    『ここから先、私有地』という立て札が懐中電灯の明かりに浮かび上がったが、その枝道には入らず、僕らは先へ進んだ。 
    やがて道が開け、左側が崖になっている場所に出る。街が一望できる絶景だ。
    崖の側まで近づくと、遠くの地上に小さな星のような光が微かに輝いているのが見える。街の明かりだった。 
    崖の手前の平らな岩の上に、立っている人影がある。 
    「せんせい」 
    師匠が呼びかける。するとその修験者姿の老人が振り向いた。 
    「何をしに来た、わた雲」 
    声が嗄れていた。口にした瞬間、ゴホゴホと咳き込む。 
    「あ……」 
    そんな老人が屈む姿にも目を向けず、師匠は真っ直ぐ前を見て絶句し、呆然と立ち尽くした。 
    空が。 
    真っ暗な空がある。 

    410 雲  後編 ◆oJUBn2VTGE ウニ2013/09/06(金) 22:32:57.75ID:kIaSDyGu0
    暗さに慣れた僕らの目には、そこに浮かぶ巨大な入道雲の姿がかろうじて捉えられる。
    闇と同化する夜の雲の群の中に、その雄大な輪郭がわずかに浮かび上がっている。 
    山の上の雲の切れ間から覗く微かな月光のためだった。 
    入道雲の底は、明かりもまばらな街の上空を覆っている。巨大な蓋のように。その雲の底から、異様なものが突き出ていた。 
    「手…… 手だ……」 
    思わず僕は呻くように呟いた。声が震えた。目を細めてもっとよく見ようとする。 
    手だ。 
    巨人の手が、漆黒の入道雲の底から出ている。 
    いや、雲だ。あれも。 
    巨大な手のように見える形の奇怪な雲。長い棒と、少し膨らんだ手のひら、指。肘から上の部分が下向きに伸びている。 
    この距離からでも分かる。夜の暗さに混ざり合いながら、密度の違う黒が、そんな形をしているのが。 
    「じじい、あれはなんだ」 
    師匠が前方を見据えながら、前回のようなどこか柔らかい物腰を取り払って、鋭い口調で問い質した。 
    「……雲だ」 
    「本当に雲か」 
    老人は小刻みに震えながら小さく頷く。 
    「び……尾流雲だ……いや、違う。違う。形は近いが、あれは、あれは…… 馬鹿な。あんな形の……」 
    「おい、じじい。なんだ。はっきりしろ。あれはなんだ」 
    師匠が詰め寄って老人の方を揺する。 
    「ろうと」 
    「なに?」 
    「ろ……漏斗雲だ……!」 
    「漏斗雲って、竜巻になるやつか?」 
    師匠はそう言って崖の方を振り返った。 
    僕も岩の先に近づき、限界まで身を乗り出す。全神経を集中して目を凝らすと、雲の底から伸びる手の先が少し見えた。 
    腕の部分は筒状になっている。そしてその先は何本かに分かれていて、まるでそれが指のように見える。
    何かを掴もうとしているみたいに広がって、地上に降下しようとしていた。 
    「漏斗雲って確か、積乱雲とかの底から降りてきて地面に降りたら竜巻になるやつだな。あんなでかいのか」 

    411 雲  後編 ◆oJUBn2VTGE ウニ2013/09/06(金) 22:35:20.00ID:kIaSDyGu0
    師匠が問い掛けると、老人はいきなり「ええええい」と叫んだ。 
    そして両腕をいっぱいに突き出し、「消えろ」と喚く。 
    雲消しだ。 
    だが前回見た時より、なにか違う。腰を落とし、右手と左手を交互に突き出し。その両手が交差する瞬間に、なにかの印を結ぶ。
    そして一定のリズムで両手の押し引きを繰り返し始めた。 
    「あんな、指みたいな形になることがあるのかって、聞いてるんだ」 
    師匠が怒鳴るが、全く耳に入っていない様子で、老人は雲消しの動きを繰り返している。 
    あんな巨大な雲が消せるのか。 
    師匠は種明かしをしていたじゃないか。消せるのは、いや、正確に言うと、消えるのは消滅しかけの小さな積雲だけだと。 
    僕は立ち尽くし、呆然と目の前に広がる信じ難い光景を見ていた。闇の中に異様な密度を持って浮かんでいる巨大な入道雲。
    真っ黒なその姿は何とも言い難いような禍々しさを秘めていた。 
    中国の古い物語を読んでいると、「不吉な雲気」が空にあるのをみて、凶兆だとする話がよくあったことを思い出した。 
    不吉な雲気とはどんなんだろうと思っていたが、もしそんなものが本当にあるのなら、目の前のこれがそうだろうという確信に似た思いが浮かぶ。 
    「ふざけるな」 
    師匠が誰にともなく吼える。 
    頬を震わせ、両手を強く握り締めている。 
    「やめろ…… やめろ!」 
    そしてその視線の先には恐ろしい巨人の手が。 
    巨人の手? 
    その時、僕の脳裏に光が走った。この山上に登る途中で浮かび掛けたイメージが、再来したのだ。 
    ドーナツ型の雲。 
    その穴。 
    穴の位置は変わらない。風に流れる雲に逆らって、穴の位置だけが。地上の同じ地点の上空に、必ず穴がある。 
    見えてくる。見えてきた。イメージが勝手に、透明なものの、ありえないはずの輪郭を絵取っている。 
    巨人だった。 
    目に見えない、巨大な人型のなにかが、じっとそこに立っている。円筒のように雲を刳り貫いて。そして雲はドーナツの形になる。
    見えない巨人は途方もなく大きい。遥か上空にある雲を突き抜けている。一体どれほどの大きさなのか想像もつかない。 

    412 本当にあった怖い名無し sage 2013/09/06(金) 22:37:32.18 ID:hsyEL4Ke0
    わーお 

    413 雲  後編 ◆oJUBn2VTGE ウニ2013/09/06(金) 22:39:42.77ID:kIaSDyGu0
    巨人。巨人…… 
    僕は身体の芯が震えた。そんなものが存在するはずがない。師匠がこのあいだ巨人について調べていたことが、なにかの予兆のようなものだったのか。 
    「やめろ」 
    師匠が食い破ろうとするような目付きで、目の前のありえない光景に身を乗り出す。 
    真っ黒な雲の底から伸びる手が、渦を巻きながら同時にその指先を幾本も地上に垂らそうとしている。 
    あれが地上に落ちたら、竜巻が発生するというのか。鈍重な雲の下にいる人々は、その迫る危機に気づかず、眠っているのだろうか。 
    惨事の予感が身体を貫く。恐怖が押し寄せてくる。 
    こんなことがあっていいのか。 
    ガチガチと歯の根が合わない。 
    ただの自然現象ではないことは直感で分かる。では、自然現象ではない自然現象とは、一体なんだ?  
    一体なにものにこんなことが起こせるというのか。 
    その時、ハッと気づいた。 
    指の先にばかり目を奪われていたが、その上部にある腕の部分はなんなのだ。もし。
    もし、あの指がすべて地上に落ち、竜巻を無差別に発生させたとしても、それで終わるのか? 指が地上に落ちた後、腕がそのまま降下したとしたら…… 
    とてつもない大きさだ。 
    あれが、竜巻になるのか。うそだろ。 
    想像しただけで、目の前が真っ暗になった。 
    師匠を振り返る。 
    しかし同じ格好のまま、立ち尽くしているだけだ。 
    どんな心霊現象にあっても、師匠ならなんとかしてくれる。そんな幻想を抱いていた。でも、こんな、こんなものは。どうしようもないじゃないか! 
    目の前で起こる異常な現象をここで見ていることしかできない。 
    僕らは日常の隣にある不思議な世界を何度も見てきた。
    それは日常のほんのちょっとしか隙間から覗くことができたし、時には日常に影響を及ぼすこともあった。だがそれは僕たちに違和感を、恐怖を抱かせるだけの現象に過ぎなかった。 
    しかし、今目の前で起ころうとしていることは、日常とそういう世界の間の境界線が破れてしまうことに他ならなかった。 
    「えええええい! ええええええええい!」 
    老人が一心不乱に雲を消そうとしている。 

    414 雲  後編 ◆oJUBn2VTGE ウニ2013/09/06(金) 22:40:56.18ID:kIaSDyGu0
    ぽつり、と僕の額に雨の粒が落ちた。雨雲が移動して来たのだ。街なかを濡らしていた雨雲が、風に乗ってここまで。 
    ぽつ、ぽつ、と雨が岩の上に落ちる音が聞えてくる。 
    傍観者だった。 
    僕は無力で、見ていることしかできなかった。恐怖に身体を縛られながら。 
    思わずその場にへたり込んだ。岩の冷たさが、尻のあたりに伝わってくる。 

    や…… め…… ろ…… 

    師匠は押し殺した声でそう言うのを隣で僕は聞いていた。 
    その時だ。 
    僕の中に別の感情がふいに浮かんできた。 
    なんだこれは。 
    一瞬、周囲の音が消える。真っ暗な描画の世界で、僕の中に浮かんだ感情の正体を見つめようとする。しかし厚いベールの奥にあったのは、恐怖だった。恐怖に支配された身体の中に、さらに恐怖が潜んでいた。 

    や 
    め 
    ろ 

    一音節ずつの言葉を聞きながら、別の種類の恐怖がだんだんと大きくなって行く。 
    それは目の前の異常現象に対するものよりも、大きくなりつつあった。 
    首の中に無数の鉄の欠片が混ざり込んだように、ギシギシと音を立てている気がする。僕は、すぐ隣を振り向けなくなっていた。
    すぐ隣に立っているはずの人を。 
    雨が強くなり始めた。髪に、額に、肩に雨粒が落ちてくる。 
    影の群。闇に浮かぶ顔。声だけの死者…… 
    どんな心霊現象にも、対応してきた。解決し、消滅させ、時に逃走し、けっして負けなかった。 
    しかし。 
    だめだ。 
    これだけはだめだ。 
    これだけは止めてはだめだ。 

    416 雲  後編 ◆oJUBn2VTGE ウニ2013/09/06(金) 22:43:50.40ID:kIaSDyGu0
    僕は自分の中に育ち始めたその別種の恐怖を抑えながら、声にならない声をあげる。背後からは老人の掛け声がいやに空疎に響いてくる。 
    さっきまで目の前の異常な自然現象に、止まってくれという無力な念を送っていた僕の思考が、完全に反転した。 
    止まるな。 
    止まるな! 
    ガタガタと膝が震える。たった二メートル隣が振り向けない。 
    その僕の視界の端に、微かな光の粒子が見えた気がした。 

    ◆ 

    どれくらい時間が経っただろうか。 
    全身を大きな雨粒が叩いている。周囲はますます暗くなり、視界が利かなくなった。空に稲光が走る。 
    その瞬間、老人が動きを止め、僕のすぐ横に顔を突き出した。 
    「消えおった」 
    そう言って絶句する。 
    驚いて僕も雨雲の彼方に目を凝らすが、もう何も見えない。すべてが漆黒の海に沈んでしまったかのようだ。 
    「消えた」 
    師匠も僕のすぐ前に足を踏み出し、上気した声をあげる。 
    「風だ。雨雲が流されて、途切れたんだ」 
    目を見開いて僕を振り返る。濡れた髪が額に張り付いているけれど、いつもの師匠だった。僕も立ち上がった。 
    そうか。 
    今いる山の方角が風下だ。雨雲がこちらへ到達して、街の方はあの巨大な入道雲、つまり積乱雲の下から逃れたんだ。 
    だが、あの奇怪な現象までがこちらにやって来るわけではない。それが直感で分かる。 
    なぜなら、何度も見たドーナツ雲の穴は地上から見たその位置が固定されていたからだ。 
    「あれ」は多分、そこを動けない。そして雲にしか影響を与えられない。雲さえ途切れてしまえば、何も出来ない。 
    それも、普通の積雲ならその位置にいくらあっても無力だ。
    元々竜巻を起こすポテンシャルを持った積乱雲があって初めて地上に破壊的な力を及ぼすことが出来るのだ。 
    なぜかそれが分かる。 

    417 雲  後編 ラスト ◆oJUBn2VTGE ウニ また来週2013/09/06(金) 22:44:40.24ID:kIaSDyGu0
    人知を超えた力で捻じ曲げられた気流が、雲が、その力から逃れたのだった。 
    「消したぞ。わた雲。どうだ」 
    老人が両手を振り回しながら喚く。その時、稲妻が走り、光で空が切り裂かれた。直後に轟音が響く。 
    「まずいな。雷雨だ」 
    師匠はそう言って、老人の肩を抱えた。 
    「せんせい、山小屋に非難しましょう」 
    「わしが消したのだ!」 
    老人は上ずった声でそう繰り返した。 
    「行くぞ」 
    師匠は僕に目配せすると、口に懐中電灯を咥え、老人を半ば引きずるようにして山を降り始めた。 
    僕は岩を降りる時に足を滑らせてしまい、尻餅をついた。師匠の持つ懐中電灯の光が遠ざかりつつあるのに焦り、慌てて立ち上がる。
    ますます雨が強くなる山道を恐る恐る降りて行く。 
    僕は一度だけ背後を振り返った。 
    視界がなくなり、もう地上の光も何一つ見えない。その上空にあった入道雲も。あの手のような形のものも。 
    ただ、僕の頭は想像している。 
    雨雲の彼方にそびえ立つ、とてつもなく巨大な人影を。 
    それは透明で、けっして目には見えない。しかし、顔の位置にある、何もない空間がこちらを向いている。それが今、僕らのことを見ている。 
    その凍るような視線を背中に感じながら、僕は縮こまりそうな足の筋肉を叱咤し、師匠の後を追い掛けた。 

    (完)



    386 雲 前編 ◆oJUBn2VTGE ウニ2013/08/30(金) 22:56:46.20ID:1HZDzmsI0
    師匠から聞いた話だ。 


    大学二回生の夏だった。 
    ある時期、加奈子さんという僕のオカルト道の師匠が、空を見上げながらぼんやりとしていることが多くなった。 
    僕の運転する自転車の後輪に乗り、あっちに行けだのそっちに行けだのと王侯貴族のような振る舞いをしていたかと思うと、ふいに喋らなくなったので、そうっと背後を窺うと、顔を上げて空をじっと見ていた。 
    「なにか面白いものがありますか」 
    と訊くと、「……うん」とは答えるが、うわの空というやつだった。 
    僕も自転車を止め、空を見上げてみたが雲がいくつか浮かんでいるだけで特に何の変哲もない良い天気だった。 
    その雲のうちの一つがドーナツのように見えたので、ふいに食べたくなり「ミスドに行きませんか」と訊くと、やはり「……うん」とうわの空のままだった。 
    連れて行くとドーナツを三つ食べたが、やはりどこか様子がおかしかった気がする。 
    そんなことが続き、何か変だと思いながらも特に気にもしていなかったある日、師匠が「面白い人に会わせてやろう」と言いだした。 
    この師匠は、妙な人間に知り合いが多く、僕にもその交友関係の全貌は把握しきれていない。
    大学教授や刑事、資産家など一部にまともな人もいるが、その多くが奇人変人のたぐいだった。 
    もちろん奇人の大学教授や変人の資産家もいたので、ようするに多種多様だったということだ。 
    その時会わせてもらった人はその中でもトップクラスの人物と言える。何しろ、プライベートで修験者の格好をしているのだ。
    もちろん修験者ではないのに。 
    そのうえ頬と顎には何十年ものなのかというほどの髭を生やしたい放題に生やし、日焼けした顔には皺が幾重にも深く刻まれている。 
    確実にレストランには入れないタイプの人だった。 
    とにかくその日、僕は師匠に連れられて山に登った。わりと近く、高さもそれなりで頂上まで登ると市内を一望できる山だ。 
    普通なら市民の絶好のハイキングコースになりそうだが、途中道が険しいところがあり、そのせいかあまり人気がないようだった。 
    頂上まであと少しというところで師匠はふいに現れた枝道の方へ入った。すぐ脇に『ここから先、私有地』という立て札が朽ち果てた姿を晒している。 

    387 雲 前編 ◆oJUBn2VTGE ウニ2013/08/30(金) 22:59:47.48ID:1HZDzmsI0
    私有地と言うからには植林でもしているのかと思えば、杉やヒノキの類はろくに生えておらず、竹や名前も知らない潅木が鬱蒼としているばかりだった。 
    その道の先に小屋のようなものが見えてきた時には、まさか、と思ったが師匠はその小屋に歩み寄ると「せんせい、いるか」と声を掛けたのだ。 
    こんなところに住んでいる人がいるのか、と思って唖然とした。生活用品を買おうと思ったら、そのたびにこの山を登り降りするのか? 
    その生活を思うと、まともな人ではないのは確かだった。もっとも別荘なのかも知れない。こんなボロボロの山小屋を別荘にする人の気も知れないが。 
    「わたしがきたよ! せんせい」と師匠は大きな声で呼びかけたが返事はない。玄関の扉にはドラム式の鍵が掛かっていた。 
    師匠は小屋の周囲をぐるぐると回り、中の様子を伺っていたがどうやら留守らしいと判断したのか、もときた道を戻り始めた。
    下るのかと思ったが、枝道の所まで戻ると、また頂上の方へ登り始める。 
    そうして少し歩くと、潅木の藪が開けた場所に出た。とても見晴らしが良い。頂上はまだ先だが、十分市内をパノラマで見下ろすことが出来る。 
    切り立った崖になっている場所の突端に大きな平たい岩があり、その上に薄汚れた白っぽい服を着ている人物が座っているのが見えた。 
    「せんせい、やっぱりここか」 
    師匠は親しげに呼びかけながら近づいていく。僕もくっついて行って、間近に見たその人物がくだんの修験者風の老人だった。 
    あ、別荘じゃなくて、住んでる人だ。 
    見た瞬間にそう思った。 
    「なんだ、わた雲か」 
    老人は落ち窪んだ目でうっそりとこちらを向いた。 
    鈴懸と呼ばれる上衣、袴に足元は脚絆。これで法螺貝でも持てば完全に山伏なのだが、生憎手に持っているのはコップ酒だった。 
    「お前は実に可愛げのない弟子だ」 
    そう言って髭の奥の口をもぐもぐとさせる。 
    「なにか持って来たか」 
    「はい」 
    師匠は僕に向かって顎をしゃくってみせる。慌てて背負っていたリュックサックからさっき買ったばかりのいいちこを取り出す。
    それもパックの徳用のやつだ。 

    388 雲 前編 ◆oJUBn2VTGE ウニ2013/08/30(金) 23:03:09.87ID:1HZDzmsI0
    恐る恐る差し出した僕の手からひったくるようにして奪い取ると、老人はその麦焼酎の蓋を開け、口をつけて飲み始めた。 
    ストレートか。昼間からなにやってるんだこの人は。 
    あっけに取られて見ている僕に、老人はじっとりした視線をくれた。 
    「こいつはなんだ」 
    「わたしの弟子ですよ。先生の孫弟子です」 
    「ほう」 
    老人はいいちこをあおりながら髭に滴る液体を拭きもせず、僕を睨みつける。 
    「ならば、見せてやらねばならんの」 
    「是非お願いします」 
    孫弟子? 
    思わずうろたえたが、老人は酒臭い息を吐きながらのそりと腰を上げ、いいちこのパックを置いてからこちらを振り向く。 
    「名前は」 
    「まだありません。是非付けて下さい」 
    師匠がそう言うと、「ふむ」と唸って髭をさすりながら、老人は僕に『肋骨』という名前を授けた。 
    なにがなんだか分からない。 
    「よし。よおく見ておれ」 
    老人は平らな岩の上で立ち上がったまま、空の一点を指差した。 
    雲? 
    その指の先には一片の小さな雲があった。そして見ている僕らの前で老人は両手を空に突き出した。 
    そしてなにか目に見えない力でも飛ばそうとするかのように、その手を何度も突き出したり引いたりし始めた。
    手のひらは開かれ、顔は下からねめつける様に雲を睨んでいる。 
    ええい。えええい。 
    髭の下の口から、凄みのある掛け声が響いてくる。 
    あ、これは。と、僕は思った。どこかで見たことのある光景だ。老人が気だか念力だかを送っている雲が、だんだんと小さくなり始めた。 
    雲消し名人か。 
    そんな人をテレビで見たことがある。まさか生で見られるとは。 
    笑ってはいけないと思いながらも、喉から鼻の奥にかけて自然に空気が噴き出しつつある。 
    えええええい。 
    余韻に浸るように両手がぶるぶると震え、その遥か彼方で雲は見事に消えた。 

    389 雲 前編 ◆oJUBn2VTGE ウニ2013/08/30(金) 23:05:46.32ID:1HZDzmsI0
    どんな編集をしているのか分からないテレビ番組とは違う。実際に目の前で雲は消えた。笑いは引っ込まなかったが、驚いた気持ちも確かにあった。 
    「さすがですね、せんせい」 
    師匠が拍手をする。 
    さらに岩の上に上がり、老人の横に並ぶと、「わたしもやっていいですか」と言って腕まくりをした。 
    「じゃ、あれで」 
    そう言ってさっきと似たような雲を指さした。 
    老人はその雲と師匠を交互に見ながら、「お前は実に可愛げのない弟子だ」と言った。
    けれど満足げに頷くと、自分は別の雲を指さし、えええい、と両手を前に突き出した。師匠もその横で、目標に定めた雲に向かって両手を突き出す。 
    はたから見ていると、一体何の儀式か、と思うような動きを二人とも繰り返している。 
    表情は真剣なのだが、どこか楽しそうだ。 
    ええい。 
    えいやあ。 
    えええい。 
    なんの。 
    おおりゃあ。 
    ぼけおらあ。 
    どりゃあ。 
    ぼけこらあ。 
    なにがこらあ。 
    たここらあ。 
    …… 
    掛け声もだんだんとエキサイトして来る。そのエキサイトぶりに比例して雲は薄くなっていく。
    そして両者の標的は、五分ほどもすると、完全に空から消えてしまった。 
    「恐れ入りました」 
    師匠が頭を下げる。わずかの差だったが、老人の雲の方が先に消えたようだ。 
    「やるのう、わた雲」 
    足元に置いてあったいいちこをひとあおりして、老人は僕の方を見た。 
    「肋骨もやれい」 
    こうだ。 
    老人は肩で息をしながら、また次の雲に狙いを定めて両手を空に伸ばした。 

    390 雲 前編 ◆oJUBn2VTGE ウニ2013/08/30(金) 23:09:39.11ID:1HZDzmsI0
    師匠も楽しそうに空を眺めながら、僕にも「さあ雲を選べ」と言う。 
    なんだか自分にも出来そうな気がして、輪郭のくっきりしたハンバーグに似た形の雲を選び、「あれでやってみます」と言って念をこめた。 
    五分後、どれほど念を送っても僕の選んだ雲は小さくなるどころかむしろ大きくなっていた。 
    老人と師匠の雲はまたキレイさっぱり消えてしまったというのに。 
    「全然駄目だ」 
    老人は僕の姿勢を矯正し始める。 
    足の位置、手の形、そして目つき…… 
    どれだけ教わっても、僕の雲は一向に消えなかった。 
    師匠が含み笑いをしている。 
    たっぷり一時間ほどそうして特訓をした後、なんとか一つの雲を消すことに成功した。 
    変な感動があり、胸が熱くなった。 
    「ありがとうございました」 
    「うむ」 
    老人は仙人のような髭をしごきながらひとしきり頷くと、腰を下ろしていいちこを飲み始める。
    それから三人で座り込み、山上から見える景色をぼんやりと眺めていた。 
    見上げれば空には様々な形の雲が浮かんでいる。見下ろせば眼下に市街地の雑多な景観が遠く広がっている。 
    なんだか妙に穏やかな時間だった。 
    小一時間、大の大人が一生懸命雲を消して疲れ果てている。お金は掛からないし、誰も傷つけない。そして誰も得をしない。 
    いつの間にか胡坐をかいたまま老人は居眠りを始めている。
    この奇人変人の鑑のような人物を横目で見ながら、僕は改めて師匠の交友関係の意味不明さに感慨深い思いを抱いていた。 
    その師匠が欠伸をしながら立ち上がった。少し遅れて船を漕いでいた老人が顔を上げる。 
    「せんせい、帰るよ」 
    「そうかね」 
    老人は少し残念そうに言った。そして肋骨をちゃんと教えてやれと注文をつけた。師匠は分かりましたと頷く。 
    「あ、それから」と師匠が姿勢を正して老人の顔を見つめる。そうしてしばらく何も言い出さなかった。 
    「なんだ」 
    痺れを切らして老人の方から訊ねる。 

    391 雲 前編 ◆oJUBn2VTGE ウニ2013/08/30(金) 23:13:15.54ID:1HZDzmsI0
    師匠はようやく口を開いた。 
    「せんせいは、この街で誰よりもたくさん空を見てますよね」 
    その問い掛けに、当然だと言わんばかりに老人は無言で大きく頷く。 
    「だったら」 
    師匠は軽い口調で続けた。いや、軽い口調を装って、そして装い切れずにいた。僕は何故かそれが分かり、前触れもなくゾクリと肌が粟立った。 
    「だったら、最近、空がどこかおかしいと思いませんか」 
    老人の目つきが変わった。眉間に皺が寄り、眼の奥に火が灯ったかのようだった。 
    「言うな、わた雲」 
    「例えば、あの」 
    「言うな」 
    鋭い口調で老人は言い捨てた。空の向こうを指差そうとしていた手を、師匠は静かに下ろす。 
    老人の身体が微かに震えている。アルコールのためではない。その身体から漏れ出る怯えの色を僕は確かに感じていた。 
    「また来ます」 
    師匠はゆっくりとそう言うと、僕に「帰ろう」と合図をした。しかし僕は得体の知れない畏怖に身体が貫かれている。 
    下ろしたばかりの師匠の指先が残像となって、脳裏に蘇る。その先には空にゆったりと浮かぶ、大きな雲があった。 
    ドーナツの形に似ていた。 

    ◆ 

    帰り道、師匠は種明かしをしてくれた。雲消しの種だ。 
    「消せるのは積雲なんだよ」 
    それも発達し切れなくて消滅しかかってるやつを選ぶんだ、と言う。 
    説明してくれたことによると、積雲というやつはもっともポピュラーな雲で、比較的低層に出来るのだそうだ。 
    大気中の水蒸気が凝結し、雲になる高度を凝結高度というらしいが、上昇気流により、その高度を越えた雲粒たちが順に目視できる雲になっていく。
    だから何もない空に急に雲が発生したように見える。 
    さらに上昇気流が続くと、下から押し出されるトコロテンのように次々と凝結高度を越えていく水蒸気によって積雲は上方へと成長していく。 

    392 雲 前編 ◆oJUBn2VTGE ウニ2013/08/30(金) 23:15:09.51ID:1HZDzmsI0
    成長が続くと雄大積雲や積乱雲という雲になっていくのだが、多くは上昇して来る湿度の高い空気の塊が途絶えることで成長が止まり、やがて水分が周囲の乾燥した空気に溶け込んで行くことで積雲は消滅する。 
    この発生から消滅までの過程は非常に短く、積雲はわずか数分で消えてしまうことがある。 
    「そういう消滅しかけてるやつを見つけたら、あとはどんなポーズ取ってようが勝手に消えてくれるからな」 
    そう言って師匠は笑った。 
    なんだ、やっぱりインチキじゃないか。僕はさっきの老人の姿勢などに関する厳しい直接指導を思い出し、釈然としなかった。 
    「まあ、ああいう人なんだ。許してやれ」 
    「どういう人なんですか一体」 
    ああいう雲消しを気功術の修練だとか言って、新興宗教にハマるような人たちを集めて『奥義』を伝授し、謝金をせしめてでもいるのだろうか。 
    胡散臭いことおびただしい人物だが、実際に目の前で雲が消えると妙に説得力がある。そんな詐欺もありえなくはないと思った。 
    しかし師匠は笑って手を顔の前で振った。 
    「あのじいさんは元バイク屋のおやじだよ。なかなか手広くやっててな、隠居して息子夫婦に店を譲ったあとは楽隠居の身で、好きなことをしてるってわけだ」 
    そして元々林業をしていたという先祖伝来の土地があの山にあったのをいいことに、そこに小屋を建てて半ば住み込みながら日がな一日現世とは掛け離れたような生活を送っているのだとか。 
    「雲消しはただの趣味だよ。何年か前に地元のテレビ局が取材に来て、消してるところが放送されたもんだから、自分もやりたいっていう連中が弟子入り志願に結構やって来てな。 
    金も取らずに気軽に教えてくれるっていうんで、しばらくはちやほやされてたみたいだけど、今じゃすっかり飽きられて、訪ねて来る弟子も私くらいだ」 
    「勝手に孫弟子にしないでくださいよ」 
    聞くと、肋骨、というのは雲の種類らしい。肋骨雲という雲だ。魚の骨のような形をしているやつらしい。 
    正直もっといい名前にして欲しかった。 
    「わた雲、は可愛らしい名前ですね」 
    師匠は頷く。 

    393 雲 前編 ◆oJUBn2VTGE ウニ2013/08/30(金) 23:18:36.62ID:1HZDzmsI0
    「私はテレビ放送される前からの弟子だからな。高校時代に押しかけたから。やっぱり可愛いんだろ。
    後からの連中は『もつれ』だとか『扁平』だとか、変な名前ばっかりつけられてる。 
    傑作なのはハゲた中年のオッサンにつけた『無毛』だな。本当は無毛雲って、れっきとした積乱雲の一種なんだけど…… 怒って帰ったらしい」 
    おかしそうに言う。 
    それから少しの間沈黙があった。僕はおずおずと口を開く。 
    「最後の」 
    「ん。なんだ」 
    「最後に言ってた、空がおかしいってのは、なんですか」 
    師匠は山道を下りながら、つ、と足を止め、僕を振り返った。 
    「言うなって、言われたからな」 
    さっきまでの冗談めかした表情ではなかった。また得体の知れない不安が腹の底から湧き出てくる。 
    空って、この空が何だって言うんだ? 
    僕は思わず天を仰ぐ。夏らしい、冴え冴えとした青が頭上高く広がっている。なにもおかしなところなどない。 
    師匠もつられるように空を振り仰ぐ。山道の両脇から伸びる高木の枝葉が陽光を遮り、僕らの目元にモザイク模様に似た影を落としていた。 
    師匠は目を細めながら空を指差し、「あの一つだけ離れた雲を見てみろ。周囲が毛羽立ってるだろ。ああいうのがこれから消える積雲だ。覚えとけ」 
    「はあ」 
    きっと生きて行く上で何の役にも立たないだろう。そういう知識を僕は師匠からたくさん詰め込まれて、毎日を過ごしていた。 


    それから数日後のことだ。 
    僕はそのころ読唇術にハマッていた師匠の練習にしつこくつき合わされていた。 
    「おい、今日はエッチな言葉を言わせようとしたらだめだぞ」 
    「分かってますよ」 
    パクパクパク。 
    口だけを動かし、声には出さずに喋っている振りをする。それだけで師匠はある程度は言葉を言い当てられるようにはなっていた。 


    395 雲 前編 ◆oJUBn2VTGE ウニ2013/08/30(金) 23:25:37.41ID:1HZDzmsI0
    深夜の十二時を回っていた。蒸し暑い師匠の部屋で差し向かいになること二時間以上。延々とパントマイムのように口だけを動かしているのも飽きてくる。だから、多少のイタズラを混ぜるのだが、師匠にはその冗談がなかなか通じない。 
    パクパクパク。 
    パクパクパク。 
    「……お前、それは……」 
    師匠が難しい顔をして僕を睨んでいる。 
    外は雨が降り始めたようだ。安アパートの屋根を叩く雨音が嫌に大きく聞える。負けじと大きく口を開けた。 
    パクパクパク。 
    パクパクパク。 
    『上杉達也は、朝倉みなみを愛しています。世界中の誰よりも』 
    タッチという漫画の有名なセリフを模写しているのだが、名前の部分を多少変えてあった。手近な二人に。 
    師匠が黙ったままなので、もう一度繰り返そうとした時だ、ふいにあたりが暗くなった。 
    僕は最初、日が翳ったのだ、と思った。 
    夏の昼下がり、大きな雲が空を通り過ぎる時にあるような、あの感じ。 
    まさにあれだ。 
    …… 
    凍りついたように時間が止まる。僕と師匠の二人の時間が。 
    部屋の中を日の翳りがゆっくりと移動している。その境目が分かる。畳の上を、暗い部分が走っていく。 
    やがて暗くなった部屋にいきなり明るさが戻る。
    暗い影が落ちているところが、僕らの上を通り過ぎ、部屋の隅まで行くと、同じゆったりしたスピードのまま壁の向こうへと去って行った。 
    何ごともなく、部屋は元に戻った。 
    ドッドッドッドッドッ………… 
    心臓の音がとても大きく聞える。僕の身体は凍りついたように動かない。唾を飲み込もうとして、喉が攣りそうになっている。 
    くは、という声が出た。 
    向かい合っていた師匠も、目を見開いて身体を硬直させている。 
    なんだ、今のは。 
    理性が答えを探すが、まったく見つからない。 

    396 雲 前編 ラスト ◆oJUBn2VTGE ウニ2013/08/30(金) 23:28:38.43ID:1HZDzmsI0
    頭上を、分厚い雲が通り過ぎた。 
    それだけのはずだ。一瞬、日が翳り、そして雲が通り過ぎて周囲に明るさが戻った。 
    ただそれだけの。 
    なんの変哲もない出来事だ。 
    今が、夜でさえなければ。 
    「うそだろ」 
    師匠が顔を強張らせたまま一言そうつぶやく。 
    ここは部屋の中なのだ。そして深夜十二時を回っている。当然部屋の明かりをつけている。天井にぶらさがる丸型の蛍光灯。明かりはそれだけだ。 
    その蛍光灯には全く異常は感じられない。ずっと同じ光度を保っている。消える寸前の瞬きもしていない。 
    外は雨が降っている。暗い夜空には厚い雲が掛かっているだろう。
    その雲のはるか上空には月が出ているかも知れない。
    けれど、人工の明かりに包まれたアパートの室内に一体どんな力が作用すれば、ないはずの日が翳るなんてことが起こり得るのか。 
    じっと同じ姿勢のまま息を殺していた師匠が、ふいに動き出す。 
    「なんだ今のは」 
    焦ったような声でそう言うと、異常を探そうとするように窓に飛びつく。
    カーテンを開け、窓の外を覗き込むが、ガラスを雨垂れが叩くばかりでなにも異変は見つからない。 
    師匠は窓から離れると、靴をつっかけて玄関から飛び出した。僕も金縛りが解けたようにようやく動き出した身体でそれに続く。 


    1
     ウニ  ◆oJUBn2VTGEウニ 2013/08/23(金) 20:44:53.44 ID:/4sM9Swo0
    次のお話は、同人誌『師匠シリーズの4』に掲載したものです。 


    学生時代から一緒に暮していた猫がとうとう天に召されそうです。 
    もう自力で立つことも難しく、今夜あたりが山かもしれません。 
    いまそばにいます。 
    癌と告知されてから1年半あまり。 
    大嫌いな病院通いをよく耐えてくれました。 
    けれど人間にできることはもうないようです。 

    14回に分けて投下しますが、そんなことなので、もし猫の容態が急変したら途中で止めます。 

    862 本  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2013/08/23(金) 20:46:06.31ID:/4sM9Swo0
    大学四回生の冬だった。 
    そのころの俺は、卒業に要する単位が全く足りないために早々と留年が決まっており、就職活動もひと段落してまったりしている同級生たちと同じように、悠々とした日々を送っていた。 
    とは言っても、それは外面上のことであり、実際はぼんやりとした将来への不安のために、真綿でじわじわ締め付けられるような日々でもあった。 
    親しい仲間と気の早い卒業旅行を終え、あとは卒論を頑張るだけだ、と言って分かれていく彼らを見送った後、俺の心にはぽっかりと穴のようなものが空いていた。 
    変化しないことへの焦燥と苛立ち。そしてその旅の途中で知ることになった、かつて好きだった人に子どもが出来ていたという事実に対する、なんだか自分でも説明し難い感情。 
    そのころの俺をはたから見ていれば、「無気力」という言葉がぴったりくる状態だっただろう。 
    しかし、この身体の中にはさまざまな葛藤や思いが渦を巻き、それが外へ噴き出すこともなく、ただひたすら体内で循環しつつ二酸化炭素濃度を増しているのだった。 


    『デートしよう』 
    というメールを見ても、その無気力状態からは脱せず、やれやれという感じで敷きっぱなしの座布団から腰を上げた、というのが実際のところだった。 
    指定されたカレー屋に向かうと、メールの送り主がめずらしく先に来ていて、奥まった席に一人でちょこんと座っていた。 
    その少女は黒で固めたゴシックな服装をしている。今日はなにやら頭に黒い飾りもつけているようだ。 
    店内の不特定多数の視線がそわそわと彼女に向いているのが雰囲気で分かる。格好の珍しさだけではなく、それが良く似合っていて可愛らしい風貌をしていることが原因だろう。そんな子が一人で座っているのだから、仕方のないことだった。 
    そういう視線が集まっているところへ、こんな冬の間ずっと着ていてヨレヨレになっているジャケットの眼鏡男が無精ヒゲを生やして、のっそりと歩いて行くのはさすがに気が引ける思いがした。 
    「おっす」 
    黒い子がこちらを見て軽く手を挙げた。相変わらず軽い感じだ。彼女の『デートしよう』、というのは『こんにちわ』と訳せるのを知っている俺は、「うす」とだけ言って向かいに腰掛けた。 
    一瞬背中に集まった視線が、また徐々に霧散していくのを感じながら、「今日はなんだ」と訊いた。 

    863 本  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2013/08/23(金) 20:48:31.35ID:/4sM9Swo0
    その子は音響というハンドルネームで、ネット上のオカルト関係のフォーラムに出入りしている変な子だった。 
    かく言う俺も、かつてその手の場所には良く出入りしていたが、もう興味も気力も絶えて久しく、ほとんど足を踏み入れなくなっていた。 
    「瑠璃ちゃんが帰ったよ」 
    音響がカレーの注文を終えてから口を開いた。 
    「帰ったって、ニューヨークへか」 
    「うん」 
    そうか。あの子はもうこの街からいなくなったのか。 
    俺は音響と双子の姉妹のような格好をしていた少女のことを思い出す。 
    あの不思議な瞳をした少女は一年半前にふいにこの街にやって来て、それを待ち構えていた恐ろしい災厄を、はからずも自ら招き寄せたのだった。
    それも様々なものを巻き込んで。 
    その時のことを思い出して、ゾッと鳥肌が立つ。この街にじっと潜んでいた、見えざる悪意のことをだ。 
    今でも現実感がない。 
    それと関わったがために去って行った人たち。そして死んでいった人たち。頭の中で指折り数えても、どこか夢の中の出来事のようだ。 
    確かに人となりは浮かぶ。伝え聞いたとおりに。そして会ったことがある人は、その顔も。しかし、どれもまるでぶ厚いガラスの向こう側にある景色のようだ。 
    怪物の生まれた夜に集った人たちはもう全員いなくなってしまった。それだけではない。ヤクザも。通り魔も。あの吸血鬼でさえ。 
    一人、一人と、順番に。時に、まったく無関係であるかのように、ひっそりと。
    だが、確実にその見えざる悪意は、敵対したすべての存在をこの街から消していった。 
    その誰もが俺なんかよりずっと凄い人たちだった。なのに。なのにだ。 
    思わず怖気(おぞけ)で身体が震える。 
    そんな恐ろしい相手から、最後の標的である瑠璃という名前のその少女を、俺と音響の二人だけで死守する羽目になったのだ。
    今にして思っても考えられない事態だ。 
    頼みの綱である俺の師匠さえ、その時点ですでに使い物にならない状態だったのだから。 
    じっとりと手のひらが汗ばんでいる。思い出すだけでこれだ。 
    「卒業って、どうなったの」 
    音響がスプーンを置いて突然そう訊いて来た。 
    急に現実に引き戻される。そう。どこにでもいる、留年組の大学生の自分に。 

    864 本  ◆oJUBn2VTGE ウニ シリーズものスレと間違えたorz 2013/08/23(金) 20:51:31.78ID:/4sM9Swo0
    「あと二年はかかるな」 
    と答えると、「ダッサ」と言われた。 
    お返しに、お前はどうなんだ、と訊いた。 
    「今年受験だろ。こんなところで油売ってる暇があるのか」 
    「いいの。余裕だから」 
    「どこ受けるんだ」 
    「師匠んとこの大学」 
    「師匠って言うな」 
    この小娘は、このところ嫌がらせで俺のことを師匠と呼ぶのだ。
    もちろん全部知った上でのことなので、始末に悪い。明らかにニュアンス的に尊敬の成分はゼロだ。俺がそう呼んでいた時以上に酷い。 
    「ていうか、うちの大学が余裕かよ。腐っても国立だぞ」 
    それにそんなに余裕ならもっと上の大学を受ければいいじゃないか。 
    そう言おうとしたら、先回りされた。 
    「お母さんが、地元にしなさいって」 
    あっそ。 
    地元民の国立大生の女は学力的にワンランク上の法則ってやつか。
    アホそうな見た目に忘れてしまいそうになるが、こいつは帰国子女で英語ペラペラだったな。 
    住んだことのある国の言語を読み書きできるという、ただそれだけで、点数配分の多い課目で大きなアドバンテージになるというのは、ずるい気がする。 
    「そう言えば、あの角南さんは卒業?」 
    「ああ」 
    不貞腐れて頷く。普通の大学生は四年経ったら卒業するの! 
    そう言って、きつめのスパイスに痛めつけられた喉に水を流し込む。 
    「で、用件はなんだ。このあとデートでもしようってか」 
    この小娘に呼び出される時は、その九割が妙なことに首を突っ込んだ挙句の尻拭いのお願いだった。 
    「それなんだけどね」 
    音響はそう言って平らげたカレーの皿をテーブルの隅に押しやる。そして黒いふわふわしたバッグから一冊の本を取り出して目の前に置いた。 
    やはり残りの一割ではないらしい。 
    しかし出されたその本を見て、おや、と思った。見覚えがあるのだ。 


    866 本  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2013/08/23(金) 20:52:53.03ID:/4sM9Swo0
    「『ソレマンの空間艇』じゃないか」 
    子どものころに読んだジュブナイルのSF小説だ。タイトルが印象的だったから覚えていたが、内容はすぐには浮かんでこなかった。 
    日本人の子どもが宇宙船に乗り込んで大冒険をする話だったような…… 
    「へえ、そうなんだ」 
    なんとか思い出そうとしている俺を、全く興味なさげに音響は切って捨てた。 
    「自分で持って来たんだろ」 
    ムカッとしたのでそう言い返すと、音響は不思議なことを口にした。 
    「この本の内容のことなんだけど、この本のことじゃないの」 
    一瞬、うん? と目を上の方にやってしまった。なにか禅問答のような言葉だ。 
    「私の友だちから相談を受けたんだ。その子の弟のことで」 
    音響はそうしてその禅問答の説明を始めた。 

    ◆ 

    そのクラスメイトの女子生徒には小学生の弟がいた。 
    それがなんだか最近弟の様子が変だったのだそうだ。よそよそしかったり、話しかけると怒ったり。
    単に反抗期だと思っていたが、ある日弟の部屋に入ろうとすると、急になにかを隠して「出てってよ」と怒った。 
    背中に隠したのは本のようだった。どこからかいやらしい本を手に入れて見ていたのだろう。 
    なるほどそういうことか、と思ってその時はそれ以上深く詮索しないであげた。
    ところが、その数日後、夜中にふと目が覚めてしまった彼女は自分の部屋から出てトイレに行った。 
    その途中、弟の部屋の前を通ったのだが、ドアが少し開いていた。
    いつもなら閉めてやりもせず、そのまま通り過ぎるところだが、中からなにかの気配を感じて彼女は立ち止まった。 
    弟が起きているのだろうか。 
    そう思ったが、電気は消えている。部屋は真っ暗だ。 
    そっとドアに近づき、隙間から中を伺おうとする。
    しかし、廊下側の明かりのせいで自分がドアの前に立つと、中からはきっと人が来たことが分かってしまうだろう。 
    そう思い、ドアのすぐ横に身体を貼り付けるようにして聞き耳を立てたのだった。 

    867 本  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2013/08/23(金) 20:55:29.81ID:/4sM9Swo0
    その時、彼女の耳は奇妙な音を拾い上げた。 

    シャリ…… 
    シャリ…… 

    聞き馴染みのある音。 
    けれど今この状況では聞えるはずのない音。 
    彼女は妙な悪寒に襲われた。 

    シャリ…… 
    シャリ…… 

    紙の捲れる音。 
    紙の表面が指と擦れ合う音。 

    シャリ…… 
    シャリ…… 

    ――――本を読んでいる時の音だった。 
    部屋の中は真っ暗なのに? 
    彼女は背筋を走る痺れに身を震わせる。 
    弟が布団を被ってその中で懐中電灯をつけているわけでもない。
    光も全く漏れないように布団を被っているなら、そんな繊細な音も部屋の外へ漏れ出ては来ないだろう。 
    弟は、暗闇の中で本を読んでいるのだ。 
    心臓がドキドキしている。彼女は思い出していた。弟の通う小学校で密かに語られている噂話のことを。 
    『夜の書』と呼ばれる本のことだ。学校の七不思議の一つだった。 
    図書館に一冊の本がある。それは昼間にはただの普通の本なのだが、夜みんなが寝静まってから一人で部屋を暗くしてページを捲ると、まったく違う本になるのだ。 
    真っ暗で何も見えなくてもその本は読めるのである。その本の中には、とても恐ろしくて、そしてゾクゾクするほど楽しい遊びの仕方が書いてある。 

    868 本  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2013/08/23(金) 20:57:50.88ID:/4sM9Swo0
    最後まで読むと、信じられないようなことが起こるらしい。その先は色々な噂があってはっきりしない。 
    悪魔が出てくるとか、死神が出てくるとかいう話もあれば、本の言う通りのことをすると、窓の外にUFOが現れる、という話もあった。未来や過去の世界に行った子どもの噂も聞いたことがある。 
    いかにも子どもっぽい噂話だ。 
    けれど彼女自身その小学校の卒業生だった。
    そしてその本を読んでしまったせいで頭が変になり、二階の教室の窓から飛び出して大怪我をした同級生が実際にいたのだ。 
    もっともその本を読んだせいだということ自体がただの噂話と言えば噂話だ。
    しかし先生たちがそんな流言飛語を封じ込めようとすればするほど、みんなその噂を信じた。 
    結局その同級生が持っていた『夜の書』は大人に焼かれてしまった。けれど、もとからそんな本はないのだ。
    焼かれても別の本が暗闇の中でしか読めない『夜の書』になり、また誰かの手に取られるのを図書館の隅でじっと待っている…… 
    彼女はドキドキしている胸を押さえ、ドアの横で必死に息を整えた。 
    そうして「なにしてるの」と言いながら、ドアを開けた。 

    ◆ 

    店員がコップの水を入れに来たので、音響がそこで話を止めた。俺はテーブルに置かれた『ソレマンの空間艇』をまじまじと見つめる。 
    「で、そのお前の同級生の弟くんは、真っ暗な部屋でこれを読んでたってわけか」 
    「そう」 
    「どんな様子だったんだ」 
    「明かりをつけたら目が血走ってて、なんか訳の分かんないことを言ってたらしいよ。とにかく取り上げたら落ち着いたらしいけど」 
    「ふうん」 
    俺はテーブルの上の本に手を伸ばした。手に取ってパラパラと捲る。
    かなり古い本なのか、表紙や小口は色が褪せてしまっているが、あまり読まれてはいないようだ。中はわりに綺麗だった。 
    音響が少し驚いた顔で俺を見ている。 
    それに気づいて「なに」と訊くと、「ホントの話なんだけど」と言う。 
    「別に嘘だなんて言ってないぞ」 


    870 本  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2013/08/23(金) 20:59:58.30ID:/4sM9Swo0
    だいたい、どんな信じ難い話でもそれなりに耐性はついている。それに音響が持ってくるやっかいごとは、これまですべて実体を伴っていた。
    それが良いことなのかどうかは置いておくとしても。 
    「よくそんなあっさり触れるね」 
    呆れたように言われてようやく、ああ、そういうことか、と気づく。
    普通の人の感覚ならば、そんな話を聞かされた後では気持ちが悪くて触れないのだろう。
    いくら昼間は普通の本だと聞かされていてもだ。 
    オカルトにどっぷりと浸かっていた日々が、意識しなくともこの善良な小市民たる俺の脳みそをやはり非常識側にシフトしてしまっているということか。
    しかしこいつに言われると何故かショックだ。 
    「それで、どうしたいんだ」 
    本を置き、表紙をトントンと指先で叩く。「どうせ、その話聞かされて、なんとかするからって安請け合いしたんだろ」 
    『夜の書』というやつはある意味、夜の闇の中でしか実体がない存在だ。
    今のこの『ソレマンの空間艇』にしたところで仮の宿主に過ぎず、燃やすなり破り捨てるなりしたって、図書館の別の本に寄生し直すだけということだろう。 
    少なくとも噂の構造がそうなっている。 
    「その話を聞かされて、なんとかするからって言っちゃったの」 
    あ、そう。 
    「で?」 
    「なんとかして」 
    「自分ですれば」 
    「お願い師匠」 
    わざとらしいお願いポーズを無視して、もう一度俺は本のページを開く。 
    「真っ暗なのに読めるって、どういう現象なんだ」 
    音響に向かって、「お前、読んだか」と訊く。 
    すると両手の指を胸の前で組んだまま、首を左右に振った。 
    「だって怖いの」 
    「嘘つけ」 
    「だって受験生だから」 
    「受験生だから?」 
    俺がそう問い返すと、音響は口の端だけで笑った。 
    「……面白かったら、やばいじゃん」 
    こいつも筋金入りだ。 
    あらためてそう思う。 

    872 本  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2013/08/23(金) 21:03:09.85ID:/4sM9Swo0
    「で、お前の同級生も怖くて読んでない、と。……弟はなんて言ってんだ」 
    「ええと。とにかくなんでか読めたんだって」 
    実に有益な情報だ。すばらし過ぎる。 
    「弟はどうしてこの本がそうだと気づいたんだ」 
    「別に『夜の書』だと思って借りたんじゃないんだって。たまたま借りた本がそうだっただけってさ」 
    「それは、ちょっとおかしいぞ」 
    「なんで」 
    俺は少し頭の中を整理する。 
    「だったら、どうして部屋を真っ暗にして読んだんだ」 
    「え」 
    「部屋を暗くして読まないと、そもそもそういう本だと気づかないだろ」 
    そう言われて、音響はふうん、と唸った。 
    「さあ。たまたまなんじゃない?」 
    これ以上情報は出てきそうになかった。 
    「『夜の書』は一冊なのか」 
    「そう聞いてる」 
    つまりひとつの寄生体のような存在が、見つかって宿主の本を破棄されるたびに別の本へと移動しているということか。
    その間に子どもたちを魅了し、危険な状態に追い込みながら。 
    それにしても。 
    と、俺はふと思った。「『夜の書』ってのは、小学生らしくないネーミングだな」と呟く。 
    噂の出所は案外教師なのかも知れない。 
    考え込んでいる俺を音響がじっと見ていた。 
    「なんだ」 
    「なんとかしてくれそう」 
    そう言ってまた両手の指を組んだ。 
    俺はそれを見ながら言った。 
    「ゴスロリって、そんな感情表現豊かでいいのか」 

    ◆ 

    その夜のことだ。 

    874 本  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2013/08/23(金) 21:15:47.49ID:/4sM9Swo0
    俺は自分の部屋で一人、パソコン上でダービースタリオンというゲームをしていた。
    いい競走馬が出来たので、それを育てるのに熱中していて、気がつくと夜の一時を回っていた。 
    時計を見た時、なにかすることがあった気がして軽く不安になる。 
    ああ、音響から預かった本のことだ。 
    それを思い出してホッとする。 
    心置きなくゲームに戻ろうとしたが、なんだかそういうわけにもいかない気がしてきて、しぶしぶセーブをしてからパソコンの電源を落とした。 
    どこに置いたかいな。と、部屋の中を見回す。するとベッドの上に放り出してあった。 
    『ソレマンの空間艇』石川英輔 作 
    とある。 
    そう言えばどういう話だったか思い出そうしていたのが途中だった。俺はこたつに移動し、本を広げた。 
    その本は、文夫という少年が学者先生と浅間山に登山に出かけた時に、ソレマン人と名乗る宇宙人のUFOに捕らえられ、冒険をすることになる話だった。 
    実は現生人類以前に存在した地球上の知的生命体であったソレマン人たちが、旅立った先の遠い宇宙で滅亡の危機に瀕していて、それを救うため、かつて彼らの先祖が地球に残したというある遺産を一緒に探す、という筋だ。 
    子どものころに読んだ時は、SFというちょっと大人のお話という感覚でいたのだが、今読むとやはりジュブナイルであり、文体には違和感があった。
    こんなだったかなあ、と。 
    しかしそれでも読み始めると意外に面白くて、俺はそのまま読み進めた。すると物語が佳境に差し掛かったあたりで、ふいに妙な文章が出てきた。 
    《そんなことより、遊ぼうよ》 
    ん? とそこで止まった。 
    地の文からいきなり読者へ語り掛けてきたのだ。不自然なメタレベルの文章だ。 
    次の一文を見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。 
    《うしろをむいてごらん》 
    地の文は続けて今この本を読んでいる俺に呼び掛けている。うしろをむいてごらん、と誘っているのだ。 
    これは…… 
    気がつくとなんとも言えない嫌な耳鳴りがしている。空気がヒリつく。 
    呼び掛けの内容のことだけじゃない。俺は全く気づかなかったのだ。今の今まで、同じ本を同じように読んでいるつもりだった。しかし、いつの間にか部屋の電気は消えていた。 


    876 本  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2013/08/24(土) 00:25:28.47ID:oCTAATKm0
    部屋の中は真っ暗で、俺は一人闇の中に座り、本のページを開いていた。 
    あたりは、しん、としている。 
    明かりがないのに、本の内容が読める。 
    ゾクリとした。 
    これか。 
    俺は胸の中でそっと呟いた。 
    この感覚は確かに説明し難い。完全に視覚的なものではない。普段この目で見ているように見えているわけではなかった。 
    だが、まるで視覚情報から抜き出されたような言語的な情報が直接頭の中に入り込んで来ている。
    そしてそれが本来そこにあるべき視覚的情報を補い、あたかも幻覚のように文字を浮かび上がらせている。 
    頭で、目の前に文字があるように想像した状態がそれに近いだろうか。闇の中で文字を想像した時、黒一色の世界に、同じ黒で文字が書ける。
    不思議な現象だった。 
    これだ。このことだ。 
    緊張しながら、今の状況を再確認する。なぜ部屋の電気が消えているのか。冷静に記憶をたどる。
    すると、直前に立ち上がり、電燈の紐を引っ張った自分を思い出す。 
    記憶が消えかけていたことにゾッとする。思考でたどっても多分だめだった。
    直前の、立ち上がった身体の感覚がうっすらと、そしてそれでもまだ俺の脳に正しい情報を送ってくれたのだ。 
    なるほど。部屋の明かりは無意識に自分で消してしまうのか。消したという記憶とともに。 
    俺は異常な状況に背中をゾクゾクさせながら、《うしろをむいてごらん》という文字情報をもう一度確認する。
    何度確認してもそこに目を向けた途端、強制的に脳が文字のイメージを浮かび上がらせる。 
    振り向くか。 
    いや。 
    だめだ。 
    振り向いてはいけない。 
    そこには部屋の壁があるだけのはずだ。 
    だが、だめだ。 
    振り向きたいという欲求が、頭の中を嵐のようにぐるぐると回る。それでもその欲求が自分の中から出てきたものではないということが分かる。 

    878 本  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2013/08/24(土) 00:29:15.16ID:oCTAATKm0
    耐え難い衝動に俺は耐えた。 
    そのページにはその文章だけが書いてある。 
    俺は次のページを捲らず、じっと考える。この異常な現象の根源のことを。それは物質としてのこの本ではない。
    なぜなら燃やしても破り捨てても、『夜の書』は次の本へ移るからだ。 
    だったら根源とはなんだ。 
    このループはどうやって打ち破る? 
    思考が音もなく走る。 
    夜の書。 
    夜にしか読めない本。 
    夜にしか…… 
    いつからかははっきりしないが、この怪現象が七不思議に数えられ、過去から現在までまだ続いているということは、現象を破るには誰もやっていないことをしなければならない。 
    考える。 
    考える。 
    なんだ。 
    それは、なんだ。 
    しばらく考えた後、俺は思考の流れを変えた。 
    逆はどうだ。誰もやっていないことをする、の逆。それは。 
    誰もがやったことをしない…… 
    ハッとした。 
    誰もがやったこと。 
    誰もが。燃やした人も、ズタズタに破り捨てた人も。 
    誰もがやっていること。それをしなければいい。 
    俺はふいに、冷めていく自分に気づいた。 
    そうか。こんなことか。 
    肩の力がふっと抜けて、俺は闇の中で本を掴んだ。そのまま手探りでベランダのある窓の近くに持って行く。 
    そうして、本のページを開いたまま窓際に置いた。 
    欠伸をして、こたつに入る。最近は不精が過ぎてベッドにも入らず、こたつに首まで潜り込んで寝るのだった。 
    歯を磨いてないな、と思ったが、まあいいやと眠りに落ちた。 

    879 本  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2013/08/24(土) 00:31:25.88ID:oCTAATKm0
    ◆ 

    次の日、目が覚めるとカーテン越しに朝の光が眩しいほど射し込んでいた。天気予報通りの快晴だ。 
    こたつからムクリと這い出て、俺は窓際の本を確認する。昨日置いたままの格好で、本は朝の陽光を浴びていた。 
    開いているページには、昨日のソレマン人の遺産に関する物語の続きが載っていて、奇妙な文章など一つも見当たらなかった。
    もちろんどのページにもだ。 
    怪異の源はいまひとつはっきりしなかったけれど、たいていの夜の怪現象はこいつには適わない。 
    朝の光には。 
    これまでに恐らく誰もがやってしまったこと。 
    それは本を閉じてしまったことだ。つまり、夜中に開いた『夜の書』としてのページを閉じてしまい、結果として怪異の根源が朝の光を浴びることがなかった。 
    そんなことで良かったのに。 
    まあ、こんなもんかね。 
    俺は一晩中こたつに包まっていてこり固まった筋肉をほぐすべく、大きな伸びをした。 


    次の日の夜、俺はまた自分の部屋で『ソレマンの空間艇』を通して読んでみた。最後まで読んだが、特に異変は起こらなかった。 
    その後、電気を消してみたが、開いたページのあたりにはやはり何もなかった。暗闇があるだけだ。 
    念のためにもう一日様子を見てから、俺は音響を前回のカレー屋に呼び出した。 
    概要を説明し、本をテーブルに置いてからそっちへ押しやる。 
    「朝の光で、ねえ」 
    ふうん、という表情で音響は小さく頷いている。 
    「死んだの?」 
    本を指さしてそう訊くので、「たぶん」と答える。 
    「燃やした時と同じで、結局別の本に逃げてるとか」 
    「それはないな」 
    たぶん、と付け加える。 

    880 本  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2013/08/24(土) 00:33:15.52ID:oCTAATKm0
    図書館の膨大に存在する本のどれかに逃げたかも知れない、なんて言われてもすぐには確認のしようがないが、そのことにはついては自信があった。
    何故かと言われても上手く答えられないのだが、俺のこれまでの経験に裏打ちされたカンだ。 
    なにより、ループを破る方法を思いついた瞬間に冷めてしまった自分自身と、こたつに入って眠ったその俺になにも出来なかったという、怪現象としての、こう言ってはなんだが、しょぼさ、がそれを補強している。 
    音響も似たような感想を持ったのか、あっさりと納得したようだ。 
    「ありがとう。さすが」 
    さすが、の後、師匠のしの字が続く前に俺は被せて言った。 
    「お前、いつまでこんなことに首突っ込んで行くつもりだ」 
    するとキョトンとして、「だって」と言うのだ。 
    「だって、これからじゃない。大学に入ったら、もっと色々楽しいことできそうだし」 
    その言葉を聞いた瞬間、自分が老人になってしまったように感じてしまった。 
    そうか、こいつはこれからなのか。 
    俺がオカルト道にどっぷりと浸かって無茶ばかりやっていたあの無軌道な日々が、こいつにはこれからやってくるのか。 
    自分にはもう戻って来ない時間が全方位に向かって開かれている少女に、目を開けられないような眩しさを感じて俺は目を逸らした。 
    「そういえば」 
    と、音響はカレーを掬おうとしていたスプーンを止める。 
    「昨日瑠璃ちゃんに会ったよ」 
    一瞬意味が分からず、「アメリカへ帰ったんじゃないのか」と言いそうになってから、「ああ、そういうことか」と一人ごちた。 
    「わたし、地元の大学に行くのはさ、瑠璃ちゃんと遊びたいってのもあるんだよね」 
    「あいつ、この街にしかいられないのか」 
    「うん」 
    そうか―― 

    The king stays here,The king leaves here. 

    ふいに、頭の中に瑠璃の好きだった言葉が蘇った。 

    881 本  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2013/08/24(土) 00:35:35.67ID:oCTAATKm0
    王は留まり、王は離れる。 
    自分の名前を紹介する時に、いつも好んでこの言葉を使っていた。もちろん本名ではない。自分でつけた名前だ。 
    それは本来彼女の顔のある部位を端的に表す言葉だったが、ここに奇妙な符合が生まれていた。 

    I stay here, I leave here. 

    キングを自分に変えることで、生まれついて彼女に起こっているその不思議な現象を表す言葉になるのだ。
    それも、ニューヨークへ帰った彼女を表す時にはその言葉が逆転する。 
    面白いな。 
    俺は人間を取り巻く、目に見えない偶然というものや、運命というものを改めて感じた。 
    「今度会ったら、目を傷めないように気をつけろって言っておいてくれ」 
    「なにそれ。カラコンのこと? 瑠璃ちゃん、もうしてないよ」 
     音響が不思議そうにそう言う。 
    「いや、いい」 
     俺は、見えざる悪意の主要な標的となった四人の、ある共通点のことを考えていた。
    四人のうちの三人。それが偶然なのか、そうでないのか、すべてが終わった今でも分からないのだった。 
    カレーを食べ終わったころ、腰を浮かしかけた俺に音響が言う。 
    「じゃあ、春からよろしくね、師匠」 
    相変わらず上から下まで黒尽くめの格好でそんなことを言うのだ。腹の内を読み取れない表情で。 
    俺は一瞬、自分が別の人間になったような錯覚に陥り、うろたえた。 
    うろたえながらも、なんとか言い返したのだった。 
    「受かってから言え」 
     師匠だと? この俺が。 
     これまでただイタズラのようにそう呼ばれていたのとは違う、ぞわぞわする感覚があった。 
    これについては断じて運命ではない。と、思う。 
    しいて言えば…… 
    しいて言えば、そう。 
    やっぱり、no fate ということになるんだろう。 

    (完) 

    1 ウニ  ◆oJUBn2VTGEウニ 2013/08/16(金) 23:30:39.75 ID:N/i40Div0
    師匠から聞いた話だ。 


    小高い丘のなだらかに続く斜面に、藪が途切れている場所があった。 
    下草の匂いが濃密な夜の空気と混ざりあい、鼻腔を満たしている。
    その匂いの中に、自分の身体から発散させる化学物質の香りが数滴、嗅ぎ分けられた。 
    虫除けスプレーを頭からひっかぶるように全身に散布してきた効果が、まだ持続している証だった。 
    それは体温で少しずつ揮発し、体中を目に見えないオーラのように包んで蚊やアブから僕らを守っているに違いない。 
    斜面を背に寝転がり、眼前の空には月。
    そしてその神々しい輝きから離れるにつれ、暗く冷たくなっていく宇宙の闇の中に、星ぼしが微かな呼吸をするように瞬いているのが見える。 

    ささのは 
    さらさら 
    のきばに 
    ゆれる 
    おほしさま 
    きらきら 
    きんぎん 
    すなご 

    虫の音に混ざって、歌が聞える。 
    とてもシンプルで優しいメロディだった。 

    ごしきのたんざく 
    わたしがかいた 
    おほしさま 
    きらきら 
    そらから 
    みてる 

    歌が終わり、その余韻が藪の奥へ消えていく。僕は目を閉じてそのメロディのもたらすイメージにしばし身を任せる。 

    363 月と地球 (タイトル抜かりorz) ◆oJUBn2VTGE ウニ2013/08/16(金) 23:33:51.06ID:N/i40Div0
    虫の音が大きくなる。 
    隣に、似たような格好で寝転がっている師匠の方を、片目を開けて覗き見る。 
    組んだ両手を枕にして、また右足を左足の膝の上で交差させ、ぶらぶらさせている。
    そして夜空を見上げながら、さっきの歌を鼻歌にしてまた繰り返し始めた。 
    夏になると、師匠はふとした時、気づくとこの鼻歌を歌っていた。機嫌がいい時や、手持ち無沙汰の時。
    ジグソーパズルをしている時や、野良猫にエサをやっている時。 
    しかしその歌を声にして歌っているのを聞いたのは初めてだった。 
    大学一回生の夏。 
    僕の夏は、たった二度しかなかった。 
    その最初の夏が、日々、目も眩むほど荒々しく、そして時にこんな夜には静かに過ぎて行った。 
    「出ないなあ」 
    師匠が鼻歌の区切りのところで、ぼそりと言った。 
    「出ませんねえ」 
    それきり鼻歌は止まってしまった。 
    僕は聞えてくる虫の音が一体何種類のそれで構成されているのか、ふと気になり、数えようと耳を澄ませる。
    草の中に隠れているその姿を想像しながら。 
    隣で師匠が欠伸を一つした。 
    僕たちは、ある心霊スポットに来ていた。
    遠い昔の古戦場で、この季節になると、まるで蛍のように人魂が舞っている幻想的な光景が見られると聞いて。 
    しかし、一向に人魂も蛍も姿を見せず、僕らはじりじりとただ腰を据えて待っているだけだった。 
    僕が二の腕に止まった蚊を叩いた時、師匠が口を開いた。 
    「いい月だなあ」 
    言われて見ると、ちょうど満月なのかも知れない。綺麗な円形をした月だった。 
    「いい月ですねえ」と返すと、師匠は「知ってるか」と続けた。 
    「来年の一月にな。スーパームーンってやつが出るらしいぞ」 
    「知らないですね。満月の一種ですか。どの辺がスーパーなんですか」 
    「でかいらしい」 
    でかいって…… 月は月だろう。 
    「そのスーパーなやつなのか知りませんけど、普段からなんかたまにやたらでかく見える時ありますけどね」 

    364 月と地球 ◆oJUBn2VTGE ウニ2013/08/16(金) 23:36:43.15ID:N/i40Div0
    「それは月が地平線の近くにある時だろう。あれは錯覚なんだぞ」 
    「錯覚ですか」 
    「そう。証拠に、目からの距離を固定した五円玉の穴から覗いてみな。普段の月と大きさは一緒だから。
    あれは、普段中天にある時は夜空の星を遮る存在で、 
    つまり『手前側』にある月が、地平線近くにある時には家とか山とか電信柱とか、他のものに遮られて、つまり遥か『後ろ』、遥か遠くにある、と認識されるために生まれる錯覚なんだよ」 
    「そんなもんですかね」 
    夕方、まだ向こう側がほのかに赤い地平線から現れる巨大な月を頭に思い描く。 
    「でもそのスーパーなやつも結局は錯覚なんでしょう。本当の大きさは同じわけだから」 
    「いや、そうじゃない。本当に大きいんだ」 
    「そんなわけないでしょう。天体が簡単にでかくなったり縮んだりするわけがない」 
    「そういうことじゃなくて、単に地球と月の距離が近くなるんだよ。それぞれ楕円軌道を描いている二つが、何年かに一度しかない、絶妙なタイミングで」 
    大きさが変わらないのにそう見える、というのだから、それも錯覚と言うべきである気がしたが、良く分からなくなったので僕は黙っていた。 
    「だから、実際にでかく見えるんだ。
    それも今度のは、スーパームーンの中でもさらに特別に最短距離になる、エクストリーム・スーパームーンってやつらしい」 
    聞いただけでも、なんだか凄そうだ。 
    「二十年に一度くらいしか来ない、えらいやつだってさ。15%くらいでかく見えるって」 
    そうか。そんなにえらいやつが来るなら見てみるか。忘れないようにしよう。
    そう思って、来年の一月、エクストリーム・スーパームーンという言葉を脳裏に刻み付けた。 
    それから師匠は訊きもしないのに、月にまつわる薀蓄を勝手に垂れ始め、僕はそのたびに少し大袈裟に感心したりして、目的である人魂の群が現れるまでの時間を潰した。 
    師匠の話はどんどん胡散臭くなり始め、最後には火星と木星の間に昔、地球などと兄弟分の惑星があり、それが崩壊して出来た岩石が今のアステロイドベルトの元になっているという話をしたかと思うと、 
    地球には元々衛星はなく、その消滅した惑星の衛星が吹き飛ばされ、地球の引力にキャッチされてその周囲を回り始めたのが今の月なのだと、興奮気味に語った。 

    365 月と地球 ◆oJUBn2VTGE ウニ2013/08/16(金) 23:39:03.86ID:N/i40Div0
    一体どこで吹き込まれたのか知らないが、最近学研のムーとかいう雑誌が師匠の部屋に転がっていたのを見たので、きっとそのあたりなのだろう。 
    そう思ったところで、さっきのエクストリーム・スーパームーンの信憑性も疑わしくなったので、とりあえず脳に消しゴムをかけておいた。 
    僕らがそんなやりとりをしている間にも、月はその角度をわずかずつ変え、僕らの首の角度もそれにつれて少しずつ西へ、西へと向いていった。 
    何ごともなく夜は過ぎる。 
    虫の音はいつ果てるともなく続き、やがて話し疲れたのか師匠は無口になる。 
    だんだんと防虫スプレーの効き目が切れてきたらしく、腕や足に止まる蚊が増え、その微かな感触を察知するたび、僕はパチリ、パチリと叩き続けた。 
    十分ほど沈黙が続いた後で、師匠はふいに口を開いた。 
    「昔な、宇宙飛行士になりたかったんだ」 
    へえ。初耳だった。 
    「女性宇宙飛行士ですか」 
    「アポロ11号で、アームストロングとオルドリンが月面に人類で始めて降り立った時、私はまだ二歳だか三歳だか、そのくらいの子どもだったけど、周囲の人間たちがテレビを見て大騒ぎをしていたのをなんとなく覚えてるんだ」 
    アポロ11号か。僕などまだ生まれていないころだ。 
    「最後の月面有人着陸のアポロ17号ははっきり覚えてるぞ。船長のジーン・サーナンがえらく男前でな。
    そいつとハリソン・シュミットって科学者がさ、月面……『晴れの海』で月面車に乗ってドライブをするのさ。 
    そうして人類最後の足跡を残す、って言って去るんだよ。計画のラストミッションだったから。
    でもそれから本当に人類はただの一度も月に足を踏み入れてないんだ」 
    僕はさっきからずっと見上げていた月を、今初めて見たような気持ちで見つめた。 
    そうか。あそこに、僕と同じ人間が行ったことがあるんだ。 
    改めてそう思うと、なにか恐ろしい気持ちになった。 
    月は暗い虚空に浮かんでいて、あそこまで行く、なんの頼るべきすべもないのだ。空気もなく、重力もなく、途方もなく寒く…… 
    どうして人類はあんなところに行こうと思ったのだろう。 
    そしてどうしてあんなところに行けると信じられたのだろう。もう人類は、その夢から覚めてしまったのかも知れない。 
    宇宙飛行になりたかったはずの師匠も、今はこうして地面に寝転がっている 
    「いつ諦めたんですか」 

    367 月と地球 ◆oJUBn2VTGE ウニ2013/08/16(金) 23:40:24.16ID:N/i40Div0
    「そうだな。小学校五年生の時だ」 
    「早いですね」 
    もう少し夢を見てもいいのに。 
    現実を見ないことにかけては定評のあるこの師匠が、実に殊勝なことだ。 
    「笑ったな。でも今でも覚えている。あれは小学校五年生の夏休みが始まった日の夜だ。私は英語の塾に行くことになってたんだよ」 
    「小学生が英語ですか」 
    「当然だ。宇宙飛行士になりたいなら、英語力は絶対に必要だった。だから親に頼んで、近所の英語を教える塾に通わせてもらうことにした」 
    祖父さんの弟で、アメリカに渡った人がいたんだ。 
    師匠は月を見上げたまま語る。 
    「亀に司って書いて亀司(ひさし)って読む人だ。バイタリティ溢れる人だった。アメリカ人の女性と結婚して、向こうに渡ってな。 
    最初はニューヨークで蕎麦屋をやろうとしたんだけど、失敗して、しばらくタクシーの運転手をやってたんだ。
    それでまた溜めた金で今度はスシバーを始めたらこれが流行った。大儲けさ。 
    今もまだその店やってるんだけど、四つか五つ、支店もあるんだ。
    自分はグリーンカードのままで、帰化申請もしてないんだけど、向こうで生まれた子どもたちはアメリカ国籍を持ってる。日系二世ってやつだな。 
    その長男がリックって名前で、工業系の大学へ進んだ後、NASAに入ったんだ」 
    「え。本当ですか」 
    「ああ。車両開発のエンジニアだった。亀司さんは毎年正月には家族をみんな連れて、うちの実家へ顔を見せに来るんだ。 
    NASAの職員だったリック…… 日本名は大陸の『陸』って漢字を当ててたから、私は陸おじさんって呼んでたけど、その陸おじさんが私にはヒーローでな。 
    日本にいる間、私はいつも宇宙ロケットとか、宇宙飛行士の話をせがんで、ずっとくっついてた」 
    心なしか、懐かしそうに顔がほころんでいる。 

    368 月と地球 ◆oJUBn2VTGE ウニ2013/08/16(金) 23:46:41.22ID:N/i40Div0
    「私も宇宙飛行士になって、月に行きたいって言うと、陸おじさんはこう諭すんだ。そのためには勉強を死ぬ気で頑張らないとな、って。
    これからの宇宙開発は、アメリカ単独ではなく、多国間で協力して進めていくようになる。 
    宇宙飛行士も、いろんな国から優秀な人材を選抜するようになるだろうから、その時、日本で一番の宇宙飛行士として選ばれるように、今から頑張らないといけないってさ。 
    私もアメリカ人になって、NASAに入って宇宙に行くんだって言い張ったけど、今から加奈ちゃんがNASAに入るのは難しいなあ、と言われたよ。
    それに、今の宇宙飛行士はNASAの職員じゃなくて、アメリカの軍人ばかりさ、って」 
    「それで諦めたんですか」 
    「いや、頑張ろうと思ったさ。勉強を。日本人の一番になるために。
    特に、語学は早いうちに始めた方がいいって言われたから、まず英語を習おうと思ったんだ。 
    夏休みの前にも、手紙でもそんなやりとりをしてて、思い立ったんだ。夏休みに入ったら、すぐに行くことにしたよ。でも、その最初の日のことだ」 


    そこは日中、別の仕事をしている先生が、夜間に開いている塾だった。 
    私は日の暮れかけた道を歩いて、そこへ向かっていた。
    途中で筆箱を忘れたことに気づいて取りに帰ったりしたせいで、初日だというのに遅刻しそうになって少し焦っていた。 
    今みたいには舗装もちゃんとされていない道を早足で歩いてると、大きな廃工場の前を通りがかったんだ。 
    普段はあんまり通らない道だったから、何気なくその人気(ひとけ)のない不気味な建物の中を覗き込みながら通り過ぎようとしたら…… 
    錆び付いてところどころ剥がれたスレートの波板の外壁、その二階部分に窓があって、そこに誰かがいた。
    すうっと、消えていったけど、確かに私のことを見下ろしていた。 
    人間じゃないことはすぐに分かった。そう感じたんだ。 
    怖くなって走った。走って、先へ進んだ。 
    だけど、遠ざかっていく廃工場が完全に見えなくなる曲がり角に来たとき、私は立ち止まった。 
    まず、自分が立ち止まったことに驚いた私は、その理由を考えた。 
    廃工場に戻りたいんだ。 
    そう考えた時、ゾクゾクした感触が背中を走り抜けたよ。 

    369 月と地球 ◆oJUBn2VTGE ウニ2013/08/16(金) 23:49:46.48ID:N/i40Div0
    あの見下ろす視線の、正体が知りたい。 
    それは、途方もなく魅惑的な誘惑だった。私はもうそのころには、自分のどうしようもない性癖に気づいていた。
    抗いがたい、怪異への欲求。それは私だけが求めるものではなく、怪異からも常に私は求められ、欲されていた。 
    振り向きたい。 
    いや、振り向いてはいけない。 
    塾の始まる時間は迫っていた。走って行かなくては間にあわない。勉強は明日から頑張ればいいや。一瞬、そんなことを考えもした。 
    でもそんな甘いことを言う人間が、日本の宇宙飛行士候補の一番になれるわけがない。そのことも、子どもながらに悟っていた。一事が万事だ。 
    戻るか、進むか。 
    振り向くか、振り向かないか。 
    その相反する二つの選択の、尖った岐路に私は立っていた。 
    わずかに残っていた夕日が山の向こうに消えて、夜の闇が背中から迫って来ている。
    人のいない道に、ただ一つ伸びていた私の影が見えなくなっていく。 
    塗装の剥がれたカーブミラーが道の隅にぽつんと一本立っていて、その大きな瞳に灯っていた光がゆっくりと死んで行こうとしていた。 
    戻るか、進むか。 
    振り向くか、振り向かないか。 
    お化けを見るか、宇宙飛行士になるか。 
    自分の呼吸の音だけが身体の中に響いていた。 
    やがて私は、一つの選択をする。 
    暗い淵に呼ばれるように私は、戻ることを選んだ。 
    曲がり角で振り向いて、廃工場の方へ足を踏み出す。 
    でもその瞬間、すぐ後ろで遠ざかっていく人の気配を感じた。足早に歩く靴の音まで聞こえる。ああ。もう一人の自分だ。
    身を焼かれるように宇宙飛行士に憧れた私は、進むことを選んだのだ。 
    戻った自分。 
    進んだ自分。 
    私は、その時二つに分かれた。 
    どちらも私だった。二人の私がお互いに背を向けて、歩き出したんだ。 

    371 月と地球 ◆oJUBn2VTGE ウニ2013/08/16(金) 23:52:51.89ID:N/i40Div0
    戻った私は、廃工場でこの世のものではないものを見た。とてもおぞましく、恐ろしく、美しかった。 
    それから、私は宇宙飛行士になりたいという夢を口にしなくなった。
    それは、あの時、英語の塾へ行った方の自分が叶えるべきものだったからだ。 
    陸おじさんは、その後数年でNASAを退職した。スペースシャトル時代がやってくる前にだ。
    何度かあったアメリカ政府の宇宙開発にかける予算削減のためだった。 
    様々な機器の外注が増え、陸おじさんもそんな業務を扱う民間企業に再就職したけれど、軍需産業にも多角的に経営の手を広げていったその企業の中にあっては、やがて宇宙開発に関するプロジェクトから外れることが多くなった。 
    『もう僕は、地球以外の場所で走行するための車両開発に関わることはないだろう』 
    寂しそうにそう言った時の彫りの深い横顔が今も脳裏に焼き付いている。
    その技術に全精力を費やした日々が、遠い彼方へ去っていったことへの、諦めと無力感だけがそこにはあった。 
    月面という新たな大地から、人類はしばらくの間、いや、ひょっとすると、永遠に去ってしまったんだ。  


    「時々、今でも思うんだ。あの塾へ向かう曲がり角で、進むことを選んだもう一人の自分のことを。
    そいつは、多分死ぬほど勉強したに違いない。血ヘドを吐くくらい。 
    それだけのものを捨てて来たんだから。そしてきっと日本で一番の宇宙飛行士候補になって、アストロノーツに選ばれ、宙(そら)に上がるんだ。 
    もう一人の私が選んだ世界は、人が人のまま他の天体に足を踏み下ろすことの価値を、子どものように信じている。私がそう信じたように。
    そんな世界なんだ。 
    そこでは有人月面着陸の計画が再び興され、私はそのクルーに選ばれる。
    そしてこの役得だけは譲れないという自信家の船長に続いて、二番目か、さらに控えめに三番目の、サーナンとシュミット以来となる月面歩行者になるんだ」 
    師匠は眠たげな声で、訥々と語る。隣にいる僕に聞かせるでもなく。 
    いつの間にか、虫の音が少し小さくなっていた。どこかとても遠くから聞えてくるようだった。 

    372 月と地球 ◆oJUBn2VTGE ウニ2013/08/16(金) 23:55:11.91ID:N/i40Div0
    「月面での様々なミッションが与えられていて、仲間たちは大忙しだ。
    私は陸おじさんがパーツの多くを開発した月面車(ルナビークル)で、そこら中を走り回るんだ。定期的に着陸機の中で眠り、数日が過ぎる。 
    アポロ計画のころより、ずっと長い滞在期間だ。
    その仕事に追われる日々の中、私は自由時間を与えられる。もちろん定時通信はするし、遠くにも行けない。 
    それでも着陸機や、棒で広げられた風にたなびかない星条旗なんかが視界に入らない場所まで行って、そこで私は一人で寝転がるんだ。
    そこはとても静かだ。 
    月の貧弱な重力では大気を繋ぎとめられなかったから、月面という地上にありながら、そこは真空の世界だ。宇宙服の中を循環する空気や冷却水の音。
    それだけがその世界の音なんだ。 
    大気がないために、視界がクリアでどこまでも遠くが見渡せる。それは寒気のする光景だ。
    白い大地と、黒い空。空と宇宙の境界線なんてありはしない。その大地のどこもすべて宇宙の底なんだ。 
    大地にも空にも、どんな生物も生きられない世界。地球を詰め込んだ、宇宙服がなければ…… 心細さに身体を震わせた私は、ふと誰かの視線を感じたような気がする。周囲を見回すけれど、誰もいない。 
    小さな丘の向こうにいる仲間たちの他には、誰もいないんだ。この三千八百万平方キロメートルという広大な大地の上に、誰一人。
    それを知っている私は、子どものころに見た幽霊を思い出す。 
    しかし、その幽霊すら、ここにはいない。いることができない。歴史上、この月面で、いや宇宙空間で死んだ人間は誰もいないのだから。
    幽霊のいない世界。私は今までに感じたことのない恐怖を覚える。 
    孤独が、大気の代わりに私を押し包む。
    感じていた視線は、いや視線の幻は、やがて消える。私は、宇宙飛行士が感じるというある種の錯覚のことを真剣に考える」 
    師匠は夢を見るように、うつろな表情で語り続ける。月光がその頬を青白く浮かび上がらせている。 
    僕はじっと師匠のことを見ていた。 

    374 月と地球  ラスト ◆oJUBn2VTGE ウニ さる規制長かった・・・ 2013/08/17(土) 02:04:50.33 ID:MpcQHp2g0
    「そうして私は、もう一人の自分のことを思い出す。小学校五年生の夏休み初日、英語の塾に行かず、廃工場へ戻って行った、もう一人の自分を。 
    その自分は、宇宙空間ではない、別の暗い世界の中を彷徨っているだろう。そうして普通の人間にはたどり着けない、恐ろしい光景を見たりしている。
    その自分は、今どうしているだろうか。 
    ひょっとすると、月を見上げて、昔二つに分かれてしまったもう一人の自分に想いをはせているだろうか。 
    こうして、月面に一人横たわり、青い円盤(ブルー・マーブル)と呼ばれる、宇宙の闇の中にぽつりと孤独に浮かぶ地球を、じっと見上げている自分のように」 
    月を見上げる自分と、地球を見上げる自分。 
    二人の自分が互いに、遠くて見えないもう一人の自分と視線を交し合っている。 
    その師匠の幻想を、僕はとても美しいと思った。そしてそれは同時に、肌寒くなるほど恐ろしかった。何故かは分からなかった。 
    しかしその月光に青白く濡れた横顔を見ていると、ふと思うのだった。 
    師匠の語る幻の中では、月世界に一人でいる彼女だけではなく、地球で今こうして藪と藪の間の斜面に寝転がっている彼女の方も、まるで一人だけでいるように思えたのだ。 
    そこにはすぐ隣にいるはずの僕も、いや、この日本、そして地球に存在するはずのあらゆる人間もいない。 
    ただこの惑星の夜の部分にたった一人でたたずむ、孤独な…… 
    「出た」 
    ふいに、師匠が立ち上がった。 
    身体から離れていた精気が一瞬で戻ったようだった。 
    指さすその先に、儚げな光の筋がいくつも飛び交っているのが見えた。 
    ああ、人魂だ。 
    いや、蛍なのか。 
    光は尾を引いて、闇の中を音もなく舞っている。 
    僕は下草から漂う青い匂いを吸い込みながら、駆け出した師匠のお尻を追って立ち上がった。 


    (完)



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