都市伝説・不可思議情報ファイル

    カテゴリ:師匠シリーズ

    1 テレビ ◆oJUBn2VTGE ウニ New! 2013/01/26(土) 22:15:25.10 ID:Zc2Cu2zX0
    師匠から聞いた話だ。 


    大学二年の夏だった。 
    オカルト道の師匠であるところの加奈子さんが、人からもらったという大量のそうめんを処分しようと、「第一回大そうめん祭り」と称して僕を呼びつけた。 
    痛むようなものでもないし、そんなに焦って食べなくてもいいのに、と思っていたのだが実際に山と積まれたその袋の量を見て「あ、無理だ」と思った。 
    師匠の住むボロアパートの一室で、次々と茹でられていくそうめん。 
    最初は「うまいうまい」と喜んで食べていたのが、「一日中食べまくろうぜ」という楽しいコンセプトには意外な欠陥があり、二十分も経ったころにはギブアップ宣言が出かかっていた。 
    「腹が張りました」 
    一応言ってみたが、祭りの実行委員の判断は続行だった。 
    それからはテレビを見ながら食べては休み、食べては休みという行為をだらだらと繰り返していた。 
    「小島、もっと食え」 
    「中島です」 
    いつも師匠に食べ物をたかりに来ている隣の部屋の住人も呼ばれていたのだが、さすがにそうめんばかり食べ続けるのにはげんなりしてきたようで、箸が止まりがちになっている。 
    「固いものが食いたい」 
    僕がぼそりと口にした言葉に、二人とも無反応だった。みなまで言うな、というやつだ。 
    部屋は停滞した雰囲気に包まれ、師匠などはいつの間にかテレビの前に横になって、立てた腕を枕にヨガのようなポーズで床に置いた器からずるずるとそうめんを啜っていた。 
    年頃の女性のする格好ではないが、なんだか似合うので不思議だった。 
    最初につけていたチャンネルでは海外のドラマの再放送をやっていた。 
    途中から見たので話はよく分からなかったが、どうやら牧場主である主人公の幼い息子が流行り病で死んでしまう、という悲劇的な回のようだった。 
    『神はいないのか!』 
    息子の亡骸を抱えて空に吠える主人公が迫真の演技で、物語の背景も分からないのに思わず涙ぐんでしまいそうになった。 
    しかし師匠は床に頬杖をついた格好のまま、音を立ててそうめんを啜り上げ、咀嚼のあい間にそのシーンについてのコメントを口にした。 

    74 テレビ ◆oJUBn2VTGE ウニ New! 2013/01/26(土) 22:19:12.28 ID:Zc2Cu2zX0
    「慈悲深い神の不在を嘆くやつらは、どうして無慈悲な神の実在を畏れないのかね」 
    楽天的なことだ。 
    師匠は鼻で笑うように呟いた。 
    その言葉に小島だか中島だかという名前の隣人も、その何を考えているのか分からない卵のようなのっぺりした顔で小さく頷いている。 
    そのドラマが終わると今度は台風のニュースが始まった。 
    わりと大型で、今は石垣島のあたりにいるらしい。映像では横殴りの雨の向こうに荒れた海が映っていた。 
    「おお~」 
    という声を上げて師匠が楽しそうに手に持った箸でテレビ画面を指した。 
    「台風と言えばさあ。何年か前、沖縄の方のもっと小さい島に滞在してた時に遭遇してさあ、死ぬかと思ったことがあるよ」 
    「滞在って、なにしてたんですか」 
    「その島では殯(もがり)の習慣が受け継がれているって噂を聞いてな。一度見てみたかったんだ」 
    「殯って言うと、あれですか。残された家族が死体と一緒に過ごす儀式ですよね」 
    その死体を安置する建物を喪屋(もや)というらしい。 
    「でもダメだった。よそ者には見せてくんないんだ。それでも船着場の近くでテント生活して居座ってたら、知らない間に大型台風が近づいててさ。
    さすがにそれは教えてくれて、村長さんの家に避難させてもらったんだ」 
    「別に死ぬような目にあってないじゃないですか」 
    「その後だよ。客間を貸してもらって、久しぶりの布団で思い切り足を伸ばして寝てたら、家の外がなんかワイワイうるさいんだ。 
    夜の十二時を回って、雨も風もかなり強くなってきてたけど、その吹き付ける音とは別に、複数の人間が大声で怒鳴ってるのが聞えてくる。 
    なんだろうと思って自分も外へ出てみたら、村長さんの家の裏手に家族とか近所の人が集まってた」 
    「裏山が土砂崩れしかかってたとかですか」 
    「ああ、ようするにそういうことなんだけど、ちょっと様子が変なんだ」 
    師匠は目の前に右手を広げて宙を撫でるような仕草をする。 

    75 ウニ ウニ New!2013/01/26(土) 22:23:09.27ID:Zc2Cu2zX0
    ・A・ シリーズスレと間違えた・・・orz 

    76 テレビ ◆oJUBn2VTGE ウニ New! 2013/01/26(土) 22:26:26.30 ID:Zc2Cu2zX0
    「村長さんの家の裏山は石垣で覆われていて、ちょっとした砦みたいになってるんだ。
    元々本当に土地の領主の砦があった場所らしい。その痕跡だな。 
    で、その石垣が今で言う擁壁、つまり土止めの代わりになってるんだけど、さすがにコンクリート製のような頑丈さはないから、
    こういう台風の時には崩れる危険性があるってんで、 
    みんな心配してレインコートを着込んで見に来たらしい。そこまではすぐに分かったんだけど、何故かみんな石垣の方を見たままぼうっと突っ立ってるんだ」 
    「なにをしてたんですか」 
    「ただ立ってるだけ。ガタガタ震えながら」 
    震えていた? 今にも石垣が崩れそうだったからだろうか。でもそれなら早くその場から逃げないといけないだろう。 
    「わたしもそう思って、村長さんのレインコートの端を引っ張って、逃げましょうって言ったんだけど、動かないんだ。じっと、石垣の一点を見つめてる。
    その視線の先を追いかけた時、ぞくっとしたね」 
    師匠は首を捻り、顔を地面に平行になるように傾けた。 
    「顔がね。石垣の中にあるんだ。人間の顔だ。みっしりと組まれた石積みの中に、こんな風に横になった顔が嵌っている。
    まるで始めから、そこにあったみたいに。 
    その顔が、苦痛に歪んで、なにか呻いてるんだ。その悲鳴みたいな声が、風雨の中に混ざって聴こえてくる」 
    痛い…… 
    痛い…… 
    そう言ってたんだ。 
    「次の瞬間、その顔が潰れた。上の石に押し潰されて。目が飛び出したところまで見えたよ。はっきりと。
    潰された顔がぐしゃぐしゃになって石垣の間から流れ出した。 
    すぐにその歯抜けみたいになった石垣の間から噴水みたいに土の混ざった水が噴き出してきて、身の危険を感じたんだ。
    『走れ』って叫んだら、やっとみんな我に返ったみたいに反応して、逃げ始めた。 
    間一髪だったよ。走って逃げるすぐ後ろから石垣が崩れる物凄い音がして、それが近づいてくるんだ。生きた心地がしなかった」 
    淡々と語る師匠だったが、恐ろしすぎる体験だ。 
    結局、村長さんの家までは土砂はやって来ず、全員そこまでなんとか逃げ延びて、ことなきを得たらしい。 
    「その顔はなんだったんですか」 
    恐る恐る訊くと、師匠は難しい顔をする。 

    77 テレビ ◆oJUBn2VTGE ウニ New! 2013/01/26(土) 22:28:13.32 ID:Zc2Cu2zX0
    「分からない。ただ昔から、その島じゃあ時々そんなことが起きるんだと。
    石垣はその島のいたるところにあるんだけど、それが崩れる時には必ず前兆があって、石積みの一部がその、 
    わたしたちが見たような顔に変わってしまってるんだ。顔はもろくて、すぐに潰れてしまう。そこから石垣が崩れるんだ」 
    これには二通りの意味が考えられる。 
    師匠はそう言って指を二本立てた。 
    「雨の影響で石垣が崩れる時、予兆としてその顔が現れるのか、それとも石垣の一部が人間の顔に変わってしまうから崩れるのか。どちらだろうか」 
    台風が通り過ぎて、わたしがその島を出る時、村長さんに訊いてみたんだ…… 
    『あれは、五年前に死んだ、わしの弟の顔だった』 
    そう答えたという。 
    『癌で苦しんで苦しんで死んだのに、どうしてまたあんな風に苦しまないといけないのか』 
    「答えにはなっていなかった。結局、この島の人たちにも分からないんだ。ただ、石垣に現れる顔は、決まって死者の顔なんだと」 
    ずるずるずる。 
    グロテスクな話をしながら、師匠はまたそうめんを啜り始めた。よく食べられるものだ。 
    「死が、色濃い島だった。生活の中に、人の死があまりに入り込み過ぎている。そう思ったから、わたしは最後にもう一つだけ訊いたんだ」 
    口の中のものを咀嚼して、麦茶で流し込んでからゆっくりと続ける。 
    『あなたがたがしているのは、本当に殯(もがり)なんですか?』 
    師匠は僕を見てニヤリと笑みを浮かべた。 
    「村長は答えなかったよ」 
    台風が来るたびに、このことを思い出す。 
    師匠はそう言いながらまたそうめんに箸を伸ばす。 
    気持ちの悪い話だった。少し食欲が減退した気がした。胃袋の容量の関係ですでに十分に減退していたが、さらにだ。 
    テレビのニュースでは台風情報が終わり、全国版からローカル放送に切り替わった。
    公務員の飲酒事故の話題と、市内で開かれたチャリティコンサートに関する話題が続いた。 
    そしてその後で、先日起こったJR線の死亡事故についての続報もあった。 
    「これ、私の友人が見てしまったそうです」 
    口元を拭きながら、師匠の隣人がぼそりと言う。師匠がそれに返答する。「フレンド・オブ・フレンドか? 中島」 

    78 テレビ ◆oJUBn2VTGE ウニ New! 2013/01/26(土) 22:30:07.72 ID:Zc2Cu2zX0
    「大島です。本当に見たそうですよ。血がドバーッと出て、骨も出ていたそうです」 
    小島だか中島だか大島だかという名前のそのいい加減な隣人は、顔を上げて自分の細い目を両手の指で見開いてみせた。 
    「ま、いいけど」と師匠はニコリともせず、寝転がったヨガのようなポーズをわずかに変えて箸を動かす。 
    「そう言えば、何年か前に、凄い事故があったな。あれもJRか。覚えてるか?」 
    僕はここが地元ではないので知らない。隣人だけが頷いている。「首が飛んだって話ですよね」 
    「そうそう」 
    その事故は、帰宅ラッシュが終わったあとの市内の駅で起こったのだそうだ。
    構内を通過する貨物列車に男性がいきなり飛び込み、跳ねられて死亡したという事故だ。 
    自殺だったそうだが、その時構内には次の便を待つ客が数人おり、その人たちに決定的瞬間が目撃されたのだという。 
    そしてその、人間が跳ねられて死亡する瞬間を見た人の話が、気味の悪い噂話となってこの街を駆け巡ったらしい。 
    「男の首がな。激突の衝撃で根元からぶっ千切れて、ぽーんと宙を飛んだんだって。
    それがホームのキオスクのあたりに落ちて、近くにいた人がパニックになって腰を抜かした。 
    ここまでは新聞報道もされた本当の話」 
    な? と師匠は隣人に問い掛ける。「ええ。確かそうでした。自殺の原因は、職にあぶれて自暴自棄になっての咄嗟的行動だったとか」 
    「ああ。そこまではただのショッキングな死亡事故の話だ。でもここからが怪談じみてくるんだ。
    その飛んだ生首だけど、目撃した人の話だと、目が合ったって言うんだよ」 
    男の首は目を見開き、恐怖が張り付いたような表情をして何ごとか訴えるようだったという。 
    その口は叫び声のために開かれていたが、なんの言葉も発していなかった。肺から供給される空気の道が断たれたからだった。 
    「目が合ったって人の話では、まだその時点で男は死んでなかったんじゃないかって言うんだ。
    たしかに、首が飛んでもほんの数秒なら脳は生きているだろう。 
    瞬間に失神していない限り、意識もあるかも知れない。
    その胴体から離れた頭部が、最後の瞬間に自分と目が合い、そしてその目が合ったことを認識していたのかも知れない。 
    声にならない叫びは、自分に向けられたのかも知れない。いったいなにを叫ぼうとしていたのか…… と、こういう話だ」 

    79 テレビ ◆oJUBn2VTGE ウニ New! 2013/01/26(土) 22:32:44.62 ID:Zc2Cu2zX0
    「私が知り合いから聞いた話では、その事故に遭遇した夜に一人で寝ていると物凄い叫び声が部屋の中に響いて、驚いて飛び起きても周りに誰もいない。 
    怖くてその夜は家族と同じ部屋で寝たんですが、次の日に一人で寝ているとまた叫び声で目が覚める。 
    いったい、自分が叫んでいるのか、それともここにはいないはずのだれかが叫んでいるのか…… そして何を叫んでいるのかも最後まで分からない。
    それでノイローゼになってしまった、ということでした」 
    「それは知り合いが体験した話?」 
    「いえ、友だちから聞いたと言っていました」 
    「フレンド・オブ・フレンドだな。典型的な怪談話だ。
    当時めちゃくちゃこの噂が流行ってて、猫も杓子もみんな『知り合いから聞いた話だけど』って言って広めてたな。 
    わたしも気になってこの話を片っ端から蒐集したんだよ。
    この生首と目が合った後のパターンは決まってて、さっきの叫び声で目が覚めるってのがテンプレートだ。 
    他にもゴミ箱みたいな人間が入り込めないくらい狭い場所から誰かに呼びかけられるってパターンとか、直接その男の生首が部屋の窓の外に現れてパクパク口を動かしてるんだけど、 
    ガラス越しだから聞こえないって話もごく少数だけどあった。バリエーションだな、いずれにしても、みんな実際にあったその事故を目撃してから怪現象に襲われるっていう筋だ」 
    なるほど。そう言えば大学に入ってからもどこかでこの話を聞いたことがあるような気がする。 
    「まあ、生首と目が合うっていうインパクトありきで生まれる噂話なんだろうが、当然『友だちから聞いた』、『知り合いから聞いた』っていう話の元を辿っていっても、 
    その友だちも実は別の友だちから聞いたって言いだして、結局実際の体験者には辿り着けない。……ところがだ」 
    師匠はそこで言葉を切り、空になったそうめんの器をチンチンと箸で叩いた。 
    「仮に、その知り合いの話、友だちの話がすべて本当だったとして考えてみると、こういうことになる」 
    師匠は部屋にあった目玉のオヤジのぬいぐるみを手に持って、空中に浮かばせる。 
    「事故が起こったのは、帰宅ラッシュも終わり、ホームに客が少なくなった時間帯だった。その乗車口近くにいたのは数人だったと思われる。 
    そこでその中の一人が線路内に飛び出し、通過する貨物列車に跳ね飛ばされる。千切れ飛んだ生首の視線を再現すると、こうだ」 

    80 テレビ ◆oJUBn2VTGE ウニ New! 2013/01/26(土) 22:36:06.79 ID:Zc2Cu2zX0
    目玉のオヤジの目の上に鉛筆を立てて空中を横切らせる。 
    「視界自体は傘のように広がってるけど、目が合うという状況は視界の正面でなくてはならない。つまり線だ。 
    この線の上にたまたま他の人の目があったわけだが、人もまばらなホームで首が宙を飛んだ一瞬に視線と視線が合うという偶然自体がなかなか起こりえないことだ。いて一人だね。 
    ホームで横にずらっと客が並んでたら別だが、もちろんそんなことはない。ということは、どういうことだ?」 
    話を振られて、僕と隣人は顔を見合わせる。 
    「だから、その運の悪い一人と目が合ったんでしょ」 
    「そうだ。そして生首と目が合った人は、その夜に怪奇現象に襲われる。それが続くストレスでノイローゼになってしまう。 
    だけど、その怪奇現象自体がそもそも人身事故を目撃するというショキングな体験をしてしまったことによるストレスが引き起こしたとも考えられる。
    ありえる話だろう。おかしなことじゃない。 
    おかしいのは、その生首と目が合ってしまった人物が、大島の知り合いの友だちであり、大学生の川村君の友だちであり、小学生のみゆきちゃんの友だちであり、主婦の麻子さんの友だちであり、 
    ゲートボール愛好会の政吉じいさんの友だちであり、アフリカからの留学生のバラク君の友だちであるということだ」 
    なぜか、ぞくりとした。 
    今出た名前はすべて師匠が蒐集した噂話の話し手なのだろう。なんだかほのぼのとした顔ばかり浮かぶが、その分余計に気味が悪いような気がした。 
    「年齢や、属している社会にもまったく接点のない不特定多数の人々と、共通の友人であるその誰かは、自分自身には名前がない。 
    ただ彼らの知り合い、友だちである、というパーソナリティしかない。そして貨物車に跳ねられ、即死したはずの人の生首と、目が合ったという。
    その誰かの方が、よほど妖怪的ななにかだと思うね」 
    師匠は鍋からそうめんのおかわりを器に取り分けながら、そう言った。 
    「気持ちが悪いですね」 
    僕がそう言うと、隣人も頷いている。 
    それからさらに師匠は人身事故にまつわる怪談話をいくつか披露して、そのあい間あい間にそうめんを食べ続けた。 
    テレビはニュースのあと視聴率の低そうな情報番組に変わり、僕らはそれを惰性で見ていた。 

    81 テレビ ◆oJUBn2VTGE ウニ New! 2013/01/26(土) 22:38:34.86 ID:Zc2Cu2zX0
    主婦の体験談を再現したVTRがだらだらと流れていて、その中で夫の浮気現場を目撃してしまったというシーンが映し出された時に師匠が「あ」と言った。 
    自宅の一室の襖を主婦が開けようとする場面だ。その中では夫と浮気相手が大変なことになっていた、という話だが、師匠はその襖を開けるところに反応していた。 
    「最近考えたんだけど、襖ってさ、両開きだとこう両手の指をさし入れて左右に引くよな」 
    師匠は起き上がって目の前に両手を出し、それを動きで示す。両肘を張って、丁度目の高さに手のひらが鉤を作っている。 
    「普通はもっと低い位置でしょ。膝のあたりで開かないですか。そんな力の入った位置だとまるでホラーですよ」 
    「そのホラーの話をしてるんだよ」 
    ああ。それならよくそんなシーンを見る気がする。閉じていた襖が少し開いて、その奥からギョロリとした目が覗く、というやつだ。 
    ベタだが、日本家屋の持つ独特の暗さと雰囲気を再現できていれば、なかなか怖くなる場面だ。 
    「それをもっと怖くできないかと思ってな。色々考えたんだ。まずこれ」 
    師匠はさっきと同じ両肘を張ったポーズをとる。 
    「襖を左右に開こうと指を入れた場合、当然親指は下を向いている」 
    その通りだ。片方の襖を開ける場合は、右手で左側の襖を左に開くこともあるので親指は上を向いていることもあるが、両方を同時に開く場合は必ず下向きだ。 
    「そこで、部屋の外、襖の裏側の左右にさらに二人の人間をそれぞれ配置する。
    そして襖に腹をつける形で、部屋の外から見て右側の人間が左手を、左側の人間が右手を伸ばして襖の隙間に指を入れる。 
    部屋の中から見たら、襖が左右にゆっくりと開いていき、その奥からは目玉がギョロリ、というシーンだけど、指の形がおかしい。 
    親指が上を向いているんだから、左右の手がまるで入れ替わっているような錯覚に陥るんだ。 
    もちろん手を胸の前でクロスさせて襖を開ければ一人でも同じことができるけど、もちろんゆっくりと開いていく襖の間には、そんな腕の交差は見えない。
    ……こわっ」 
    師匠はそんな一人芝居をしていたが、親指の向きがおかしいなんて、よほど気をつけていないと気がつかないんじゃないだろうか。 
    そんなことを指摘すると、「じゃあその二だ」と言って、また最初の両肘を張ったポーズを取った。 

    82 テレビ ◆oJUBn2VTGE ウニ New! 2013/01/26(土) 22:41:33.52 ID:Zc2Cu2zX0
    「今度はこの形を三人で再現する。さっきと同じように部屋の中からは見えない位置の襖の裏側に二人の人間を配置する。
    で、今度は背中を襖につけた状態で腕を伸ばす。 
    すると逆手(さかて)で襖に指をさし入れることになる。真ん中に立っている人間が襖を開けようとするのと同じ指の形だ。
    でも目玉を覗かせる役と、手の持ち主が別だから、気持ちの悪いことができる」 
    師匠は僕を立たせて、ギョロ目役だ、と言ったあと、自分は僕の方を向いたまま右横に立って片手を伸ばす。 
    ちょうど僕の胸のあたりに右手の指が来ている。「すー」と言いながらその指を自分の方に引き、「そら、開いたぞ、目だ」と合図した。 
    僕はカッと目を見開いて、小島だか中島だか大島だかという名前の隣人の方を睨みつけた。心なしかびくりとしたようだった。 
    すると次の瞬間、師匠はその格好のままストンとその場にしゃがみ込んだ。腕は伸び、指は鉤を作ったまま床の上に落ちている。 
    「部屋の中からはどう見える」 
    「顔が同じ位置で目を見開いたまま、腕だけが下に落ちています」 
    襖がそこにあるという前提の元に隣人が答えた。 
    なるほど、開ききっていない襖の裏側でそんなトリックを使われているとは思いもしない人なら、相当驚くだろう。 
    人体の構造上、ありえない動きだからだ。もちろん襖から覗く顔と手が同じ人物のものだとしてだ。 
    「三人じゃなく、二人でもできるな。片方の手だけが他人のものだとしても、色々脅かすバリエーションができそうだ。両方右手とかな」 
    そう言ってニヤニヤしている。こういう悪だくみをさせたら本当に生き生きしてくるので、面白い人だ。 
    そんな微笑ましい気持ちでいると、師匠はこちらを向いてまた両肘を張ったポーズを取った。 
    「おい。タネを知ったからって安心してるなよ。わたしが死んだら、これを逆手に取って、トリックと思わせておいて実はホンモノ、っていう出方をしてやるからな」 
    覚悟しとけ。 
    底意地の悪そうな顔で僕らの顔を順に見る。 
    「ちょっと待って下さい。手が落ちるとかそれ以前に、死んでるんですよね? 襖から顔が出た時点で幽霊なんですけど」 
    僕の指摘に、腕組みをして唸り始める。 
    「出た時点で幽霊か」 
    「幽霊です」 
    「なんの工夫もないのに、幽霊だというだけで驚くかな」 
    「驚きますね」 

    83 テレビ ラスト◆oJUBn2VTGE ウニ New!2013/01/26(土) 22:43:20.00ID:Zc2Cu2zX0
    僕らの会話を隣人が面白そうに聞いている。 
    「ていうか死なないでください」 
    最後に僕がそう突っ込むと、師匠はふっ、と息を吐いてぽつりと言った。 
    「死んだあとの方が面白そうだ」 
    その言葉を聞いた瞬間、僕の足元から頭の先へ、とても嫌なものが走り抜けた。 
    後悔であり、悲しみであり、自分がただの石ころになったような無力さでもあった。 
    僕はその場に座り込んでしまいそうな脱力感と闘いながら、この人と初めて会った時のことを思い出していた。 
    喧噪の残る夜の街を、無数の霊をつれてただ歩いていた。
    寒気のするような、そしてどこか幻想的な光景。その時の彼女の目には、周囲のすべてがまったく映っていなかった。 
    いや、少し違う。 
    映っているものすべてに等しく価値がない。 
    そういう目をしていた。 
    時おり現れる、彼女のそういう眼差しを見るたび僕はどうしようもなくつらい気持ちになる。 
    彼女がふと我に返ったかのようにその表情を無くす時、彼女と僕らのいる世界がとてもか細い繋がりしか持たなくなるような気がするのだ。 
    なにか面白いことを言わなくてはならない。楽しいことを言わなくてはならない。怖いことを言わなくてはならない。 
    早く。 
    そうして僕は、強張った口を開く。 
    何と言ったのか、もう覚えていない。きっとくだらないことだったのだろう。 
    師匠はそんな僕ににこりと笑って、「ユタって知ってるか」と言った。 
    知っている。現代に残る、シャーマンの一種だ。 
    「殯(もがり)の島でな、ユタのばあさんに言われたんだ。ちょうど島を出る時に。たった一言。知らない言葉だった。
    ただ、ののしられていた、ということだけは分かった。 
    忌まわしいものを見るような、落ち窪んだ目の奥の光を今でも覚えている」 
    「なんて、言われたんですか」 
    師匠はふふん、という表情で「ぐそうむどい」と言った。

    1 祖母のこと  ◆oJUBn2VTGE ウニNew! 2013/01/19(土) 23:11:03.32 ID:ClDTjW9z0
    師匠から聞いた話だ。 



    その女性は五十代の半ばに見えた。 
    カーキ色の上着にスカート。特にアクセサリーの類は身につけておらず、質素な装いと言っていい。 
    「こんなお話、していいのか…… ごめんなさいね。でも聞いていただきたいんです」 
    癖なのか、女性は短くまとめた髪を右手で押さえ、話しにくそうに口を開く。 
    大学一回生の冬。バイト先である、小川調査事務所でのことだ。 
    僕と、そのオカルト道の師匠であるところの加奈子さんは二人並んで依頼人の話を聞いていた。 
    だいたい、うちの事務所に相談に来る依頼人は、興信所の中では電話帳で割と前の方に出てくるという理由でとりあえず電話したという場合か、 
    あるいは他の興信所で相手をしてくれなかった変な依頼ごとを持っているか、そのどちらかだった。 
    今回はその後者のようだ。 
    「あのう…… 実は私の祖母のことなんです」 
    来客用のテーブルを挟んで僕らと向かい合ったその女性は、出されたお茶も目に入らない様子で、うつむき加減におずおずと話し始めた。 

    ◆ 

    女性は名前を川添頼子といった。 
    頼子さんは昔、小学校に上がる少し前に今の川添の家に養女としてもらわれて来たという。 
    実の両親のうち母親が亡くなってから、残された父親は小さな女の子の養育を放棄し、かつての学友の遠い縁をたよって養女に出したのだった。 
    実の父や母の記憶はほとんどない。ただ自分がいつも泣いていたような、おぼろげな記憶があるばかりだった。 
    川添家の養父と養母には子どもがなく、まるで自分たちの子どものように可愛がってくれた。
    けして裕福な家ではなかったが、学校や習いごとなどは他の子と同じように行かせてくれた。 
    初めて人並みの人生を歩むことを許されたのだった。 

    29 祖母のこと  ◆oJUBn2VTGE ウニNew! 2013/01/19(土) 23:14:00.16 ID:ClDTjW9z0
    その養父と養母がこの一年の間に相次いで亡くなり、一どきは深い悲しみに包まれたが、やがて落ち着いてその二人に育てられた日々を思い返し、頼子さんはたとえようもない感謝の気持ちを胸一杯に抱いた。 
    そうして、このごろは昔のことを思い返すことが増えたという。 
    特に養女としてもらわれて来る前の生活のことを。年を取った証だと夫はからかったが、次第に大きくなっていく過去への慕情を押さえられなくなっていった。 
    ある日思い立ち、自分の実の父のことを調べ始めた。しかしやはり父はもう他界していた。
    もし生きていれば九十に届こうかという年齢だったので仕方のないことだった。 
    自分の五十数年の人生を思い、それだけの年月が過ぎていることが今さらながらに身に染みた。 
    そして顔もおぼろげなその父のことよりも強い輝きを持って思い出されるのが、祖母のことだった。 
    父方の祖母だったのか、母方の祖母だったのかそれさえはっきりしないのだったが、優しげな顔や、膝の上に抱いてもらった時の服の匂い。 
    そして皺だらけの手で頭を撫でてもらったその感触が、懐かしく思い出された。 
    両親にかまってもらえなかった頼子さんは、よく歩いて祖母の家に遊びに行ったという。 
    どういう道をたどって行ったのか、今ではそれも忘れてしまったが、ただ覚えているのは祖母の家の小さな縁側に両手をかけて祖母の名を呼んだこと。
    そしてしばらく待っていると、ゆっくりと板戸が開き、祖母がにっこり笑って顔を覗かせたあの柔らかな時間だった。 
    祖母はその小さな家に一人で住んでいた。祖母もまた孤独だったのか、その来訪をとても喜んでくれたものだった。
    祖母との記憶は断片断片ではあったが、なにげない日常のふとした瞬間に前触れもなく蘇った。 
    例えば夜中に寝付けず、布団の中でふと目を開けた時に。例えば雑踏の中、信号機が赤から青に変わる瞬間に。
    そんな時、自分がとても幸せな気持ちになるのが分かった。 
    そしてどんなに懐かしく思っても、もう会えないのだということを思い出し、少し悲しくなったりするのだった。 
    ある日、そんな祖母との思い出の中に、一つの恐ろしい記憶が混ざっていることに気がついた。 
    ずっと忘れていた記憶。 

    30 祖母のこと  ◆oJUBn2VTGE ウニNew! 2013/01/19(土) 23:19:44.34 ID:ClDTjW9z0
    養女に出され、全く変わってしまった生活の中で少しずつ忘れていった他の記憶とは異なる。
    自分から進んで頭の中の硬い殻に閉じ込めた、その気味の悪い出来事…… 
    頼子さんはそのことを思い出してから、毎日悩んだ。祖母のことを懐かしく思い出していても、いつの間にか場面はその恐ろしい出来事に変わっている。 
    そんな時、心臓に小さな針を落とされたようななんともいえない嫌な気持ちになるのだった。 
    それは祖母の通夜のことだ。 
    いつも一人で歩いた道を、父と母に連れられて行く。二人の顔を見上げている自分。暗い表情。とても嫌な感じ。なにか話しかけたような。
    答えがあったのか、それも忘れてしまった。 
    そして祖母の部屋に座っている自分。狭い部屋にたくさんの人。黒い服を着た大人たち。
    確かに祖母の部屋なのに、見慣れたちゃぶ台が、衣装掛けが、見えない。 
    その代わり、見たこともない祭壇があり、艶やかな灯篭があり、大きな花があり、棺おけがある。 
    母が言う。 
    お祖母ちゃんは死んだのよ。 
    通夜だった。初めての。初めての、人の死。怖かった。
    よく分からない死というものがではなく、黒い服を着た大人たちがぼそぼそと喋るその小さな声が。節目がちな顔が。その部屋の息苦しさが。 
    畳の目に沿って、爪を差し入れ、引く。俯いてそのことを繰り返していた。やがて父と母に手を引かれ、棺おけのそばににじり寄る。
    箱から変な匂いのする粉を摘んで、別の箱に入れる。煙が立ち、匂いが強くなる。 
    棺おけの蓋は開いていて、両親とともにその中を見る。白い花がたくさん入っている。その中に埋もれて、同じくらい白い顔がある。 
    見たことのない顔だった。 
    お祖母ちゃんにお別れを言うのよ。 
    母がそう言う。 
    お別れ? 
    どうして。 
    首を傾げる。 
    お祖母ちゃんはどこにいるのだろう。
    横を見ると、父が薄っすらと涙を浮かべている。 
    なんだか怖くなった。 
    そう思うと膝が震え始める。 

    31 祖母のこと  ◆oJUBn2VTGE ウニNew! 2013/01/19(土) 23:21:42.19 ID:ClDTjW9z0
    怖い。怖くてたまらない。 
    この人は誰だろう。花に囲まれたこの人は。 
    大人たちが入れ替わり立ち替わり粉を落とし、こうべを垂れ、花を入れ、小さな言葉を掛けていくこの人は。 
    怖くて後ずさりをする。 
    涙を浮かべながら、みんな誰に挨拶をしているのだろう。 
    座っていた誰かの膝につまずき、仰向けに転がる。 
    見上げる先に、染みのような木目が長く伸びた天井があった。祖母の部屋の天井だ。 
    その隅に、白い紙が貼られている。 
    そこに気持ちの悪い文字が書かれていた。漢字だ。その、絡まりあった黒い線の一本一本がぐにゃぐにゃと動いているような気がした。 
    怖かった。 
    どうしようもなく怖かった。 
    なにもかも、忘れてしまいたくなるくらいに。 

    ◆ 

    依頼人は俯いてそっと息を吐いた。まるで凍えているような口元の動きだった。 
    話が終わったことを確認するためか、師匠はたっぷり時間を開けてから口を開いた。 
    「お祖母ちゃんではなかったと?」 
    「はい」 
    声が震えている。 
    「棺おけの中にいたのは、祖母ではありませんでした」 
    「そんな」 
    僕は絶句してしまった。 
    それでは、一体誰の通夜だったのだ。
    「お祖母ちゃんではなかったというのは、確かですか。つまり、その、死んだ人を見たのは初めてだったのでしょう。
    死因にもよりますが、死後には生前の顔と全く違って見えることもあります。 
    死化粧というものもあります。そのため、まるで別人に見えてしまったのではないですか」 
    そういう師匠の言葉に、頼子さんは頭を振った。 
    「いえ。同じくらいの年齢のお年寄りではありましたが、確かに祖母ではありませんでした。今でも白い花に囲まれた顔が瞼の裏に浮かびます」 

    32 祖母のこと  ◆oJUBn2VTGE ウニNew! 2013/01/19(土) 23:23:37.79 ID:ClDTjW9z0
    「しかし、あなたは大好きだったお祖母ちゃんの死を認めることが出来ず、別人だと思い込んだのではないですか。
    そうした思い込みは小さな子どもならありうることでしょう。 
    まして、ずっと忘れていたような遠い記憶なら……」 
    なおも慎重に訊ねる師匠に、頼子さんはまた頭を振るのだった。 
    「祖母の右の眉の付け根には、大きなイボがありました。私はそれが気になって、何度も触らせてもらった記憶があります。 
    しかしその日、棺おけの中にいた人の顔にはそれがありませんでした。もちろんそのことだけではありません。本当に全くの別人だったのです」 
    きっぱりとしたそう言いながら胸を張る。しかし次の瞬間には目が頼りなく泳ぎ、怯えた表情が一面に広がった。
    それでは、一体どういうことになるのだ。親戚がお祖母ちゃんの家に集まり、お祖母ちゃんの通夜と偽って全くの別人を弔っていたというのか。 
    その状況を想像し、僕は薄気味悪くなる。いや、そんな生易しい感覚ではなかった。はっきりと、忌まわしい、とすら思った。 
    「……」 
    師匠は首を傾げながら、なにごとか考え込んでいる。 
    「それでは、ご依頼の内容というのは?」 
    代わりに僕はそう訊ねる。 
    「ええ」と頼子さんは顔を上げた。 
    「その時起きたことを調べて欲しいのです。その出来事のあと、私は祖母と会った記憶がありません。いったい祖母はどうしてしまったのか? 
     それから、その通夜の日、祖母の代わりに棺おけに入っていた死人が誰なのか」 
    祖母の家はもうずっと以前に取り壊され、そのあたりは道路になってしまっていた。 
    そして頼子さんはついこの間、当時のことを知っている親戚をようやく探し当てたという。 
    しかし耳も遠くなっていたその親戚は、せつ子さんの通夜におかしなことはなかったと繰り返すだけだった。 
    「私がお祖母ちゃんと呼んでいたその人が、父の祖母にあたる人だったと、今ごろ知ったんです。つまり正しくは私の曾祖母ですね。
    そう言えば、せつ子という名前さえ知らなかったのですよ。 
    いつもただお祖母ちゃんとだけ、そればかり……」 
    また視線を落とし、頬を強張らせる。

    33 祖母のこと  ◆oJUBn2VTGE ウニNew! 2013/01/19(土) 23:25:21.64 ID:ClDTjW9z0
    事務所の中に、沈黙がしばし訪れた。遠くで廃品回収のスピーカーの音が聞える。 
    師匠が口を開く。 
    「その、天井に貼ってあったという紙ですが、なんという文字が書かれていたのですか」 
    「はい。ええ。それが、はっきりとはしないんですが。私はなにしろまだそのころ小学校にも上がっていない年でしたので。ただ……」 
    口ごもった頼子さんを師匠が促す。「ただ、なんです」 
    「ええ。それが、その、霊という文字だったと」 
    「霊?」 
    「はい。幽霊とか、霊魂とかの、霊です」 
    少し恥ずかしそうにそう言った。しかしその顔には得体の知れないものに対する畏怖の感情も同時に張り付いている。 
    「霊?」 
    師匠は眉をひそめた。 
    僕もまた、なんだか気味の悪い感覚に襲われる。霊とは。その場に相応しいようで、またずれているようで。
    いったいなんなのだろうか、その天井に貼られた文字は。 
    「その文字ですが、もしかしてその日だけではなく、いつも貼られていたのではないですか」 
    師匠が不思議なことを訊く。 
    いつも? いつも天井にそんな霊などという文字が貼られていたというのか。 
    「いえ。どうでしょうか。そう言われてみると」 
    頼子さんは驚いた顔をしながら記憶を辿るように視線を彷徨わせる。そしてハッと目を見開き、「あった、かも知れません」と言った。 
    「どうしたのかしら、私。そうだわ。祖母に尋ねたことがあった。この紙はなに? この紙は。この紙はね。この紙は」 
    頼子さんは独り言のようにその言葉を繰り返す。 
    「川添さん。もう一つ確認したいことがあります。その通夜のあった部屋は、確かにお祖母ちゃんの部屋でしたか」 
    「ええ。それは間違いないと思います」 
    「お祖母ちゃんは小さな家に一人で住んでいたとおっしゃっていましたが、その家は平屋でしたか。それとも二階建てでしたか」 
    「ええと、それは」 
    頼子さんは自信のなさそうな顔になる。はっきり思い出せないようだ。 

    34 祖母のこと  ◆oJUBn2VTGE ウニNew! 2013/01/19(土) 23:28:15.85 ID:ClDTjW9z0
    「あなたがいつも縁側から訪ねていったという部屋ですが、そこで通夜が行われたのですよね。その部屋の他に、どんな部屋がありましたか」 
    「あの、ええと」 
    不安げな表情のまま、頼子さんは必死に記憶を辿ろうとしている。 
    「他の部屋は…… 覚えがありません。いつも祖母はその部屋にいました。私もそこにしか行ったことが……」 
    そうしてまた口ごもる。 
    その様子をじっと見つめながら、師匠はふっ、と小さく息をついた。 
    「川添さん。あなたのご依頼である、その奇妙な通夜のあと姿が見えなくなったというお祖母ちゃんがいったいどうしてしまったのか、という点についてはお答えできる材料がありません。
    ですが、お祖母ちゃんの代わりに棺おけに入っていた死者が誰なのか、ということについてはお答えできると思います」 
    「え」 
    僕と、頼子さんは同じように驚いた声を上げる。そして師匠の顔を見る。 
    「その前に、天井に貼ってあったという紙の文字について見解を述べます。それは『霊』という文字ではありません。 
    小さな子どもには見分けられなくても仕方がないでしょう。『霊』と良く似た漢字。『雲』です」 
    くも? 
    どうしてそんなことが断言できるのか。意味が分からず、狐につままれたような気分だった。 
    「その部屋には神棚があったはずです。ご存知かと思いますが、神棚は一番高いところに設置されるものです。
    出来るだけ天井近くに。そしてそれだけではなく、その建物の最上階に設置されるべきものなのです。 
    もし最上階に設置できない場合、そこが天に近いということを表すため『雲板』と呼ばれる板を神棚の上部に飾ります。 
    雲をかたどった意匠を施してある板です。あるいは、『雲文字』と呼ばれる文字を天井に貼るのです。 
    『天』や『雲』などと書いた紙を天井に貼ることで、その部屋が天に近い場所であるということを表すのです。 
    これらは古い習慣ですが、今でもまれに見ることができます。その通夜があったのは、五十年近くも前のことです。
    まだそうした習慣が色濃く残っていた時期でしょう」 

    35 祖母のこと  ◆oJUBn2VTGE ウニNew! 2013/01/19(土) 23:33:37.54 ID:ClDTjW9z0
    師匠が言葉を切って依頼人の方を見る。 
    頼子さんは「雲」と呟いて、どこか遠くを見るような顔をしている。 
    「そしてそれは、お祖母ちゃんの部屋がその家の最上階にはなかったことを示しています。
    小さいころの川添さんが縁側から訪ねたという部屋は一階にあったことは疑いありません。 
    しかし、その家は平屋ではありませんでした。なぜなら、『雲文字』を天井に貼らなくてはならなかったからです。つまり二階部分があったのです。
    なのに神棚は一階の部屋に設置されていた。 
    家の、もっとも高い場所に置くべきものが、です。ここから想像できることは、こうです。『お祖母ちゃんはその家の間借り人だった』」 
    だから、神棚を一番高い場所に置きたくても、家の人間ではなかったお祖母ちゃんは一階の間借りしている部屋に置くしかなかった。 
    師匠は淡々とそう語った。 
    「その家にはお祖母ちゃん以外に、他の住人がいたのです。あなたが記憶していなくても。
    お祖母ちゃんの代わりに棺おけに入っていた死者が誰なのか、もうお分かりですね。 
    いえ、正確にはあなたが『おばあちゃん』と呼んでいた人物の代わりに、棺おけに入っていた人のことです。 
    せつ子さん、とおっしゃいましたか。お父さんの祖母、あなたにとっては曾祖母にあたる女性。
    棺おけに横たわり、残された親類や親しかった人々に死に顔を見てもらっていたのは、その人です」 
    頼子さんは目を見開いた。そして口が利けないかのように喉元が震えている。 
    「あなたがただ、おばあちゃん、と呼んでいた、名前も知らなかった女性は、もちろん曾祖母のせつ子さんではありません。 
    またあなたの祖母にあたる人でもなかった可能性が高いと思います。ひょっとすると、全くの他人だったかも知れません。 
    ただ本当の曾祖母の家の一部屋を間借りしていたというだけの…… 先に断ったとおり、そのおばあさんがどこに行ったのかは分かりません。 
    せつ子さんの通夜の日、間借りしていた部屋がすっかり片付けられ、たくさんの弔問客を受け入れていたことを考えると、
    おばあさんはその時すでにもう家から引っ越したあとだったのかも知れません。 
    病院か、別の借家か。あるいは……」
    そう言って師匠はそっと指を天に向けた。 

    36 祖母のこと ラスト  ◆oJUBn2VTGEウニ New! 2013/01/19(土) 23:36:15.74ID:ClDTjW9z0
    「古い話ですし、全くの他人であった場合、どこに行かれたのかを調べるのは難しいでしょう。満足の行く調査結果を出すことはできないかも知れません。それでも、私に依頼をされますか」 
    静かにそう告げる師匠に、頼子さんは戸惑いながら膝の上に置いたハンドバックを触っていた。
    その手のひらが、やがてしっかりと握られ、ハンドバックの上で静止する。
    かすかに上ずった声が、唇からこぼれた。 
    「私にとって、祖母はその人です。縁側の戸を開けて、いつも私に微笑みかけてくれた、優しいおばあさん。
    例え名前も知らない、赤の他人だったとしても」 
    そこで言葉を切り、ゆっくりと口の中で咀嚼してから頼子さんが発したのは、とても穏やかな声だった。 
    「私たちは、ひとりぼっちを持ち寄って、それでもひとときの幸せを共有していたのだと思います」 
    そうして依頼人は、「お願いします」と頭を下げた。 

    (完) 

    空を歩く男  ◆oJUBn2VTGE sage 2012/09/01(土) 23:03:50.75 ID:itFWmvQ50
    (この話は、2011年の夏コミの時に、別サークルの同人誌に寄稿したものです) 


    師匠から聞いた話だ。 


    大学一回生の春だった。 
    そのころ僕は、同じ大学の先輩だったある女性につきまとっていた。もちろんストーカーとしてではない。 
    初めて街なかで見かけたとき、彼女は無数の霊を連れて歩いていた。
    子どもの頃から霊感が強く、様々な恐ろしい体験をしてきた僕でも、その超然とした姿には真似の出来ない底知れないものを感じた。 
    そしてほどなくして大学のキャンパスで彼女と再会したときに、僕の大学生活が、いや、人生が決まったと言っても過言ではなかった。
    しかし言葉を交わしたはずの僕のことは、全く覚えてはいなかったのだが。 
    『どこかで見たような幽霊だな』 
    顔を見ながら、そんなことを言われたものだった。 
    そして、綿が水を吸うように、気がつくと僕は彼女の撒き散らす独特の、そして強烈な個性に、思想に、思考に、そして無軌道な行動に心酔していた。 
    いや、心酔というと少し違うかも知れない。ある意味で、僕の、すべてだった。 
    師匠と呼んでつきまとっていたその彼女に、ある日こんなことを言われた。 
    「空を歩く男を見てこい」 
    そらをあるくおとこ? 
    一瞬きょとんとした。そんな映画をやっていただろうか。いや、師匠の言うことだ。なにか怪談じみた話に違いない。 
    その空を歩く男とやらを見つければいいのか。 
    「どこに行けばいいんですか」と訊いてみたが、答えてくれない。なにかのテストのような気がした。ヒントはもらえないということか。 
    「わかりました」 
    そう言って街に出たものの、全く心当たりはなかった。 
    空を歩く男、というその名前だけでたどりつけるということは、そんな噂や怪談話がある程度は知られているということだろう。 
    正式な配属はまだだが、すでに出入りしていた大学の研究室で訊き込みをしてみた。 

    669 空を歩く男  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2012/09/01(土) 23:06:25.24 ID:itFWmvQ50
    地元出身者が多くないこの大学で、同じ一回生に訊いても駄目だ。
    地元出身ではなくとも、何年もこの土地に住んでいる先輩たちならば、そんな噂を聞き及んでいるかも知れない。 
    「空を歩く男、ねえ」 
    何人かの先輩をつかまえたが、成果はあまり芳しくなった。
    なにかそんな名前の怪談を聞いたことがある、というその程度だった。内容までは分からない。 
    所属していたサークルにも顔を出してみたが、やはり結果は似たりよったりだった。 
    さっそく行き詰った僕は思案した。 
    空を歩く、ということは空を飛ぶ類の幽霊や妖怪とは少しニュアンスが違う。しかも男、というからには人間型だ。
    他の化け物じみた容姿が伴っているなら、その特徴が名前にも現れているはずだからだ。 
    想像する。 
    直立で、なにもない宙空を進む男。 
    それは、なにか害をもたらすことで恐れられているようなものではなく、ただこの世の理のなかでは
    ありえない様に対してつけられた畏怖の象徴としての名前。 
    空を歩く男か。 
    それはどこに行けば見られるのだろう。空を見上げて、街じゅうを歩けばいつかは出会えるのだろうか。 
    近い怪談はある。例えば部屋の窓の外に人間の顔があって、ニタニタ笑っている。あるいはなにごとか訴えている。 
    しかしそこは二階や三階の高い窓で、下に足場など無く、人間の顔がそんな場所あっていいはずがなかった、というもの。 
    かなりメジャーで、類例の多い怪談だ。 
    しかし、空を歩く男、という名前の響きからは、なにか別の要素を感じるのだ。 
    結果的に空を歩いていたとしか思えない、というものではなく、空を歩いている、というまさにその瞬間をとらえたような直接的な感じがする。 
    ………… 
    そらをあるくおとこ。 
    そんな言葉をつぶやきながら、数日間を悶々として過ごした。 

                ◆ 

    「知ってるやつがいたよ」 
    と教えてくれたのは、サークルの先輩だった。同じ研究室に、たまたまその話を知っている後輩がいたらしい。 

    670 空を歩く男  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2012/09/01(土) 23:09:40.92 ID:itFWmvQ50
    さっそく勢いこんで研究室に乗り込んだ。 
    「ああ、空を歩く男ですよね」 
    「知ってる知ってる」 
    僕と同じ一回生の女の子だった。それも二人も。どちらも地元出身で、しかも市内の実家に今も住んでいるらしい。 
    優秀なのだろう。うちの大学の学生で、地元出身の女性はたいてい頭がいいと相場決まっている。
    女の子だと、親があまり遠くにやりたくないと、近場の大学を受けさせる傾向がある。 
    その場合、本来もう少し高い偏差値の大学を狙えても、地元を優先するというパターンが多い。
    そんな子ばかりが来ているのだ。つまりワンランク上の偏差値の頭を持っている子が多いということになる。 
    「なんだっけ。幸町の方だったよね」 
    「そうそう。うちの高校、見たって子がいた」 
    「高校に出るんですか」 
    「違う違う。幸町だって。高校の同級生がそのあたりで見たの」 
    バカを見る眼で見られた。説明の仕方にも問題がある気がするのだが。 
    とにかく聞いた話を総合すると、このようになる。

    『空を歩く男』はとある繁華街で、夜にだけ見られる。 
    なにげなく夜空を見上げていると、ビルに囲まれた狭い空の上に人影が見えるのだ。 
    おや、と目を凝らすとどうやらその人影は動いている。商店のアドバルーンなどではない。ちゃんと、足を動かして歩いているのだ。 
    しかしその人影のいる位置は周囲のビルよりさらに高い。ビルの間に張られたロープで綱渡りしているわけでもなさそうだった。 
    やがてその人影はゆっくりと虚空を進み続け、ビルの上に消えて見えなくなってしまった。明らかにこの世のものではない。 
    その空を歩く男を見てしまった人には呪いがかかり、その後、高いところから落ちて怪我をしたり、
    もしくは高いところから落ちてきたものが頭に当たったりして怪我をするのだという。 
    「その見たっていう同級生も怪我をした?」 
    「さあ。どうだったかなあ」 
    首を捻っている。 
    どうやら最後の呪い云々は怪談につきもののオマケようなものか。 

    671 空を歩く男  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2012/09/01(土) 23:11:05.06 ID:itFWmvQ50
    伝え聞いた人が誰かに話すとき、そういう怪異があるということだけでは物足りないと思えば、大した良心の呵責もなく、
    ほんのサービス精神でそんな部分を付け足してしまうものだ。 
    ツタンカーメン王の墓を暴いた調査隊のメンバーが次々と怪死を遂げたという『ファラオの呪い』は有名だが、
    実際には調査隊員の死因のみならず、死んだということさえ架空の話である。 
    その『呪い』はただの付け足された創作なのだ。発掘調査に関わった二十三人のその後の生死を調査したグループの研究では、
    発掘後の平均余命二十四年、死亡時の平均年齢七十三歳という結果が出ている。 
    なにも面白いことのない数字だ。 
    しかし、そんな怪異譚を盛り上げるための誇張やデタラメはあったとしても、ハワード・カーターを中心に彼らが発掘した
    ツタンカーメン王の墓だけは真実である。 
    空を歩く男はどうだろうか。 
    そんな人影を見た、ということ自体は十分に怪談的だけれども、どこか妙な感じがする。 
    因縁話も絡まず、教訓めいた話の作りでもない。
    そこから感じられる恐ろしさは、その後のとってつけたような怪我にまつわる後日談からくるものではないだろうか。 
    なんだか本末転倒だ。つまり肝心の前半部分が、創作される必然性がないのである。 
    すべての要素が、こう告げている。 
    『空を歩く男は、実際に観測された』と。 
    その事実から生まれた怪談なのではないだろうか。 
    錯覚や、なにかのトリックがそこにはあるのかも知れない。 
    話を聞かせてくれた二人に礼を言って、僕は実際にその場所へ行ってみることにした。 

                ◆ 

    平日の昼間にその場所に立っていると変な感じだ。 
    繁華街の中でも飲み屋の多いあたりだ。研究室やサークルの先輩につれられて夜にうろつくことはあったが、昼間はまた別の顔をしているように感じられた。 
    表通りと比べて人通りも少なく、店もシャッターが閉まっている所が多い。道幅も狭く、少し寂しい通りだった。 
    なるほど。どのビルも大通りにあるビルほどは高くない。良くて四階、五階というところか。 

    672 空を歩く男  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2012/09/01(土) 23:13:47.16 ID:itFWmvQ50
    聞いた話から想像すると、この東西の通りの上空を斜めに横断する形で男は歩いている。恐らくは北東から南西へ抜けるように。 
    その周囲を観察したが、特に人間と見間違えそうなアドバルーンや看板の類は見当たらなかった。 
    当然昼間からそれらしいものが見えるわけもなく、僕は近くの喫茶店や本屋で日が暮れるまでの間、時間をつぶした。 
    太陽が沈み、会社員たちが仕事を終えて街に繰り出し始めると、このあたりは俄かに活気づいてくる。
    店の軒先に明かりが灯り、陽気な話し声が往来に響き始める。 
    その行き交う人々の群の中で一人立ち止まり、じっと空を見ていた。 
    曇っているのか月の光はほとんどなく、夜空の向こうにそれらしい影はまったく見えなかった。 
    仮に…… と想像する。 
    この東西の通りでヘリウムが充満した風船を持ち、その紐が十メートル以上あったら。その風船が人間を模した形をしていたら。
    そして紐が一本ではなく両足の先に一本ずつそれぞれくっついていたとしたら。 
    下から紐を操ることで人型の風船がまるで歩いているよう見えないだろうか。 
    今日と同じように月明かりもなく、下から強烈に照らすような光源もなければ、周囲のビルよりも遥かに高い場所にあるその風船を、
    本物の人影のように錯覚してしまうことがあるのではないだろうか。 
    その人影に気づいた人は驚くだろう。そしてそちらにばかり気をとられ、その真下の雑踏で不審な動きをしている人物には気づかないに違いない。 
    誰がなぜそんなことを? という新たな疑問が発生するが、とりあえずはこれで再現が可能だという目星はついた。 
    結局その後小一時間ほどうろうろしてから、飽きてしまったのでその日はそれで帰ったのだった。 
    次の日、師匠にそのことを報告すると、呆れた顔をされた。 
    「情報収集が足らないな」 
    「え?」 
    「風船かも知れないなんて、誰でも思いつくよ」 
    師匠は自分のこめかみをトントンと指で叩いて見せる。 
    「だいたい人影は最終的に通りのビルを越えてその向こうに消えてるんだ。下から操っている風船でどう再現する?」 


    674 空を歩く男  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2012/09/01(土) 23:16:30.24 ID:itFWmvQ50
    あ。 
    そのことを失念していた。今さらそれを思い出して焦る。 
    「ちゃんと噂を集めていけば、その人影を見た人間が呪われて、高い所から落ちて怪我をするというテンプレートな後日譚が、別の噂が変形して生まれたものだと気がつくはずなんだ」 
    「別の噂?」 
    空を歩く男の話にはいくつかのバージョンがあるのだろうか。 
    「あの通りでは、転落死した人が多いんだよ。飲み屋街の雑居ビルばかりだ。酔っ払って階段から足を踏み外したり、低い手すりから身を乗り出して下の道路に落下したり。 
    何年かに一度はそんなことがある。そんな死に方をした人間の霊が、夜の街の空をさまよっているんだと、そういう噂があるんだ」 
    しまった。 
    たった二人から聞いて、それがすべてだと思ってしまった。怪談話など、様々なバリエーションがあってしかるべきなのに。 
    あと一度しか言わないぞ。 
    そう前置きして、師匠は「空を歩く男をみてこい」と言った。 
    「はい」情けない気持ちで、そう返事をするしかなかった。 

                 ◆ 

    それから一週間、調べに調べた。 
    最初に話を聞かせてくれた同じ一回生の子に無理を言って、その空を歩く男を見たという同級生に会わせてもらったり、他のつても総動員してその怪談話を知っている人に片っ端から話を聞いた。 
    確かに師匠の言うとおり、あの辺りでは転落事故が多いという噂で、それがこの話の前振りとして語られるパターンが多かった。 
    実際に自分が目撃したという人は、その最初の子の同級生だけだったが、あまり芳しい情報は得られなかった。 
    夜にその東西の通りでふと空を見上げたときに、そういう人影を見てしまって怖かった、というだけの話だ。 
    それがどうして男だと分かったのか、と訊くと『空を歩く男』の怪談を知っていたからだという。 

    675 空を歩く男  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2012/09/01(土) 23:19:22.75 ID:itFWmvQ50
    最初から思い込みがあったということだ。暗くて遠いので顔までは当然見えないし、服装もはっきり分からなかった。
    ただスカートじゃなかったから…… 
    そんな程度だ。見てしまった後に、呪いによる怪我もしていない。 
    ただ記憶自体はわりとはっきりしていて、彼女自身が創作した線もなさそうだった。
    その正体がなんにせよ、彼女は確かになにかそういうものを見たのだろう。 
    これはいったいなんだろうか。 
    本物の幽霊だとしたら、どうしてそんな出方をするのだろう。地上ではなく、そんな上空にどうして? 
    霊の道。 
    そんな単語が頭に浮かんだ。霊道があるというのだろうか。なぜ、そんな場所に? 少しぞくりとした。
    見るしかない。自分の目で。考えても答えは出ない。 
    僕はその通りに張り付いた。日暮れから、飲み屋が閉まっていく一時、二時過ぎまで。
    しかし同じ場所に張っていても、周囲を練り歩いても、それらしいものは見えなかった。 
    焦りだけが募った。 
    死者の気持ちになろうともしてみた。あんなところを歩かないといけない、その気持ちを。 
    気持ちよさそうだな。 
    思ったのはそれだけだった。 
    目に見えない細い細い道が、暗い空に一本だけ伸びていて、その道から落ちないようにバランスをとりながら歩く…… 
    落ちれば地獄だ。かつて自分が死んだ、汚れた雑踏へ急降下し、その死を再び繰り返すことになる。 
    落ちてはいけない。 
    では落ちなければ? 
    落ちずに道を進むことができれば、その先には? 
    人の世界から離れ、彼岸へ行くことができるということか。そんな寓意が垣間見えた気がした。 
    その通りに張り付いて二日目。 
    僕は少し作戦を変えて、飲み屋街のバーに客として入った。そこで店を出している人たちならば、この空を歩く男の噂をもっとよく知っているかも知れないと思ったのだ。 


    676 空を歩く男  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2012/09/01(土) 23:23:22.41 ID:itFWmvQ50
    仕送りをしてもらっている学生の身分だったので、あまり高い店には行けない。 
    女の子がつくような店ではなく、カウンターがあって、そこに座りながらカクテルなどを注文し、飲んでいるあいだカウンター越しにマスターと世間話が出来る。そんな店がいい。 
    このあたりでは居酒屋にしか入ったことがなかったので、行き当たりばったりだ。とにかくそれっぽい店構えのドアを開けて中に入った。 
    薄暗い店内には古臭い横文字のポスターがそこかしこに張られていて、気取った感じもなくなかなか居心地が良さそうだった。
    控えめの音量でオールディーズと思しき曲がかかっている。 
    お気に入りのコロナビールがあったのでそれを注文し、気さくそうな初老のマスターにこのあたりで起こる怪談話について水を向けてみた。 
    聞いたことはある、という返事だったが実際に見たことはないという。
    入店したときにはいた、もう一人の客もいつの間にかいなくなっていたので、仕方なくビール一杯でその店を出る。 
    それから何軒かの店をハシゴした。 
    マスターやママ自身が見たことがある、という店はなかったが、従業員の中に一人だけ目撃者がいた。
    そしてそれとなく店内の常連客に話を振ってくれて、「そう言えば、昔見たことがあるなあ」という客も一人見つけることができた。 
    しかし話を聞いても、どれも似たり寄ったりの話で、結局その空を歩く男の正体もなにも分からないままだった。 
    せめて、どういう条件下で現れるのか推測する材料になれば良かったが、話を聞いた二人とも日付や天気の状況などの記憶が曖昧で、見た場所も人影が進んだ方角もはっきりとしなかった。 
    ただ、夜中に足場もなにもない非常に高い上空を歩く人影を見た、ということだけが一致していた。
    そして特にその後、事故などには遭わなかったということも。 
    一軒一軒ではそれほど量を飲まずに話だけ聞いて退散したのだが、聞き込みの結果が思わしくなく、ハシゴを重ねるごとに酔いが回り始めた。 
    何軒目の店だったか、それも分からなくなり、かなり酩酊した僕がその地下にあったロカビリーな店を出た頃にはもう日付が変わっていた。 
    「ちくしょう」 

    678 空を歩く男  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2012/09/01(土) 23:24:58.38 ID:itFWmvQ50
    という、酔っ払いが良く口にする言葉を誰にともなく吐き出しながら、ふらふらと狭い階段を上り、地上に出る。 
    空を見上げても暗闇がどこまでも広がっているだけで、何の影も見当たらなかった。そのときだった。 
    「にいさん、にいさん」 
    そう後ろから声を掛けられた。 
    振り返ると、よれよれのジャケットを着た赤ら顔の男が手のひらでこちらを招く仕草をしている。 
    「なんです」 
    このあたりでは尺屋、という民家の一室を使った非合法の水商売があるのだが、一瞬、
    その客引きではないかと思ったが、しかしこう酔っ払っていては仕事になるまい。 
    「さっき、中であの怪談の話をしてたろう」 
    ああ、なんださっきの店にいた客か。しかしどうしてわざわざ店を出てから声をかけてくるんだ? 
    そんなことを考えたが、それ以上頭が回らなかった。 
    「だったら、なんれす」ろれつも回っていない。 
    「知りてえか」 
    「なにお」 
    「空の、歩きかた」 
    男は酒焼けしたような赤い顔を近づけてきて、確かにそう言った。 
    「いいですねえ。歩きましょう!」 
    「そうか。じゃあついてきな」 
    ふらふらとしながら男は、まだ酔客の引かない通りを先導して歩き出した。五十歳くらい、いやもう少し上だろうか。 
    変なおっさんだ。 
    さっきロカビリーな髪型のマスターが他の客に声をかけても、誰もそんな怪談話を知らなかったのに。なんであのとき黙ってたんだ。
    あれ? そもそもあんなオッサン、店にいたかな。 
    そんなことを考えていると、おっさんが急に立ち止まり、また顔を近づけてきてこう言った。 
    「あそこにはな、道があるんだ。目に見えない道が。でも普通の人じゃあ、まずたどり着けないのさあ」 

    679 空を歩く男  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2012/09/01(土) 23:26:43.71 ID:itFWmvQ50
    おや? 
    おっさんの言葉ではなく、なにか別の、違和感があった気がした。 
    正面から顔を見ると、頬は肉がタブついていて、はみ出した鼻毛と相まってだらしない印象だった。しかしどこか愛嬌のある顔立ちだ。 
    そのどこに違和感があったのだろう。まあ、いいや。 
    アルコールがいい感じに脳みそを痺れさせている。 
    「周りのビルより高い場所だ。そんなところに道なんてあるわけがない。そう思うだろ。でもなあ、そうじゃあないんだ。あの道はな……」 
    「北の通りの、高層ビルからでしょう」 
    おっさんは驚いた顔をした。 
    「おおよぅ。わかってんじゃねえか兄ちゃん」 
    そうなのだ。 
    この東西の通りに面したビルは高くとも四、五階だ。しかし離れた通りのビルにはもっと高いものがある。
    その北の通りに面した高層ビルから伸びているのだ。その空の道は。 
    酔いにかき回された頭が、ようやくそんな単純な答えにたどり着いていた。 
    そしてもっと南の通りにも高いビルがある。そこまで伸びているのか。あるいは、そのまま人の世界ではない、虚空へと伸びていく道なのか。 
    「霊道なんでしょう」 
    負けじと顔をおっさんの鼻先に突き出す。しかしおっさんは、にやりと笑うと「違うねえ」と言った。 
    「本当に道があるんだよ。いいからついてきな。知ってるやつじゃなきゃ絶対に分からない、あそこへ行く道が、一本だけあるんだ」 
    そしてまた頼りない足取りで繁華街を進んでいく。 
    なんだこのおっさんは。意味がわからない。しかしなんだか楽しくなってきた。 
    「さあ、こっちだ」 
    おっさんは三叉路で南に折れようとした。 
    「ちょっとちょっと、北の通りでしょ。そっちは南」 
    たぶん目的地は北の大通りの、屋上でビアガーデンをやっているビルだ。方向が違う。 
    しかしおっさんは不敵な笑みを浮かべて人差し指を左右に振った。 
    「北に向かうのに、そのまま北へ向かうってぇ常識的な発想が、この道を見えなくしてんだよ」 

    682 空を歩く男  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2012/09/02(日) 00:04:30.97 ID:xOvjnYct0
    そんなことを言いながらふらふらと南の筋に入り、やがてその通りにあったビルとビルの隙間の細い路地へ身体をねじ込み始めた。
    太り気味の身体にはいかにも窮屈そうだった。 
    だめだ。酔っ払いすぎだ、これは。 
    「いいから、ついてこい。世界は折り重なってんだ。
    同じ道に立っていても、どこからどうやってそこへたどり着いたかで、まったく違う、別の道の先が開けるってこともあるんだ」 
    うおおおおおおおおお。 
    そんなことを勢い良くわめきながら、おっさんは雑居ビルの狭間へ消えていった。
    なんだか心魅かれるものがあった僕も、酒の勢いを駆ってついていく。 
    それから僕とおっさんは、廃工場の敷地の中を通ったり、古いアパートの階段を上って、二階の通路を通ってから反対側の階段から降りたり、 
    居酒屋に入ったかと思うと、なにも注文せずにそのまま奥のトイレの窓から抜け出したりと、無茶苦茶なルートを進みながら少しずつまた北へ向かい始めた。 
    ますます楽しくなってきた。街のネオンがキラキラと輝いて、すべてが夢の中にいるようだった。 
    気がつくと、また最初の幸町の東西の通りに戻っていた。随分と遠回りしたものだ。 
    「どうやって知ったんですか、この空への道」 
    「ああん?」 
    先を歩くおっさんの背中に問い掛ける。 
    「おれも、教えてもらったのよ」 
    「誰から」 
    「知らねえよ。酔っ払った、別の誰かさぁ」 
    おっさんも別の酔っ払いから聞いたわけだ。その酔っ払いも別の酔っ払いから聞いたに違いない。空を歩く道を! 
    その連鎖の中に僕も取りこまれたって、わけだ。光栄だなあ。僕も空を歩くことができたら、今度は師匠にもその道を教えてやろう。 
    そんなことを考えてほくそ笑んでいると、おっさんは薄汚れた雑居ビルの階段をよっちらよっちらと上り始めた。
    ほとんどテナントが入っていない、古い建物だった。 
    最上階である四階のフロアまで上がると、奥へ伸びる通路を汚らしいソファーやらなにかの廃材などが塞いでいた。 

    683 空を歩く男  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2012/09/02(日) 00:05:27.69 ID:itFWmvQ50
    「おい、通れねえぞ」 
    おっさんがわめいて僕に顎をしゃくって見せるので、仕方なく力仕事を買って出て、障害物を取り除いた。 
    また気分よくおっさんは鼻歌をうたいながら通路を進む。やけに長い通路だった。
    さっきの東西の通りから、一本奥の通りまでぶち抜いているビルなのかも知れない。 
    その鼻歌はなにか、酒に関する歌だった。どこかで聞いたことはあるが、世代の古い歌だったので、タイトルまでは思い出せなかった。 
    なんだっけ? 
    酒の、酒が、酒と。 
    そんなことを考えていると、ふいに、頭に電流が走ったような衝撃があった。 
    あ。 
    そうか。 
    違和感の正体が分かった。 
    急に立ち止まった僕に、おっさんは振り返ると「どうした、にいちゃん」と声をかけてくる。 
    そうか。あの時感じた違和感。おっさんが僕に顔を近づけて、あそこには目に見えない道がある、と言ったときの。 
    あれは…… 
    足が震え出した。そしてアルコールが頭から急に抜け始める。 
    「どうしたぁ。先に行っちまうぞ」 
    その暗い通路は左右を安っぽいモルタル壁に囲まれ、遠くの非常灯の緑色の明かりだけがうっすらと闇を照らしていた。 
    おっさんはじりじりとして、一歩進んで振り返り、二歩進んで振り返り、という動きしている。 
    僕はアルコールが抜けていくごとに体温も奪われていくのか、猛烈な寒気に襲われていた。 
    そうだ。 
    おっさんは、息がかかるほど顔を突き出したのに、酒の匂いがしなかった。あの赤ら顔で、千鳥足で、バーから出てきたばかりなのに。
    そのバーに、そもそもあのおっさんはいなかった。 
    今日ハシゴした他の店にも。客からあの話を訊くことも目的だったので、すべての店でどんな客がいるか観察していたはずなのだ。 
    なのに、おっさんは僕が空を歩く男の話を訊いて回っていたことを知っていた。
    まるで目に見えない客として、あのいずれかのバーにいたかのように。 

    684 空を歩く男  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2012/09/02(日) 00:07:40.66 ID:xOvjnYct0
    「どうした」 
    声が変わっていた。 
    おっさんは冷え切ったような声色で、「きなさい」と囁いた。 
    ガタガタ震えながら、首を左右に振る。 
    通路の暗闇の奥で、おっさんの顔だけが浮かんで見える。 
    沈黙があった。 
    そうか。 
    小さな声がすうっと空気に溶けていき、その顔がこちらを向いたまま暗闇の奥へと消えていった。 
    それからどれくらいの時間が経ったのか分からない。 
    金縛りにあったかのようにその場で動けなかった僕も、外から若者の叫び声が聞こえた瞬間に、ハッと我に返った。
    酔っ払った仲間がゲロを吐いた、という意味の、囃し立てるような声だった。 
    僕は気配の消えた通路の奥に目を凝らす。 
    そのとき、頬に触れるかすかな風に気がついた。その空気の流れは前方からきていた。 
    三メートルほど進むと、その先には通路の床がなかった。一メートルほどの断絶があり、その先からまた通路が伸びていた。 
    ビルとビルの隙間に、狭い路地があった。長く感じた通路は、一つのビルではなく二つのビルから出来ていた。 
    崖になっている通路の先端には、手すりのようなものの跡があったが、壊されて原型を留めていなかった。
    向こう側の通路の先も同じような状態だった。 
    知らずに手探りのまま足を踏み出していれば、この下の路地へ落下していただろう。四階の高さから。 
    生唾を飲み込む。 
    最後に「きなさい」と言ったおっさんの顔は、あの断絶の向こう側にあった。 
    そうか。僕は導かれていたのだ。折り重なった、異なる世界へ。 
    ビルとビルの狭間へ転落する僕。そして別の僕は、自分が死んだことにも気づかず、そのまま通路を通り抜け、導かれるままに秘密の道を潜り、あの空への道へと至るのだ。高層ビルの屋上から、足を踏み出し…… 
    そこは壮観な世界だろう。 
    遥か足元にはネオンの群れ。大小の雑居ビルのさらに上を通り、酔客たちの歩く頭上を、気分良く歩いて進む。 


    685 空を歩く男 ラスト  ◆oJUBn2VTGE ウニ 今夜は終わりです 2012/09/02(日) 00:08:48.45 ID:xOvjnYct0
    夜の闇の中に、目に見えない一筋の道がある。それは折り重なった別の世界の住民だけにたどることの出来る道なのだ。 
    はあ。 
    闇の中に冷たい息を吐いた。 
    僕はビルの階段を降り、通行人の減り始めた通りに立った。もう夜の底にわだかまった熱気が消えていく時間。
    人々がそれぞれの家へ足を向け、ねぐらへと帰る時間だ。遠くで二度三度と勢いをつけながらシャッターを閉めている音が聞こえる。 
    そして僕は振り仰いだ星の見えない夜空に、空を歩く男の影を見た。 

               ◆ 

    「殺す気だったんですか」 
    師匠にそう問い掛けた。 
    そうとしか思えなかった。師匠はすべて知っていたはずなのだ。かつての死者が新しい死者を呼ぶ、空へ続く道の真相を。 
    いくらなんでも酷い。 
    そう憤って詰め寄ったが、そ知らぬ顔で「まあそう怒るな」と返された。 
    「まあ、ちゃんと見たんだから合格だよ。優良可でいうなら、良をあげよう」 
    なんだ偉そうにこの人は。ムカッとして思わず睨むと、逆に寒気のするような眼に射すくめられた。 
    「じゃあ、優はなんだっていうんですか」 
    僕がなんとか言い返すと、師匠は暗い、光を失ったような瞳をこちらに向けて、ぼそりと囁く。 
    「わたしは、空を歩いたよ」 
    そして両手を、両手を羽ばたくように広げて見せた。 
    うそでしょう。そんな言葉を口の中で転がす。 
    「臨死体験でもしたって言うんですか」 
    僕が訊くと、師匠は「どうかな」と言って笑った。 

    1 連想Ⅰ  ◆oJUBn2VTGEウニ New! 2012/08/18(土) 22:32:27.18 ID:qKV0Rmwv0
    師匠から聞いた話だ。 



    「二年くらい前だったかな。ある旧家のお嬢さんからの依頼で、その家に行ったことがあってな」 
    オイルランプが照らす暗闇の中、加奈子さんが囁くように口を動かす。 
    「その家はかなり大きな敷地の真ん中に本宅があって、そこで家族五人と住み込みの家政婦一人の計六人が暮してたんだ。
    家族構成は、まず依頼人の真奈美さん。 
    彼女は二十六歳で、家事手伝いをしていた。それから妹の貴子さんは大学生。
    あとお父さんとお母さん、それに八十過ぎのおばあちゃんがいた。 
    敷地内にはけっこう大きな離れもあったんだけど、昔よりも家族が減ったせいで物置としてしか使っていないらしかった。
    その一帯の地主の一族でね。 
    一家の大黒柱のお父さんは今や普通の勤め人だったし、先祖伝来の土地だけは売るほどあるけど生活自体はそれほど裕福というわけでもなかったみたいだ。 
    その敷地の隅は駐車場になってて、車が四台も置けるスペースがあった。
    今はそんな更地だけど、戦前にはその一角にも屋敷の一部が伸びていた」 
    蔵がね…… 
    あったんだ。 
    ランプの明かりが一瞬、ゆらりと身をくねらせる。 

                ◆ 

    大学二回生の夏だった。 
    その日僕はオカルト道の師匠である加奈子さんの秘密基地に招かれていた。 
    郊外の小さな川に面した寂しげな場所に、貸しガレージがいくつも連なっており、その中の一つが師匠の借りているガレージ、すなわち秘密基地だった。 
    そこには彼女のボロアパートの一室には置けないようなカサ張るものから、別のおどろおどろしい理由で置けない忌まわしいものなど、様々な蒐集品が所狭しと並べられていた。 

    542 連想Ⅰ  ◆oJUBn2VTGEウニ New! 2012/08/18(土) 22:34:20.21 ID:qKV0Rmwv0
    その量たるや想像以上で、ただの一学生が集めたとは思えないほどだった。
    興信所のバイトでそこそこ稼いでいるはずなのに、いつも食べるものにも困っているのは明らかにこのコレクションのためだった。 
    扉の鍵を開けてガレージの中に入る時、師匠は僕にこう言った。「お前、最近お守りをつけてたろ」 
    「はい」胸元に手をやる。 
    すると師匠は手のひらを広げて「出せ」と命じた。 
    「え? どうしてです」 
    「そんな生半可なものつけてると、逆効果だ」 
    死ぬぞ。 
    真顔でそんなことを言うのだ。たかが賃貸ガレージの中に入るだけなのに。僕は息を飲んでお守りを首から外した。 
    「普通にしてろ」 
    そう言って扉の奥へ消えて行く師匠の背中を追った。 
    どぶん。 
    油の中に全身を沈めたような。 
    そんな感覚が一瞬だけあり、息が止まった。
    やがてその粘度の高い空間は、様々に折り重なった濃密な気配によって形作られていると気づく。 
    見られている。そう直感する。 
    真夜中の一時を回ったころだった。ガレージの中には僕と師匠以外、誰もいない。
    それでもその暗闇の中に、無数の視線が交差している。 
    例えば、師匠の取り出した古いオイルランプの明かりに浮かび上がる、大きな柱時計の中から。
    綺麗な刺繍を施された一つの袋を描いただけの絵から。あるいは、両目を刳り貫かれたグロテスクな骨格標本からも。 
    「まあ座れ」 
    ガレージの中央にわずかにあいたスペースにソファが置かれている。
    師匠はそこを指さし、自身はそのすぐそばにあった真っ黒な西洋風の墓石の上に片膝を立てて腰掛けた。
    墓石の表面には、人の名前らしき横文字が全体を覆い尽くさんばかりにびっしりと彫り込まれている。 
    どれもこれも、ただごとではなかった。このガレージの中のものはすべて。
    どろどろとした気配が、粘性の気流となって僕らの周囲を回っている。 

    543 連想Ⅰ  ◆oJUBn2VTGEウニ New! 2012/08/18(土) 22:37:03.36 ID:qKV0Rmwv0
    師匠がこの中から、世にも恐ろしい謂れを持つ古い仮面を出してきたのはつい先日のことだった。 
    あんな怖すぎるものが、他にもたくさんあるのだろうか。 
    恐る恐るそう訊いてみると、師匠は「そういや、言ってなかったな」と呟いて背後に腕を伸ばし、一つの木箱を引っ張り出した。
    見覚えがある。その古い仮面を収めていた箱だ。 
    もうあんな恐ろしいものを見たくなかった僕は咄嗟に身構えた。
    しかし師匠は妙に嬉しそうに木箱の封印を解き、その中身をランプの明かりにかざす。 
    「見ろよ」 
    その言葉に、僕の目は釘付けになる。箱の中の仮面はその鼻のあたりを中心に、こなごなに砕かれていた。 
    「凄いだろ」 
    なぜ嬉しそうなのか分からない。「洒落になってないですよ」ようやくそう口にすると、「そうだな」と言ってまた木箱の蓋を戻す。 
    師匠自身が『国宝級に祟り神すぎる』と評したモノが壊れた。いや、自壊するはずもない。壊されたのだ。
    鍵の掛かったガレージの中で。一体なにが起こったのか分からないが、ただごとではないはずだった。 
    「これと相打ち、いやひょっとして一方的に破壊するような何かが、この街にいるってことだ」 
    怖いねえ。 
    師匠はそう言って笑った。そして箱を戻すと、気を取りなおしたように「さあ。なにか楽しい話でもしよう」楽しげに笑う。 
    それからいくつかの体験談を語り始めたのだ。もちろん怪談じみた話ばかりだ。 
    最初の話は興信所のバイトで引き受けた、ある旧家の蔵にまつわる奇妙な出来事についてだった。 

                ◆ 

    かつて、本宅とその脇に立つ大きな土蔵との間には二つの通路があった。
    一つは本宅の玄関横から土蔵の扉までの間の六間(ろっけん)ほどの石畳。 

    544 連想Ⅰ  ◆oJUBn2VTGEウニ New! 2012/08/18(土) 22:40:30.83 ID:qKV0Rmwv0
    そしてもう一つは本宅の地下から土蔵の地下へと伸びる、同じ距離の狭く暗い廊下。 
    何故二つの道を作る必要があったのかは昭和に暦が変わった時点ですでに分からなくなっていた。 
    ただかつて土蔵の地下には座敷牢があり、そこへ至る手段は本宅の地下にあった当主の部屋の秘密の扉だけだったと、そんな噂が一族の間には囁かれていた。 
    「あながち嘘じゃないと思うがな」 
    真奈美の父はよくそんなことを言って一人で頷いていた。 
    「あそこにはなんだか異様な雰囲気があるよ」 
    家族の中で、土蔵の地下へ平気で足を踏み入れるのは祖父だけだった。 
    かつて当主の部屋があったという本宅の地下も、今やめったに使うことのないものばかりを押し込めた物置になっている。 
    その埃を被った家具類に覆い隠されるように土蔵の地下へと続く通路がひっそりと暗い口を開けていた。 
    そこを通り抜けると、最後は鉄製の門扉が待っていて、錆びて酷い音を立てるそれを押し開けると、再び様々な物が所狭しと積み重ねられた空間に至る。 
    座敷牢があった、とされるその場所も今では物置きとして使われていた。
    ただ、本宅の地下と違い、本来蔵に納められるべき、古い家伝の骨董品などが置かれていたのだ。 
    土蔵の地上部分は戦時中の失火により焼け落ち、再建もせずにそのまま更地にしてしまっていた。 
    元々構造が違ったためか、地下は炎の災禍を免れ、そして地上部分に保管されていた物を、すでにその時使われていなかったその地下に移し変えたのだった。 
    一階部分が失われ、駐車場にするため舗装で塗り固められてしまったがために、その地下の土蔵に出入りするには、本宅の地下から六間の狭い通路を通る以外に道はなかった。 
    真奈美の祖父はその地下の土蔵を好み、いつも一人でそこに篭っては、燭台の明かりを頼りに古い書物を読んだり、書き物をしたりしていた。 
    真奈美はその土蔵が怖かった。
    父の言う、『異様な雰囲気』は確かに感じられたし、土蔵へ至るまでの暗く狭い通路も嫌で堪らなかった。 
    距離にしてわずか十メートルほどのはずだったが、時にそれが長く感じることがあった。
    途中で通路が二回、稲妻のように折れており、先が見通せない構造になっているのが、余計に不安を掻き立てた。 


    545 連想Ⅰ  ◆oJUBn2VTGEウニ New! 2012/08/18(土) 22:44:11.83 ID:qKV0Rmwv0
    本宅から向かうと、まず右に折れ、すぐに左に折れるはずだった。
    しかし、一族の歴史の暗部に折り重なる、煤や埃が充満したその通路は、真奈美の幼心に幻想のような記憶を植え付けていた。 
    右に折れ、左に折れ、次にまた右に折れる。 
    ないはずの角がひとつ、どこからともなく現れていた。 
    怖くなって引き返そうとしたら、行き止まりから右へ通路は曲がっていた。
    さっき右に折れたばかりなのに、戻ろうとすると、逆向きになっているのだ。 
    その時、どうやって外へ出たのか。何故か覚えてはいなかった。 
    そればかりではない。たった十メートルの通路を通り抜けるのに、十分以上の時間が経っていたこともあった。
    幼いころの記憶とは言え、そんなことは一度や二度ではなかった。 
    そんな恐ろしい道を潜って、何故土蔵へ向かうのか。それは祖父がそこにいたからだ。
    真奈美はその変わり者の祖父が好きで、地下の土蔵で読書をしているのを邪魔しては、お話をせがんだり、お菓子をせがんだりした。 
    祖父も嫌な顔一つせず、むしろ相好を崩して幼い真奈美の相手をしてくれた。 
    その祖父は真奈美が小学校五年生の時に死んだ。胃癌だった。 
    死ぬ間際、もはやモルヒネも効かない疼痛の中、祖父がうわ言のように願ったのは、自分の骨をあの地下の土蔵に納めてくれ、というものだった。 
    祖父が死に、残された親族で相談した結果、祖父の身体は荼毘に付した後、先祖代々の墓に入った。ただ、その骨のひと欠片を小さな壷に納めて土蔵の奥にひっそりと仕舞ったのだった。 
    それ以来、土蔵の地下はよほどのことがない限り家族の誰一人として足を踏み入れない、死せる空間となった。 
    先祖代々伝わる書物や骨董品の類は、それらすべてが祖父の死の副葬品となったかのように、暗い蔵の中で眠っている。 
    墳墓。 
    そんな言葉が思い浮かぶ場所だった。 

    祖父の死から十五年が経った。 
    その日、真奈美は半年ぶりにその地下の土蔵へ足を運ぶ羽目になっていた。叔父が、電話でどうしてもと頼むので仕方なくだ。 

    546 連想Ⅰ  ◆oJUBn2VTGEウニ New! 2012/08/18(土) 22:48:08.39 ID:qKV0Rmwv0
    どうやら何かのテレビ番組で、江戸時代のある大家の作った茶壷が高値で落札されているのを見たらしい。 
    その茶壷とそっくりなものを、昔その土蔵で見たことがある気がするというのだ。 
    今は県外に住んでいる叔父は、お金に意地汚いところがあり真奈美は好きではなかったのだが、とにかくその茶壷がもし大家の作ったものだったとしたら親族会議モノだから、とりあえず探してくれ、と一方的に言うのだ。 
    親族会議もなにも、家を出た叔父になんの権利があるのか、と憤ったが、父に言うと「どうせそんな凄い壷なんてないよ。あいつも勘違いだと分かったら気が済むだろう」と笑うのだ。 
    それで真奈美は土蔵へ茶壷を探しに行かされることになったのだった。 
    本宅の地下に降り、黄色い電燈に照らされた畳敷きの部屋を通って、その奥にある小さな出入り口に身体を滑り込ませる。 
    そこから通常の半分程度の長さの階段がさらに地下へ伸びており、降りた先に土蔵へと伸びる通路があった。
    饐えたような空気の流れが鼻腔に微かに感じられる。 
    手探りで電燈のスイッチを探す。指先に触ったものを押し込むと、ジン……という音とともに白熱灯の光が天井からのそりと広がった。 
    壁を漆喰で固められた薄暗い通路は、なにかひんやりとしたものが足元から上ってくるようで薄気味悪かった。
    かつてはランプや手燭を明かりにしてここを通ったそうだが、今では安全のために電気を通している。 
    だが湿気がいけないのか、白熱灯の玉がよく切れた。そのたびに父や自分が懐中電灯を手に、薄気味悪い思いをしながら玉の交換をしたものだった。 
    今も真奈美の頭上で、白熱灯のフィラメントがまばたきをしている。 
    いやだ。まただわ。戻ったら、父に直してもらうように言わなければ…… 
    今の家政婦の千鶴子さんは、どうしてもこの地下の通路には入りたくない、と言ってはばからなかった。 
    『わたし、昔から霊感が強いたちでして、あそこだけはなんだかゾッとしますのよ』 
    そう言って身震いしてみせるのだ。おかげでこの通路とその先の土蔵の最低限の掃除は家族が交代でやることになっていた。 

    549 連想Ⅰ  ◆oJUBn2VTGEウニ 一つ前はエラーで途中までになってしまいました New!2012/08/18(土) 22:54:48.74ID:qKV0Rmwv0
    頼りなくまたたいている明かりの下、最初の曲がり角を越えると土蔵の入り口が見えた。
    そろそろと歩み寄り、小さな鉄製の扉を手前に引く。 
    きぃ…… 
    耳障りな音がして、同時に真っ暗な扉の奥からどこか生ぬるいような空気が漏れ出てくる。
    扉は狭く、それほど大柄でもない真奈美でも、身を屈めないと入ることが出来ない。 
    真奈美は身体を半分だけ扉の中に入れ、腕を回りこませて壁際を探る。白熱灯の光が、暗かった土蔵の中に広がった。
    ホッと人心地がつく。 
    もはやそれを手に取る主のいない骨董品や古民具の類が、四方の壁に並べられた棚や箪笥の上にひっそりと置かれている。 
    本当に値打ちのあるものは終戦の前後に処分したと聞いているので、今残っているのはそれを代々受け継いできた自分たちの一族にしか価値のないもののはずだった。 
    真奈美は懐から写真を取り出す。ご丁寧にも叔父が、くだんの茶壷が紹介された雑誌の切抜きを送ってきたのだった。 
    それと見比べながら、壷などが並べられている一角を往復していると、どうやらこのことらしい、というものを見つけることが出来た。 
    なるほど、形や色合いは確かに似ている。
    しかし手に取ってみるとやけに軽く、まじまじと表面を眺めると造作も安っぽく思われた。 
    やはり叔父の思い違いだ。そう思うと少し楽しくなった。 
    茶壷を片手に、唯一の出入り口へ向かう。狭い扉をなんとか潜ると、一瞬心の中が冷えた気がした。 
    通路の白熱灯が切れている。 
    漆喰に囲まれた道の先が闇に飲まれるように見通せなくなっている。
    消そうとした土蔵の中の明かりはつけたままにしたが、それでも小さな扉から漏れてくる光はあまりにか細かった。 
    いやだ。 
    ここが地の底なのだということを思い出してしまった。こんな時のために土蔵の中に懐中電灯を置いてなかっただろうか。
    振り返って探しに戻ろうかと思ったが、面倒な気がして止めた。 
    たかだか十メートルていどの通路だ。障害物もない一本道だし、自分ももう子どもではないのだから、なにをそんなに怖がることがあるだろう。 

    550 連想Ⅰ  ◆oJUBn2VTGEウニ New! 2012/08/18(土) 22:57:27.58 ID:qKV0Rmwv0
    我知らず自分にそう言い聞かせ、真奈美は茶壷を胸に抱えて進み始めた。静かだ。耳の奥に静寂が甲高い音を立てている。 
    ほんの数メートル歩くと曲がり角があった。そこを右に曲がると、今度はすぐに左へ折れる。
    そこから先は直進するだけで元の入り口だ。けれど、そっと覗いたその先は光の届かない真っ暗闇だった。 
    ぞくりと肌が粟立つ。 
    口元が強張りそうになるのを必死で抑え、なるべく自然な歩調で前へ進んだ。左手を壁に沿わせながら、真っ直ぐに。 
    なんてことはない。なんてことはない。暗くたって大丈夫。 
    ほら。すぐに元の入り口だ。 

    ドシン 

    え…… 
    ぶつかった。 
    誰かに。うそ。 
    全身に寒気が走った。 
    暗くて何も見えない。そこに誰がいるのかも分からない。 
    気配だけが通り過ぎていく。土蔵の方へ向かっているようだ。 
    真奈美はその場に根を張りそうだった足を叱咤して、小走りに入り口の階段の下まで進んだ。 
    そこまで来ると、頭上から微かな明かりが漏れてきていた。茶壷を抱えたまま階段を上り、ようやく物置部屋まで戻ってきた。 
    ここもまだ地下なのだと思うと、後ろも振り返らずに部屋を横断して一階へ上がる階段を駆けのぼった。 
    階段を上がった先にある居間では、父と母がテーブルを囲んでお茶を飲んでいた。 
    「お。あったか。お宝が」 
    こちらを見ながら、のん気そうに父がそう言った。 
    「ねえ、ここ今誰か降りてった?」 
    真奈美が早口にそう訊くと、父と母は怪訝そうな顔をしてかぶりを振った。 
    「貴子は?」続けて訊こうとしたが、隣の部屋からテレビの音とともに、その妹の笑い声が聞えてきた。 

    551 連想Ⅰ  ◆oJUBn2VTGEウニ New! 2012/08/18(土) 23:06:34.39 ID:qKV0Rmwv0
    悪寒がする。 
    家政婦の千鶴子さんは今日は来ない日だ。そして祖母は風邪を引いて一昨日から入院中だった。いつものことで、大した風邪ではないのだが。 
    ではさっき地下の通路でぶつかったのは誰なのか。 
    「ちょっと、気持ち悪いこと言わないでよ」 
    母が頬を引きつらせながら、無理に笑った。 
    「泥棒か?」 
    父が気色ばんで椅子から立ち上がろうとしたが、母が困ったように半笑いをしながらそれを諌める。 
    「ちょっと、お父さんも。わたしたち、ずっとここにいたじゃない」 
    そうして地下の物置へ降りる階段を指さす。 
    そうだ。物置には他に出入り口はない。父と母がずっといたこの居間からしか。その二人が見ていないのだ。
    誰も降りられたはずはない。ではさっき暗闇の中でぶつかったのは誰なのだ。 
    誤って壁にぶつかったのではない。壁にはしっかりと左手をついて歩いていたのだから。 
    震えてしゃがみ込んだ真奈美の背中を母がさすり、父は騒ぎを聞きつけて居間にやってきた貴子と二人で懐中電灯を手に地下に降りていった。 
    結局、小一時間ほど地下の物置と通路、そしてその先の土蔵をしらみつぶしに探索したが、異変はなにも見つからなかった。
    家族以外の誰かがいたような痕跡も。 
    最後に地下通路の白熱灯の玉を交換してきた父が、疲れたような表情で居間に戻ってくると家族四人がテーブルに顔をつき合わせて座った。 
    そして沈黙に耐えられなくなったように、妹の貴子が口を開いた。 
    「実はあたしもぶつかったこと、ある」 
    驚いた。さっき起きたことと全く同じような出来事が二年ほど前にあったと言うのだ。
    妹の場合は何の前触れもなく地下の明かりが消え、手探りで通路を引き返そうとしたら、得体の知れない『なにか』に肩が触れたのだと。 


    552 連想Ⅰ  ◆oJUBn2VTGEウニ New! 2012/08/18(土) 23:10:19.67 ID:qKV0Rmwv0
    さらに驚いたことに、それから父と母も気持ちが悪そうにしながら、それぞれ似た体験をした話を続けた。数年前の話だ。 
    みんな気のせいだと思い込むようにしていたのだった。そんなことがあるわけはないと。
    しかしこうして家族が誰も同じ体験をしていると知った今、ただの気のせいで済むはずはなった。 
    「お祓い、してもらった方がいいかしら」 
    母がおずおずとそう切り出すと、父が「なにを馬鹿な」と怒りかけ、しかしその勢いもあっさりとしぼんだ。
    みんな自分の身に起きた体験を思い出し、背筋を冷たくさせていた。 
    そんな中、妹の貴子がぽつりと言った。 
    「おじいちゃんじゃないかな」 
    「え?」 
    「いや、だから、あそこにいたの、おじいちゃんじゃないかな」 
    地下の暗闇の中でぶつかったのは十五年前に死んだ祖父ではないかと言うのだ。 
    その言葉を聞いた瞬間、父と母の顔が明るくなった。 
    そのくせ口調はしんみりとしながら、「そうね。おじいちゃんかも知れないわね」「そうか。親父かも知れないな。
    親父は土蔵のヌシだったからな」と頷き合っている。 
    確かに祖父はあの土蔵が第二の家だと言っても過言ではないほどそこへ入り浸っていたし、死んだ後は自分の骨もそこへ葬ってくれと願ったのだ。 
    そして実際に遺骨の一部は小さな骨壷に納められて土蔵の隅に眠っている。 
    「おじいちゃんか」 
    真奈美もそう呟いてみる。皺だらけの懐かしい顔が脳裏に浮かんだ。 
    そして祖父との思い出の断片がさらさらと自然に蘇ってくる。 
    「おじいちゃん……」貴子が涙ぐみながら笑った。 
    幽霊を恐ろしいと思う気持ちより、優しかった祖父の魂が今もそこにいるのだと思う、やわらかな気持ちの方が勝っていたのだった。さっきまでの凍りついたような空気がほんのりと暖かくなった気がした。 
    しかし。 
    祖父の思い出を語り始めた父と母と妹を尻目に、真奈美は自分の中に蘇った奇妙な記憶に意識を囚われていた。 

    557 連想Ⅰ  ◆oJUBn2VTGEウニ New! 2012/08/18(土) 23:12:25.00 ID:qKV0Rmwv0
    あれは真奈美がまだ小学校に上がったばかりのころ。
    いつものように祖父に本を読んでもらおうと、あの薄暗い地下の道を通って土蔵へやってきた時のことだ。 
    文机に向かって古文書のようなものを熱心に読んでいた祖父が、真奈美に気づいて顔を上げた。
    そして手招きをしてかわいい孫を膝の上に座らせ、あやすように身体を揺すりながらぽつりと言った。 
    『誰かにぶつからなかったかい?』 
    幼い真奈美は顔を祖父の顔を見上げ、そこに不可解な表情を見た。
    頬は緩んで笑っているのに、目は凍りついたように見開かれている。 
    『ぶつかるって、だれに?』 
    真奈美はこわごわとそう訊き返した。 
    祖父は孫を見下ろしながら薄い氷を吐くように、そっと囁いた。 
    『誰だかわからない誰かにだよ……』 

               ◆ 

    オイルランプの明かりに照らされ、加奈子さんの顔が闇の中に浮かんでいる。
    黒い墓石の上に腰掛けたまま、足をぶらぶらと前後に揺らしながら。 
    「それで真奈美さんは我が小川調査事務所に依頼したわけだ。人づてに、『オバケ』の専門家がいるって聞いて」 
    「どんな、依頼なんです」 
    「調査に決まってるだろう。その誰だかわからない誰かが、誰なのかってことをだ」 
    加奈子さんは背後の木箱の中から黒い厚手の布を取り出し、ランプの上に被せた。その瞬間、辺りが完全な暗闇に覆われる。 
    締め切られたガレージの中は、夜の中に作られた夜のようだ。 
    うつろに声だけが響く。 
    「昔の飛行機乗りは、ファントムロックってやつを恐れたらしい。機体が雲の中に入ると一気に視界が利かなくなる。
    でもしょせん雲は微小な水滴の塊だ。 
    その中で、『なにか』にぶつかることなんてない。ないはずなのに、怖いんだ。見えないってことは。 

    565 連想Ⅰ  ◆oJUBn2VTGEウニ New! 2012/08/18(土) 23:16:29.89 ID:qKV0Rmwv0
    白い闇の中で、目に見えない一寸先に自分と愛機の命を奪う危険な物体が浮かんでいるのではないか……
     その想像が、熟練の飛行機乗りたちの心を苛むんだ。 
    その雲の中にある『なにか』がファントムロック、つまり『幻の岩』だ。自転車に乗っていて、目を瞑ったことがあるかい。 
    見通しのいい一本道で、前から人も車もなにもやってきていない状態で、自転車を漕ぎながら目を閉じるんだ。
    さっきまで見えていた風景から想像できる、数秒後の道。 
    絶対に何にもぶつかることはない。ぶつかることなんてないはずなのに、目を閉じたままではいられない。
    必ず恐怖心が目を開けさせる。人間は、闇の中に『幻の岩』を夢想する生き物なんだ」 
    くくく、と笑うような声が僕の前方から漏れてくる。 
    では、その旧家の地下に伸びる古い隧道で起きた出来事は、いったいなんだったのだろうね? 
    師匠は光の失われたガレージの中でその依頼の顛末を語った。 
    真奈美さんはそんなことがあった後、地下通路でぶつかったのは死んだ祖父なのだと結論付けた他の家族に、祖父自身もそれを体験したらしいということを告げずにいた。 
    そして自分以外の家族が旅行などで全員家から出払う日を選んで、小川調査事務所の『オバケ』の専門家である師匠を呼んだのだ。 
    ここで言う『オバケ』とはこの界隈の興信所業界の隠語であり、不可解で無茶な依頼内容を馬鹿にした表現なのだが、師匠はその呼称を楽しんでいる風だった。 
    真奈美さんからも「オバケの専門家だと伺いましたが」と言われ、苦笑したという。 
    ともあれ師匠は真奈美さんの導きで、本宅の地下の物置から地下通路に入り、その奥の土蔵に潜入した。
    その間、なにか異様な気配を感じたそうだが、何者かの姿を見ることはなかった。 
    土蔵には代々家に伝わる古文書の類や、真奈美さんの祖父がそれに関して綴った文書が残されていた。
    今の家族には読める者がいないというその江戸時代の古文書を、師匠は片っ端から読んでいった。 
    かつてそうしていたという真奈美さんの祖父にならい、一人で土蔵に篭り、燭台の明かりだけを頼りに本を紐解いていったのだ。 
    そしてその作業にまる一晩を費やして、次の日真奈美さんを呼んだ。 

    572 連想Ⅰ  ◆oJUBn2VTGEウニ New! 2012/08/18(土) 23:18:41.95 ID:qKV0Rmwv0
                ◆ 

    「結論から言うと、わかりません」 
    「わからない、というと……」 
    「あなたがその先の地下通路でぶつかったという誰かのことです」 
    文机の前に座ったまま向き直った師匠がそう告げると、真奈美さんは不満そうな顔をした。
    霊能力者という触れ込みを聞いて依頼をしたのに、あっさりと匙を投げるなんて。
    そういう言葉を口にしようとした彼女を、師匠は押しとどめた。 
    「まあわかった部分もあるので、まずそれを聞いてください。
    これは江戸後期、天保年間に記された当時のこの家の当主の覚え書きです」 
    師匠はシミだらけの黄色く変色した書物を掲げて見せた。 
    「これによると、彼の二代前の当主であった祖父には息子が三人おり、そのうちの次男が家督を継いでいるのですが、それが先代であり彼の父です。 
    そして長子継続の時代でありながら家督を弟に譲った形の長男は、ある理由からこの土蔵に幽閉されていたようなのです」 
    「幽閉、ですか」 
    真奈美さんは眉をしかめる。 
    「あなた自身おっしゃっていたでしょう。かつてここには座敷牢があったと。
    家の噂話のような伝でしたが、それは史実のようです。 
    この地下の土蔵……いえ、そのころは地上部分があったので、土蔵の地下という方が正確かも知れません。
    ともかく土蔵の地下にはその長男を幽閉するために作られた座敷牢がありました。 
    その地下空間は座敷牢ができる前から存在していましたが、もともとなんのための地下室なのかは不明なようです。 
    この覚え書きを記した当主は、自分の伯父にあたる人物を評して、『ものぐるいなりけり』としています。
    気が狂ってしまった一族の恥を世間へ出すことをはばかった、ということでしょう。 
    結局、座敷牢の住人は外へ出ることもなく、牢死します。
    その最後は自分自身の顔の皮をすべて爪で引き剥がし、血まみれになって昏倒して果てたのだと伝えられています」 
    遠い先祖の悲惨な死に様を知り、真奈美さんは息を飲んだ。それも、自分は今その血の流れた場所にいるのだ。
    不安げに周囲を見回し始める。 

    579 連想Ⅰ  ◆oJUBn2VTGEウニ New! 2012/08/18(土) 23:21:00.63 ID:qKV0Rmwv0
    「座敷牢で死んだ伯父は密かに葬られたようですが、その後彼の怨念はこの地下室に満ち、そして六間の通路に溢れ出し、やがて本宅をも蝕んで多くの凶事、災いをもたらしたとされています」 
    師匠は机の上に積み重ねられた古文書を叩いて見せた。 
    その時、真奈美さんの顔色が変わった。そして自分の両手で肩を抱き、怯えた表情をして小刻みに震え始めたのだ。 
    「わたしが………… ぶつかったのは…………」 
    ごくりと唾を飲みながら硬直した顔から眼球だけを動かして、入ってきた狭い扉の方を盗み見るような様子だった。 
    その扉の先の、地下通路を目線の端に捕らえようとして、そしてそうしてしまうことを畏れているのだ。 
    師匠は頷いて一冊のノートを取り出した。 
    「あなたのお祖父さんも、何度か真っ暗なこの通路でなにか得体の知れないものにぶつかり、そのことに恐怖と興味を抱いて色々と調べていたようです。 
    このノートは失礼ながら読ませていただいたお祖父さんの日記です。 
    やはり座敷牢で狂死した先祖の存在に行き着いたようなのですが、その幽霊や怨念のなす仕業であるという結論に至りかけたところで筆をピタリと止めています」 
    師匠は訝しげな真奈美さんを尻目に立ち上がり、一夜にして散らかった土蔵の中を歩き回り始めた。 
    「この土蔵には確かに異様な気配を感じることがあります。お父さんなど、あなたのご家族も感じているとおりです。
    亡くなったお祖父さんもそのことをしきりと書いています。 
    気配。気配。気配…… しかしその気配の主の姿は誰も見ていません。
    なにかが起こりそうな嫌な感じはしても、この世のものではない誰かの姿を見ることはなかったのです。 
    ただ、暗闇の中で誰かにぶつかったことを除いて」 
    どこかで拾った孫の手を突き出して、たった一つの扉を指し示す。
    その向こうには白熱灯の明かりが照らす、地下の道が伸びている。明かりが微かに瞬いている。
    また、玉が切れかかっているのだ。 
    それに気づいた真奈美さんの口からくぐもったような悲鳴が漏れた。交換したばかりなのに、どうして。
    呆然とそう呻いたのだ。 

    587 連想Ⅰ  ◆oJUBn2VTGEウニ New! 2012/08/18(土) 23:23:17.47 ID:qKV0Rmwv0
    「あなたのお祖父さんはこう考えました。
    本当にこの家を祟る怨念であれば、もっとなんらかの恐ろしいことを起こすのではないかと。 
    確かにそのようなことがあったとされる記録は古文書の中に散見されます。しかし今ではそれらしい祟りもありません。
    にも関わらず、依然として異様な気配が満ちていくような時があります。 
    これはいったいどういうことなのか。そう思っていた時、お祖父さんはある古文書の記述を見つけるのです」 
    師匠は文机に戻り、その引き出しから一冊の古びた本を取り出した。 
    「これは、お祖父さんが見つけたもので、死んだ座敷牢の住人を葬った、当主の弟にあたる人物が残した記録です」 
    やけにしんなりとした古い紙を慎重に捲りながら、ある頁に差し掛かったところで手を止める。 
    「彼はこの文書の中で、伯父の無残な死の有り様を克明に描写しているのですが、その死の間際にしきりに口走っていたという言葉も書き記しています。ここです」 
    真奈美さんの方を見ながら、確かめるようにゆっくりと指を紙の上に這わせた。 
    「ここにはこう書いています。『誰かがいる。誰かがいる』と」 
    その時、すぅっ、と扉の向こうの地下道から明かりが消えた。 
    真奈美さんは身体を震わせながら地下道への扉と、師匠の掲げる古文書とを交互に見やっている。泣き出しそうな顔で。 
    「あなたにぶつかったのは、誰だかわからない誰か…… あなたのお祖父さんも言っていたように、わたしのたどり着いた結論もそれです。それ以上のことを、どうしても知りたいのですか?」 
    師匠は静かにそう言って真奈美さんの目を正面から見つめた。 

               ◆ 

    淡々と語り終えた師匠の声の余韻が微かに耳に残る。 
    俺は鼻を摘まれても分からない暗闇の中で、ぞくぞくするような寒気を感じていた。 
    そしてまた声。 

    595 連想Ⅰ  ◆oJUBn2VTGEウニ New! 2012/08/18(土) 23:28:49.50 ID:qKV0Rmwv0
    「土蔵から出ようとした時、地下道の白熱灯は消えたままだった。
    土蔵の中はたよりない燭台の明かりしかなかったので、入り口のそばの照明のスイッチを押したが、なぜかそれまでつかなかった。 
    カチカチという音だけが響いて、地の底で光を奪われる恐怖がじわじわと迫ってきた。
    代真奈美さんが持ってきていた懐中電灯で照らしながら進もうとしたら、いきなりその明かりまで消えたんだ。 
    叩いても、電池をぐりぐり動かしてもダメ。地面の底で真っ暗闇。さすがに気持ちが悪かったね。
    で、悲鳴を上げる真奈美さんをなだめて、なんとか手探りで進み始めたんだ。 
    怖くてたまらないって言うから、手を握ってあげた。
    最初の角を右に曲がってすぐにまた左に折れると、あとほんの五メートルかそこらで本宅の地下の物置へ通じる階段にたどり着くはずだ。 
    だけど…… 長いんだ。やけに。暗闇が人間の時間感覚を狂わせるのか。
    それでもなんとか奥までたどり着いたさ。突き当たりの壁に。壁だったんだ。そこにあったのは。 
    階段がないんだよ。上りの階段が。暗闇の中で壁をペタペタ触ってると、右手側になにか空間を感じるんだ。手を伸ばしてみたら、なにもない。通路の右側の壁がない。 
    そこは行き止まりじゃなく、角だったんだ。ないはずの三つ目の曲がり角。さすがにやばいと思ったね。
    真奈美さんも泣き喚き始めるし。泣きながら、『戻ろう』っていうんだ。 
    一度土蔵の方へ戻ろうって。そう言いながら握った手を引っ張ろうとした。その、三つ目の曲がり角の方へ。
    わけが分からなくなってきた。戻るんなら逆のはずだ。 
    回れ右して真後ろへ進まなくてはならない。なのに今忽然と現れたばかりの曲がり角の先が戻る道だと言う。
    彼女が錯乱しているのか。わたしの頭がどうかしてるのか。なんだか嫌な予感がした。 
    いつまでもここにいてはまずい予感が。真奈美さんの手を握ったまま、わたしは言った。『いや、進もう。
    土蔵には戻らないほうがいい』 それで強引に手を引いて回り右をしたんだ。 
    回れ右だと、土蔵に戻るんじゃないかって? 違う。その時わたしは直感した。 
    どういうわけかわからないが、わたしたちは全く光のない通路で知らず知らずのうちにある地点から引き返し始めていたんだ。
    三つ目の曲がり角はそのせいだ。 

    600 連想Ⅰ  ◆oJUBn2VTGEウニ New! 2012/08/18(土) 23:32:38.41 ID:qKV0Rmwv0
    本宅と土蔵をつなぐ通路には、どちらから進んでも右へ折れる角と左へ折れる角が一つずつしかない。
    そしてその順番は同じだ。最初に右、次に左だ。 
    土蔵から出たわたしたちはまず最初の角を右、次の角を左に曲がった。
    そして今、さらに右へ折れる角にたどり着いてしまった。 
    通路の構造が空間ごと捻じ曲がってでもいない限り、真っ直ぐ進んでいるつもりが、本宅側の出口へ向かう直線でUターンしてしまったとしか考えられない。心理の迷宮だ。 
    だったらもう一度回れ右をして戻れば、本宅の方へ帰れる。『来るんだ』って強引に手を引いてね、戻り始めたんだよ。
    ゆっくり、ゆっくりと。壁に手を触れたまま絶対に真っ直ぐ前に進むように。 
    その間、誰かにぶつかりそうな気がしていた。誰だかわからない誰かに。でもそんなことは起こらなかった。
    わたしがこの家の人間じゃなかったからなのか。でもその代わりに奇妙なことが起きた。 
    土蔵に戻ろう、土蔵に戻ろうと言って抵抗する真奈美さんの声がやけに虚ろになっていくんだ。
    ぼそぼそと、どこか遠くで呟いているような。そして握っている手がどんどん軽くなっていった。 
    ぷらん、ぷらんと。まるでその手首から先になにもついていないみたいだった。楽しかったね。
    最高の気分だ。笑ってしまったよ。そうして濃霧を振り払うみたいに暗闇を抜け、階段にたどり着いた。 
    上りの階段だ。本宅へ戻ったんだ。真奈美さんの手の感触も、重さもいつの間にか戻っていた」 
    チリチリ…… 
    黒い布の下でオイルランプが微かな音を立てている。酸素を奪われて呻いているかのようだ。 
    奇妙な出来事を語り終えた師匠は口をつぐむ。僕の意識も暗闇の中に戻される。息苦しい。 
    「その依頼は結局どうなったんです」 
    口を閉じたままの闇に向かって問い掛ける。 


    604 連想Ⅰ  ◆oJUBn2VTGEウニ New! 2012/08/18(土) 23:34:33.10 ID:qKV0Rmwv0
    「分からないということが分かったわけだから、達成されたことになる。正規の料金をもらったよ。
    まあ、金払いの悪いような家じゃないし。それどころか、料金以外にも良い物をもらっちゃった」 
    ガサガサという音。 
    「あった。土蔵で見つけたもう一つの古文書だよ」 
    何かが掲げられる気配。 
    「これは、そこに存在していたこと自体、真奈美さんには教えていない。彼女の祖父はもちろん知っていたようだけど」 
     それはもらったんじゃなくて勝手に取ってきたんじゃないか。 
    「なんですかそれは」 
    「なんだと思う?」 
    くくく…… 
    闇が口を薄く広げて笑う。 
    「座敷牢に幽閉されていたその男自身が記した文書だよ」 
    紙をめくる音。 
    「聡明で明瞭な文章だ。あの土蔵で起こったことを克明に記録している。
    明瞭であるがゆえに、確かに『ものぐるいなりけり』と言うほかない。それほどありえないことばかり書いている。 
    彼は三日に一度、寝ている間に右手と左手を入れ替えられたと言っている。何者かに、だ。
    左腕についている右手の機能について詳細に観察し、記述してある。 
    それだけじゃない。ある時には、右手と左足を。ある時には、右足と首を。
    そしてまたある時には文机の上の蝋燭と、自分の顔を、入れ替えられたと書いている」 
    師匠の言葉に、奇怪な想像が脳裏をよぎる。 
    「わたしがこの古文書を持ち出したのは正しかったと思っている。危険すぎるからだ。
    これがある限り、あの家の怪異は終わらないと思う。そしてなにかもっと恐ろしいことが起こった可能性もある。 
    その座敷牢の住人は、最後には自分の顔と書き留めてきた記録とを入れ替えられたと言っている」 
    書き留めてきた記録? それは今師匠が手にしているであろう古文書のことではないのか。 

    609 連想Ⅰ ラスト◆oJUBn2VTGE ウニ New!2012/08/18(土) 23:36:36.02ID:qKV0Rmwv0
    「そうだ。彼はそこに至り、ついに自分の書き記してきた記録を破棄しようとした。
    忌まわしきものとして、自らの手で破こうとしたんだ。最後に冷静な筆致でそのことが書かれている。 
    それは成功したのだろうか。彼は顔の皮を自分で引き剥がして死んでいる。彼が破いたものはいったいなんだったのか。
    そして、現代にまで残るこの古文書は、いったい……」 
    ゆがむ。闇がゆがむ。 
    異様な気配が渦を巻いている。 
    「それからだ。わたしはよくぶつかるようになった。あの地下道ではなく、明かりを消した自分の部屋や、その辺のちょっとした暗がりで。誰だかわからない誰かと……」 
    ぐにゃぐにゃとゆがむ闇の向こうから、師匠の声が流れてくる。いや、それは本当に師匠の声なのか。 
    川沿いに立つ賃貸ガレージの中のはずなのに、地面の下に埋もれた空洞の中にいるような気がしてくる。 
    「そこで立って歩いてみろよ」 
    囁くようにそんな声が聞こえる。 
    僕は凍りついたように動かない自分の足を見下ろす。見えないけれど、そこにあるはずの足を。 
    今は無理だ。 
    ぶつかる。ぶつかってしまう。 
    ここがどこだかも分からなくなりそうな暗闇の中、誰だか分からない誰かと。 
    そんな妖しい妄想に囚われる。 
    沈黙の時間が流れ、やがて目の前にランプの明りが灯される。覆っていた布を取が取り払われたのだ。
    黒い墓石に腰掛ける師匠の手にはもう古文書は握られていない。 
    「この話はおしまいだ」 
    指の背を顎の下にあて、挑むような目つきをしている。 
    そして口を開き「おじいちゃんじゃないかな、と言えばこんな話もある」と次の話を始めた。
    その言葉に反応したように、またまた別の不気味な気配がガレージの隅の一角から漂い始める。 
    降り積もるように静かに夜は更けていった。 

    (完)

    1 保育園後編 sage New!2012/06/16(土) 19:39:09.27ID:a0GyUdbC0
    キッ、となって悦子先生も立ち上がる。麻美先生も肩を怒らせながら立ち上がった。 
    それに遅れて洋子先生と由衣先生もおずおずと腰を浮かせる。 
    外へ出るのだと早合点した悦子先生がガラス戸の方へ向かいかけるのを、師匠が止める。 
    「こっちです」 
    そうして廊下へ出た師匠は玄関の方へ進んでいった。 
    三・四歳児の部屋の前を通り、事務室の前を通り抜け、玄関の奥にある階段の前で立ち止まった。 
    「上ります」 
    そう言ってから階段に足を踏み出す。僕らもそれに続いて階段を上っていく。 
    二階の廊下にたどり着くと、右手側に戸が四つ並んでいる。 
    遊戯室、0歳児室、一歳児室、二歳児室。 
    師匠は三番目の一歳児室の戸を開けた。由衣先生が担任をしている部屋だ。 
    一階と同じようにフローリングの床が広がっている。五歳児室よりも少し狭いようだ。
    位置で言うと、一階の三・四歳児室の真上ということになる。 
    休園日のためか、窓のカーテンが閉められていて少し薄暗い。 
    全員が部屋に入ったことを確認してから師匠がその窓際に近づいていく。 
    「仮に、です。雷が鳴った瞬間、たまたま窓際にいたとしましょう。それも窓に背を向けて。
    そして外が光る。雷が鳴る。驚いた由衣先生は振り向く」 
    師匠はそう喋りながら振り向いて、窓のカーテンに手を突く。 
    「おっと、まだ外は見えませんね」 
    嫌らしくそう言ってから、カーテンの裾をつかんで開け放つ。ジャッ、というレールを走る音がして、外の光が飛び込んでくる。 
    「さあ、カーテンは開きましたよ! タオルはどこに見えます?」 
    師匠は声を張った。 

    413 保育園後編 sage New!2012/06/16(土) 19:41:34.81ID:a0GyUdbC0
    僕らは思わず窓際に近寄って、同じように外を見下ろす。 
    なんの変哲もない園庭の光景が眼下に広がっている。 
    タオルは五歳児室の正面の木に引っかけたはずなので、隣の三・四歳児室の真上に位置するこの部屋からは少し左斜め前方に見えるはずだ。 
    みんなそちらの方向を見つめる。 
    しかし白いタオルは見えなかった。 
    先生の誰かが言った。 
    「ここからじゃ、角度が」 
    そしてハッと息を飲む。 
    師匠が写真を掲げて見せる。 
    魔方陣が写った園庭の写真だ。 
    「二階の部屋、正確には隣の二歳児室から撮影されたこの写真は、フェンス際の木まで写ってはいますが、葉が茂っているせいで、幹に近い枝にかかったタオルは見えません。 
    悦子先生の証言では、魔方陣が見つかった時にもタオルはあったということでしたね。ちょうどこの写真が撮られた時です。 
    なのに、写真には写っていない。葉が邪魔して見えないんですよ。二階の窓から構えたカメラからは」 
    師匠は両手の親指と人差し指でファインダーを作り、ニヤリと笑った。 
    「つまり、二階の窓からの視線ではね」 
    こんな風に。 
    そう言って、僕がさっき白いタオルをかけたはずの木に向かって「カシャッ」と口でシャッターを切った。 
    みんな驚いた顔で師匠を見ている。そしてその視線がやがて由衣先生に集まる。 
    「私じゃない!」 
    由衣先生はそう言ってその場にへたり込んだ。顔を覆ってわなわなと震えている。 
    「外には出ました。でも私じゃない」 
    そう呻いて、啜り泣きを始めた。 
    他の先生が「落ち着いて、ね?」と言いながら背中をさすっている。 
    師匠はその様子を冷淡に見下ろしている。 
    しばらくそうして啜り泣いていたが、ようやくぽつぽつと語り始めた。自分の口から、あの日あったことを。 

    ◆ 

    416 保育園後編 sage New!2012/06/16(土) 19:46:23.47ID:a0GyUdbC0
    きっかけはその事件の数日前だった。 
    園児たちがみんな帰宅し、他の先生たちも順次帰っていった後、由衣先生は一人で園に残って、書きかけの書類を仕上げていた。七時を過ぎ、その残業にもようやく目処がついたころ、ふいに来客があった。 
    スーツを着て、立派な身なりをしていたので、保護者が忘れ物でも取りに来たのかも知れないと思い、門のところまで出て行くと、その男性は頭を下げながら『沼田ちかの父です』と言うのだ。 
    沼田ちか。 
    その時初めて不審な思いが湧いた。 
    とっさにそんな子はうちにはいませんが、と口にしそうになった瞬間、その名前とそれにまつわる事件のことを思い出した。 
    数年前、この保育園に通っていた沼田ちかちゃんという女の子がいたことを。 
    片親だったその子は他の子と家庭環境が違うことを敏感に感じ取り、園でもあまりなじめなかったそうだ。 
    そして五歳児、つまり年長組になったころから、ようやく友だちの輪にも入れるようになり、毎日だんだんと笑顔が増えていった。 
    そんなおり、ある週末にお祖母ちゃんにつれられて、買い物に行こうとしていた時、歩道に乗り上げてきたダンプカーに二人とも跳ねられてしまった。 
    居眠り運転だった。お祖母ちゃんの方は助かったが、ちかちゃんは内臓を深く傷つけていて、治療の甲斐なく亡くなってしまった。 
    当時担任だったという先輩の保育士からそのことを聞いて、とても胸が痛んだことを覚えている。 
    由衣先生は緊張して、『ちかちゃんのお父さんですか』と言った。 
    男性は静かに目礼して、懐からぬいぐるみを取り出した。 
    小さなクマのぬぐるみだった。 

    418 保育園後編 sage New!2012/06/16(土) 19:49:30.01ID:a0GyUdbC0
    『ちかの好きだったぬいぐるみです』 
    これを、園庭に埋めてもらえないだろうか。 
    男性は深く頭を下げてそう頼むのだった。 
    『私は明日この街を去ります。せめてちかが、この街で生きていた証に』 
    由衣先生は最初断った。 
    しかし、繰り返される男性の懇願についに折れてしまった。 
    『ありがとう。ありがとう。きっとちかもお友だちと遊べて幸せでしょう』 
    涙を拭う男性の姿に、思わずもらい泣きをしてしまいそうになったが、男性が去ったあと、託されたぬいぐるみを手にして由衣先生は少し薄気味が悪くなった。 
    最後の言葉。まるであのお父さんは、このぬいぐるみがちかちゃん自身であるかのように話していた気がする。 
    どうしよう。 
    捨ててしまおうか。 
    そう思わないでもなかった。
    しかし結局、由衣先生は、男性の想いのとおりそのクマのぬいぐるみを園庭に埋めてあげることにした。 
    捨ててしまうことで、お父さんの、あるいはちかちゃんの恨みが自分自身に降りかかって来るような気がしたのだ。 
    花壇の方へ埋めようかとも思ったが、誰かに掘り返されるかも知れない。 
    それにお父さんは『園庭に』と言いながら、園庭の真ん中を指差して頼んでいたのだ。 
    フェンスの根元のあたりなどではなく、園児たちが遊ぶその園庭の真っ只中に埋めて欲しい。そういう希望なのだった。 
    由衣先生はその夜、苦労してスコップで穴を掘り、園庭の真ん中にぬいぐるみを埋めた。
    そして上から土を被せ、何度も踏んでその土を固めた。 
    最後に物置から出してきたトンボで地ならしをして、ようやくその作業が終わった。
    どっと疲れが出て、残っていた書類も仕上げないまま、家路についた。 
    そんなことがあった数日後だ。 

    420 保育園後編 sage New!2012/06/16(土) 19:52:41.51ID:a0GyUdbC0
    十一時ごろに雨が降り始め、わあわあ騒ぎながら子どもたちが園舎に駆け込んでいくのを二階の一歳児の窓から見ていた。 
    雨脚は強くなり、やがて土砂降りになった。 
    受け持ちの子どもたちに食事をさせ、そして寝かしつけている間も気はそぞろだった。 
    『雨でぬいぐるみが土から出てきたらどうしよう』 
    しっかり踏み固めたつもりでも、やっぱり周りの地面より柔らかくて土が流されてしまうのではないだろうか。 
    そう思うといてもたってもいられなかった。 
    もし園庭に埋めたぬいぐるみが園長先生にでも見つかったら、大目玉だ。 
    ちかちゃんのお父さんにどうしてもと頼まれた、と言ってもそんな言い訳が通じないことはこれまでの付き合いでよく分かっている。 
    子どもがみんな寝てしまった後もしばらく迷っていたが、とうとう由衣先生は決意して部屋を出る。 
    二階から階段で降りると、すぐに玄関の方へ向かうと事務室からは見つからない。 
    傘立てから自分の青い傘を手に取り、それを広げながらサンダルをつっかけて外へ出る。 
    外はまだ黒い雲に覆われて薄暗いが、雨脚は少し弱まって来ているようだ。 
    ぬかるんだ土に足を取られながらもようやく園庭の中ほどまでやってくる。ぬいぐるみを埋めたあたりだ。 
    しばらく傘をさしたまま、その場で無数の雨が叩く地面を見回していたが、どうやらぬいぐるみは土から出てきてはいないようだと判断する。 
    大丈夫かな。 
    少しホッとして玄関の方へ戻っていく。雨に多少濡れても早足でだ。
    もしこの大雨の中、外に出ていることを他の先生に見つかると、言い訳が面倒だ。 
    もし見つかったら、鍵かなにかを落としてしまって探しにいったことにしよう。 
    そう考えながら歩いていると、ふいに視界に白い光が走り、間髪いれずに雷が鳴った。 
    それほど音は大きくなかったが、かなり近かった気がして思わず振り向いた。 
    しかし特に異変はなかった。 
    園舎に早く戻ろうと、玄関に足を向けかけたとき、一瞬、視界の端にあった木の枝に緑色のタオルがかかっているのが見えた…… 

    ◆ 

    423 保育園後編 sage New!2012/06/16(土) 19:57:04.53ID:a0GyUdbC0
    「私じゃないんです」 
    もう一度そう言って由衣先生は啜り上げた。 
    部屋に戻って、しばらく経ってから悦子先生の悲鳴に驚いて外を見てみると、雨が上がった園庭に魔方陣が描かれていたのだという。 
    さっき外に見に行った時には、そんなもの影も形もなかったのに! 
    そう思うと怖くなってしまった。 
    自分が外へ出ていたことを話してしまうと、ぬいぐるみのことがバレてしまうかも知れない。
    まして魔方陣を描いた犯人に疑われてしまうかも知れないのだ。 
    由衣先生は、外へ出たことを黙っていようと心に決めた。 
    悦子先生たちが怪奇現象専門の探偵にこの事件のことを依頼するといって盛り上がっていても、そっとしておいて欲しい、という気持ちだったが仲間はずれにされることが怖くて、流されるままにお金も出し、こうして休みの日に園へ出て来ているのだった。 
    「でも私じゃないんです」 
    声を震わせる由衣先生を見下ろしながら、師匠は困ったような顔をした。 
    あの顔は、謎が解けてないな。 
    僕はそう推測する。 
    そもそもこの事件には、魔方陣を描いた犯人が保育士の誰かであれ、園児であれ、また門扉やフェンスをよじ登った侵入者であれ、大雨の後、魔方陣がくっきり残っているのに、足跡が残っていないという重大な問題がある。 
    結局そのことはたな晒しにしたままだが、師匠的には雨の中外へ出ていた人物が見つかれば、そのあたりも勝手に告白してくれるだろうと踏んでいたに違いない。 
    しかし由衣先生は、自分ではないと言い張っている。 

    425 保育園後編 sage New!2012/06/16(土) 19:59:39.63ID:a0GyUdbC0
    辻褄は一応は合っているし、ちかちゃんのお父さんのお願いから始まるあの話がとっさの作り話とも思えない。 
    おおむね本当のことを言いながら、魔方陣を描いた部分だけを上手く端折って話したにしても、その動機や、足跡を残さずに魔法陣だけ残してその場を去ったウルトラCに関するエピソードがこっそり入り込む余地があるようにはとても思えなかった。 
    「うーん」 
    師匠は頭を掻いている。 
    そう言えば、ここ数日風呂に入っていないと言っていたことを思い出した。 
    困った末なのか、単に頭が痒いのか分からないが、しかめ面をして唸っている。 
    泣いている由衣先生の背中をさすっている他の先生たちも、困惑したような表情をしている。麻美先生など、露骨に不審げな顔だ。 
    「今の話が本当だとするとですよ」 
    師匠はようやく口を開く。 
    「雷が鳴って、五歳児の部屋から悦子先生がカーテン越しに外を見た時、まだ由衣先生は外にいたことになる。 
    どうして見つからなかったのかという問題が…… ああ、いや、そうか。玄関の近くまで戻っていたら、角度的に五歳児室からは見えないか。 
    ううん。まあとにかく、雨が弱まり始めたころ、まだ魔方陣は現れていなかったわけですよね。 
    雷が鳴って、由衣先生が園舎に戻り、しばらくして雨が止む。その雨が止んだ二時ごろに悦子先生が外に出る。
    あまり時間がありませんね。一体誰がどのタイミングで、どうやって?」 
    後半はほとんど独り言のようになりながら、師匠がなにげなく窓の外を見た時、その動きがピタリと止まった。 
    「なにっ」 
    緊迫したその声に、思わず視線を追って窓の外を見下ろす。 
    園庭の真ん中。 
    さっきまでなんの異変もなかったその園庭の真ん中に、なにかがあった。 
    師匠が窓から飛び出しそうな勢いで身を乗り出す。 

    427 保育園後編 sage New!2012/06/16(土) 20:03:48.85ID:a0GyUdbC0
    「うそだろ」 
    そんな言葉が僕の口をついた。 
    魔方陣だ。 
    魔方陣が、園庭の真ん中に忽然と現れていた。 
    馬鹿な。 
    タオルはどこに見えます? 
    師匠がそう言った時、みんな外を見ている。ついさっきのことだ。その時は間違いなくそんなものはなかった。 
    だが今、眼下に間違いなく魔方陣は存在している。 
    写真に写っているものにそっくりだ。 
    場所も、この部屋からは左斜め。つまり、五歳児室の正面のあたりであり、九日前に現れたというその場所とまったく同じだ。 
    背筋に怖気が走った。 
    なんだこれは。 
    保育士たちも言葉を失って悲鳴を飲み込んでいる。 
    由衣先生など、ほとんど気絶しかかっている。
    「下に行け。誰も見逃すな」 
    師匠から短い指示が飛ぶ。 
    あれを地面に描いたやつのことか。 
    しかし今この園にはこの部屋にいる六人の他、誰もいないはずだ。誰かずっと隠れていたというのか。それとも侵入者? このタイミングで? 
    おかしい。明らかにおかしい。 
    僕たちの誰にも見られず、あの一瞬であんなものを園庭の真ん中に描くなんて、尋常じゃない。 
    ゾクゾクと寒気が全身を駆け回る。 
    しかしそんな僕を尻目に、身を乗り出していた師匠が窓枠に足を掛け、「早く行け」と叫んでそのまま窓の外へ消えた。 
    落ちた? 
    そう思って窓へ駆け寄ったが、その真下で砂埃の中、師匠が立ち上がるところが見えた。 

    429 保育園後編 sage New!2012/06/16(土) 20:14:13.31ID:a0GyUdbC0
    受身を取ったのか。とんでもないことをする人だ。 
    だがそれを見てまだぐずぐずしているわけにはいかなかった。すぐさま部屋から出て廊下を抜けて階段を駆け下りる。 
    一階に降り立ったが、廊下側にも玄関側にも人の姿はなかった。
    視界の隅、それぞれの部屋に誰が消えていく瞬間にも出会わなかった。 
    すぐに下駄箱の前を走り抜け、スリッパのまま外に出る。 
    左前方に師匠の姿が見える。 
    そちらに駆け寄ろうとするが、とっさに右手側の門扉を確認する。閉まったままだ。誰かが逃げていった様子もない。 
    あらためて師匠のいる方へ走り出すと、すぐさま怒鳴り声が飛んでくる。 
    「待て、うかつに近寄るな」 
    師匠が右手の手のひらだけをこちらに向けて、顔も見せずにそう言うのだ。 
    僕は思わずダッシュをランニングぐらいに落とす。 
    「誰も外へ出すな」 
    次の指示を聞いて、振り向くと玄関から保育士たちがおっかなびっくり顔を覗かせている。 
    「出ないでください」 
    僕がそう叫ぶと、びくりとしてみんな玄関に引っ込んだ。そしてまた顔だけを伸ばしてこちらを見つめる。 
    その様子を見てから、僕はゆっくりと師匠の方へ目を向ける。 
    足跡が乱されるのを恐れているのか、と一瞬思った。が、雨の日とは違い、もとから薄っすらとした無数の足跡で園庭は埋め尽くされている。 
    これでは足跡は追えないだろう。 
    そう思ってまた師匠の方へ近づいていくと、その背中が異様な緊張を帯びていることに気づいた。気配で分かる。 
    あの緊張は、師匠が会いたくてたまらないものに出会えた時の、そして畏れてやまないものに出会えた時の…… 
    「静かに、こっちに来い」 
    そろそろとした声でそう言う。 

    431 保育園後編 sage New!2012/06/16(土) 20:19:43.45ID:a0GyUdbC0
    僕はそれに従う。 
    師匠の足元に魔方陣がある。 
    だんだんと近づいていく。 
    大きな円の中に、三角形が二つ交互に重なって収まっている。ダビデの星だ。 
    だんだんと近づいてくる。 
    そしてその星と円周の間になにか奇妙な文字のようなものがあり、ぐるりと円を一周している。 
    魔方陣。 
    魔方陣だ。 
    写真で見たものと同じ。 
    だが、僕はその地面に描かれた姿に、一瞬、言葉に言い表せない奇怪なものを感じた。 
    それがなんなのか。 
    何故なのか。 
    知りたい。 
    いや知りたくない。 
    足は止まらない。 
    師匠の背中が迫る。 
    キリキリと空気の中に刃物が混ざっているような感じ。 
    「見ろ」 
    師匠がそう言う。 
    僕はその横に並び、足元に描かれたその模様を見下ろす。 
    心臓を、誰かに掴まれたような気がした。 
    足跡が、残っていなかったわけがわかった。 
    師匠が異様に緊張しているわけがわかった。 
    あの一瞬で、誰にも見られずにこれが描かれたわけがわかった。 

    433 保育園後編 sage New!2012/06/16(土) 20:30:08.73ID:a0GyUdbC0
    傘じゃない。 
    傘の先なんかで描かれたんじゃなかった。 
    写真で見ただけじゃわからなかったことが、ここまで近づくとよくわかった。 
    その円は、重なった二つの三角形は、そして何処のものとも知れない文字は。 
    地面を抉ってはいなかった。 
    その逆。 
    土が盛り上がって作られている。 
    まるで誰かが、土の底、地面の内側から大きな指でなぞったかのように。 
    「うっ」 
    吐き気を、手で押さえる。 
    ついさっきまで、なにも感じなかったはずの園庭に、今は異常な気配が満ちている。 
    とても『残りカス』などと評されたものとは思えない。全く異なる、底知れない気配。 
    地中から湧き上がって来る悪意のようなもの。 
    僕は地の底から巨大な誰かの顔が、こちらを見ているような錯覚に陥る。 
    そしてその視線は、気配は、すべて、緊張し顔を強張らせる師匠に向かって流れている。 
    その凍てついたような空気の中、師匠は滑るように動き出し、腰に巻いていたポシェットから小さなスコップを取り出した。
    そして魔方陣の中に足を踏み入れ、その刃先を円の真ん中に突き立てた。動けないでいる僕の目の前で、師匠は土を掘る。 
    ガシガシ、という音だけが響く。 
    やがてその手が止まり、左手が地面の奥へ差し入れられる。 
    左手がゆっくりと何かを掴んで地表に出てくる。 
    人の手。 
    黒く、腐った人間の手。 
    ゾクリとした。 
    誰の手。 
    誰の。 

    435 保育園後編 sage New!2012/06/16(土) 20:43:29.33ID:a0GyUdbC0
    だが師匠がそれを胸の高さまで持ち上げた瞬間、それが人形の手であることに気づく。 
    マネキンの手か。 
    土で汚れた黒い肌に、かすかな光沢が見える。肘までしかない、マネキンの手。 
    クマのぬいぐるみなどではなかった。どういうことなのか。 
    「トンボ」 
    師匠がボソリと言う。そして僕を促すように反対の手で招くような仕草をする。 
    意図を知って僕は振り向き、園舎の方へ走り出す。その場を離れたかった、という気持ちがないと言えば嘘になる。 
    地面の内側から描かれたような魔方陣。立ち込める異様な気配。魔方陣の中に埋められたマネキンの手。 
    ただごとではなかった。その場に立ち会うには、僕はまだ早すぎる。そんな直感に襲われたのだ。 
    走ってくる僕に、怯えたような表情をした保育士たちだったが、「トンボを借ります」と言うと、玄関から出てきて、裏手の物置へ案内してくれた。 
    取っ手の錆びついたトンボを引きずりながら園庭に出てくると、煙が立っているのが見える。師匠が魔方陣の上で、マネキンの手を燃やしているのだ。 
    黒い煙がゆらゆらと立ち上っている。 
    ポシェットに入っていたらしい小型のガスボンベにノズルを取り付けて、ライターで火をつけ、バーナーのように使っていた。 
    煙を吸わないように服のそでを口元に当てながら、師匠はそうしてマネキンの手を燃やしていった。 
    やがて燃えカスを蹴飛ばし、僕に向かって「トンボ」と言う。手渡すと師匠はためらいもなく魔方陣を消した。
    ワイパーで汚れを取るように。 
    地面がすっかりならされ、魔方陣など跡形もなくなったころ、師匠は僕に顔を向けた。 

    437 保育園後編 sage New!2012/06/16(土) 20:51:22.17ID:a0GyUdbC0
    「解決」 
    そうして笑った。 
    だがその顔はどこか強張り、額から落ちる汗で一面が濡れている。 
    地中深くから湧き上ってくるようなプレッシャーもいつの間にか霧散していた。 
    それからまた僕らは園舎に戻り、五歳児室で車座に座った。 
    保育士たちは、忽然と現れた魔方陣とそこから出土したマネキンの手に、今でも信じられないという様子で生唾を呑んでいる。 
    やがてクマのぬいぐるみを埋めた、と証言した由衣先生が、あんなものは知らないと喚いた。だが、現実に出てきたのはマネキンの手だ。 
    落ち着かせようと優しい言葉をかける悦子先生の横で、麻美先生が口を開く。 
    「私も聞いた話で、自信がなかったんだけど。やっぱり間違いない。沼田ちかちゃんは、確か母子家庭だったはず」 
    父子家庭じゃなくて。 
    それも蒸発などではなく、死別だったはずだ、と言うのだ。 
    ではあの夜、由衣先生の前に現れてぬいぐるみを託したの男は誰なのだ。そもそもそれは本当にぬいぐるみだったのか。 
    疑いの目が由衣先生に集まる。 
    「知らない。私知らない」 
    錯乱してそう繰り返すだけの由衣先生に、師匠は取り成すように告げる。 
    「記憶の混乱ですね。この園に巣食っていた霊の仕業でしょう。ですがそれももう終わったことです。元凶はさっき私が燃やしてしまいましたから。もう何も霊的なものは感じられません。これでおかしなことは起こらないはずです」 
    きっぱりとそう言った師匠に、先生たちはどこか安堵したような顔になった。 
    「もしなにかあったら、アフターサービスで駆けつけますよ。いつでも呼んでください」 
    その笑顔に、みんなころりと騙されたのだ。 
    解決などしていなかった。 

    439 保育園後編 sage New!2012/06/16(土) 20:52:34.26ID:a0GyUdbC0
    これまでにこの保育園で起こっていた怪奇現象の原因は恐らく、師匠が感じていた『残りカス』の方だろう。 
    だがそれはもう消え去っている。 
    いつ? 
    たぶん、魔方陣が最初に現れた日。いや、ちかちゃんの父親を名乗る男が得体の知れないなにかを携えてやって来た日かも知れない。 
    それは、そんなごく普通の悪霊など、近づいただけで吹き飛ばされて消えてしまうような、底知れない力を持ったものだったのだろうか。 
    だが師匠はなにも言わなかった。 
    ただ僕たちはお礼を言われて、その保育園を出た。去り際、悦子先生がまだ泣いている由衣先生を叱咤して、「ほら、しっかりして。もう大丈夫だから」と肩を抱いてあげていた。 
    まあ、これはこれで良かったのかな、と僕は思った。 
    その帰り道、事務所へ向かう途中で、師匠は文具屋に立ち寄り、市内の地図を買った。 
    かなり詳細な地図だ。 
    そしてその場でそれを広げ、さっきの保育園が載っている場所に、マーカーで印をつけた。日付と、魔方陣の絵。そしてマネキンの手の図案を添えて。 
    「それをどうするんですか」 
    僕が訊くと、師匠ははぐらかすように言った。 
    「どうもしないよ。けど、なんとなく、な」 
    その時の師匠の目の奥の光を、僕は今も覚えている。なんだか暗く、深い光だ。 
    それを見た時の僕は、なんとも言えない不安な気持ちになった。 
    死の兆し。 
    それをはっきり意識したのは、その時が最初だったのかも知れない。 

    (完) 

    1 保育園 中編 sage New!2012/06/08(金) 19:49:20.44ID:WMI9l70o0
    「方法はともかく、誰がやったかということです。この中に犯人を知っている、という人は?」 
    反応がない。あたりまえか。 
    「では、まず考えるべきは部外者でしょう。この保育園の敷地の出入り口は、あっちの正門だけですね」 
    角度的に今いる場所からは見えないが、師匠は右手方向を指さす。 
    「そうです」 
    「普段は開けておくのですか」 
    「送迎の時間帯以外はほとんど開けません。それ以外の時間だと、出入りの業者さんが来た時とか……」 
    「その雨が降っていた時間帯も閉めていたと」 
    「はい」 
    「でも外からも開けられるんでしょう」 
    さっき来る時に、門の構造を見てきたのだ。 
    二メートル少々の長さの、下部についた滑車でスライドさせるレール式門扉であり、重そうではあったが、つっかえ棒になるバーをずらしただけで鍵をかける単純な仕組みになっていた。 
    外からでも手を伸ばしてさし入れれば、バーは操作できる。 
    「でも、門を動かせば凄い音がします」 
    かなり錆びてますから。 

    330 保育園 中編 sage New!2012/06/08(金) 19:50:21.34ID:WMI9l70o0
    麻美先生と呼ばれた保育士が口を開いた。確か三・四歳児の担任の先生だ。 
    女性にしてはガッチリした体格で、袖から覗く腕などかなり太い。このメンバーではリーダー格の悦子先生に告ぐ二番手といったところか。 
    後の二人は年も若く、大人しそうにしていてまったく口を挟んで来ない。 
    「その音が聞えなかった、ということですね。雨が降っていて、戸を閉め切っていても聞えないものでしょうか」 
    「じゃあ試しに……」 
    麻美先生が立ち上がるとガラス戸から外へ出て行った。 
    僕らも戸口まで行って門の方を覗き込むと、麻美先生がふんと力を入れた瞬間に、門は物凄い音を立てながら横に滑り始めた。 
    僕は思わず耳を塞いだ。あまり好きな音ではない。 
    しかしなるほど、これなら雨が降っていて、かつ戸を閉めていたところでまず間違いなく聞えるだろう。 
    「ありがとうございます。良く分かりました」 
    麻美先生が戻って来てから師匠は口を開く。 
    「でも門はそれほど高くありません。乗り越えようと思えば乗り越えられない高さではないはずです。 
    それに園庭側の敷地の周囲のフェンスもいわゆる金網ですから、よじ登っていけば越えられるはずです。 
    園舎側のブロック塀は足場のない外からだと厳しいかも知れませんが」 
    「それはそうですけど」 
    悦子先生が不満そうに言う。 

    331 保育園 中編 sage New!2012/06/08(金) 19:53:14.85ID:WMI9l70o0
    「まあ、それだけ目立つリスクを負った外からの侵入者が犯人だとしても、やはり足跡の問題は残ります。
    門からもフェンスからも魔方陣は遠すぎますから」 
    師匠は部外者説を簡単に切り上げ、次の説に移した。 
    「では、次に園の先生の誰かが犯人である可能性は?」 
    おいおい、まだやるのか、と僕は思った。 
    悦子先生たちは心霊現象の専門家としての師匠の噂を聞いて解決のために依頼して来たのに、当の師匠はまるでこの事件がただのイタズラであるかのように聞き込みを続けている。 
    先生たちも鼻白んだ様子を隠さなかった。 
    「そんなことをするような人はいません」 
    悦子先生が代表してそう宣言した。 
    師匠は少し下手に出るようにおどけた仕草を見せて「もちろんそうでしょう、そうでしょうけど、これも必要な確認ですから」と話を続けた。 
    「その時いた職員では、今ここにいらっしゃる四人の他にどういった方が?」 
    不承不承、といったていで悦子先生が答える。 
    「まず園長先生です」 
    「ああ、そうでしたね。それで他には」 
    「主任保育士の美佐江先生。0歳児の担任が三人いて、時子先生と美恵子先生と理香先生。あと調理員の本城さんと青木さん。
    これで全員です」 
    「その調理員のお二人も女性ですか」 
    「そうです」 
    その日の職員全員が女性だったというわけか。保育園では珍しくないのかも知れないが。
    しかしメモしないと覚えきれないぞこれは。 
    僕が手帳に名前を書き付けている間に「臨時職員とかは?」と続けて師匠が問い掛ける。 
    これには麻美先生が答えた。「忙しくなる送迎の時間にだけ来てくれるパートの方はいますが、そのことがあった時間帯にはいませんでした」 
    「なるほど。では全部で、十一人と。『11人いる!』なんて漫画がありましたね」 
    師匠の軽口にどの先生も一瞬反応を見せた。 

    333 本当にあった怖い名無しsage New! 2012/06/08(金) 20:04:08.13 ID:KFRephPs0
    ウニの作品を勝手に貼るなよ 

    しかも途中から 

    通報するぞ 

    334 保育園 中編 sage New!2012/06/08(金) 20:21:41.49ID:WMI9l70o0
    ちょうど世代ということか。かくいう僕も男だてらに読んだ口だが。 
    「まあそれはいいとして、問題の時間帯にそれぞれの方がどんなことをしていたか、分かる範囲で教えてもらっていいですか」 
    それから四人の保育士の話を聞いたところをまとめると、おおむねこういうことになるようだ。 
    十一時ごろ雨が降り出して、園庭で遊んでいた園児たちは全員室内に戻される。 
    それから昼の食事。保育士も一緒に食べるのだが、食育、といって園児の食事時間中も仕事のうちだ。 
    食事が終わると、絵本の読み聞かせをし、その後は園児たちを着替えさせて昼寝をさせる。 
    この時点で十二時過ぎ。
    園庭に出ていない二階の0歳児から二歳児の部屋でも十一時の昼食の後は、昼寝の時間だ。 
    先生たちは寝ている子どもたちの様子を見ながら、それぞれ部屋の中の自分の机で主に連絡帳をつけて過ごしている。 
    昼寝の時間中、十二時四十五分に簡単な打ち合わせのため、一度先生たちは事務室に集まっている。 
    その際、0歳児の部屋からは代表で時子先生だけが参加している。
    それ以外の時間は各先生ともトイレに立つぐらいで特に部屋の外に出ることもなかった。 
    園長と主任保育士は各部屋の食事や昼寝前の着替えなどを手伝い、別同部隊として自由に移動している。昼寝の時間になると二人とも事務室にこもり、様々な雑事をして過ごしている。 
    なお、この二人の動きについては推測となるが、魔方陣発見後の証言から、少なくとも外へは出ていないようだ。 
    337 保育園 中編 sage New!2012/06/08(金) 20:24:55.90ID:WMI9l70o0
    残る調理員二人については、園児の食事終了後、食器洗いなどの片付けのために調理室にずっといたらしい。 
    このあたりの行動は日々のルーチンであって、ほぼ間違いのないところだそうだ。 
    「なるほど。だいたい分かりました」 
    師匠はそう言うと、僕も疑問に思っていたことを続けて口にした。 
    「先生の休憩時間はないんですか」 
    その言葉に悦子先生が反応する。 
    「ないんですよ! おかしいでしょう。昼食の時間だって食育だし、昼寝中もずっと子どもたちを見てないといけないし。 
    連絡帳だってちゃんと書かないといけないのに、その昼寝の時間くらいしかないんですよ、書く時間。いつ休憩とったらいいんですか、私たちは」 
    日ごろからの不満が堰を切って出てくるのに、師匠は渋い顔をした。 
    「保育園によってはねぇ」と麻美先生が口を挟む。「園長先生とか主任とかフリーの先生が交代で子どもを見てくれて、順番に休憩取ってるとこもあるんだけど」 
    うちはねえ…… 
    そんな溜め息をつきながら四人の保育士たちは顔を見合わせる。
    どうやら園長を中心とした今の体制に大いに不満を持っているようだ。 
    それとなく師匠が話を振ると、今日来ていない0歳児の担任の三人と主任保育士は完全な園長派らしいことが分かった。 

    338 保育園 中編 sage New!2012/06/08(金) 20:26:26.34ID:WMI9l70o0
    女性ばかりの職場だ。そういう人間関係のややこしさもあるのだろう。 
    まだまだ出てきそうな不満に、師匠は「まあまあ、とりあえずは分かりました」と話を一度切る。 
    「とにかく、雨が降っている間は誰も外に出ていないと、そういうことですね」 
    先生たちが頷くのを見回してから、師匠は続けた。 
    「では園児たちはどうでしょう」 
    これにもすぐに反論がある。 
    「出ていません。食事の時間も昼寝の時間もずっと私たちが部屋で見てたんですから」 
    「でも昼寝の時間には一度事務室に集まっているし、トイレに立った時間もあります」 
    「外は大雨ですよ。音も凄いです。カーテンを閉めてやっと寝かしつけたのに、子どもの誰かがガラス戸をあけて外へ出ようとしたら、他の子も起き出します。 
    絶対に。打ち合わせは十分もかかってないです。 
    その起きてしまった子どもたちが、私が戻ってきた時に一人残らず布団で大人しく寝てる、なんてありえません」 
    悦子先生の言葉に他の先生も頷いている。 
    「しかし出入り口はガラス戸だけじゃないでしょう。こっちの廊下側の戸から出て、玄関に向かえば、他の子を起こさずに外へ出られる」 
    この師匠の意見も鼻で笑われた。 

    339 保育園 中編 sage New!2012/06/08(金) 20:27:26.26ID:WMI9l70o0
    「事務室の戸は開けっ放しです。しかも園長先生の机がすぐ横にあるから、子どもが廊下を通り過ぎようとしたら絶対に気づきます。 
    昼寝の時間に外へ出ようとしたら、凄く怒られるので、子どもたちはみんな園長先生を怖がってます」 
    「分かりました。念のために訊きますが、その日、園長先生は誰も外へ出てないと言ってるんですね」 
    「はい」 
    なるほど。先生たちの間でも子どものイタズラの可能性は一応検討されたのか。しかしそれも園長の証言で否定された。 
    「一階の子どもたちはそれでいいでしょう。でも二階の子どもたちはどうです。 
    この園舎の構造上、二階の階段から降りてくれば、事務室の前を通らずにそのまま玄関から外へ出られるのではないですか」 
    「二階の子は、一番上でも二歳児ですよ。その日の午前中も外ヘは出していません。 
    一人で出て行くなんて…… 第一、外へ出ても二歳児にあんなもの描けるもんですか」 
    悦子先生の言葉に、僕もハッとした。 
    そうだ。魔方陣なのだ。 
    二歳児が五歳児だろうと、そもそもそんなものを子どもが描けるものだろうか。 
    思わずもう一度くだんの写真を覗き込む。 
    園庭に描かれた円の中には幾何学的な模様が浮かび上がっている。適当にイタズラで描いたものとは思えない。そこにはなんらかの意図が感じられる。 
    あらためて気持ちが悪くなってきた。 
    「これ、どうやって描いたんだろうな」 
    ふと思いついたように横から師匠がそう言う。 
    「木切れとかでガリガリやったんですかね」 
    「そんなもの落ちてるか、保育園に」 
    しかし手で描いたとも思えない。 
    「傘、じゃないでしょうか」 
    おずおずと、当の写真を撮った二歳児の担任の洋子先生が言う。 
    「その日は雨が降るかも知れないっていう予報だったから、みんな傘を持って来ていました。下駄箱のところの傘立てに一杯置いてありましたから」 
    なるほど。傘の先で地面をガリガリとやったわけか。 
    「傘立ては玄関のところと?」 
    「一階の部屋の外の下駄箱にもあります。一階の子はそこから出入りするので」 
    「傘か……」 

    341 保育園 中編 sage New!2012/06/08(金) 20:36:19.00ID:WMI9l70o0
    師匠はそう呟いて立ち上がり、開け放しているガラス戸のそばに立って外を見つめる。 
    そしてくるりと振り返ると、「カーテンはすべて閉めていたんですよね」と訊いた。 
    外は大雨だったのだ。一階の部屋だけではなく、二階の部屋も、そして事務室や調理室もすべてカーテンが閉まっていたと、先生たちは証言した。 
    「子どもたちの傘はカラフルです。誰かがその傘を手にして地面に魔方陣を描こうとしたら、カーテンの隙間から見えてしまったりはしないですか。 
    いや、もし魔方陣が描かれたのが雨が降っている間だったとしたら、その誰かは地面に描く道具としての傘だけではなく、自分がさすための傘も一緒に手にしたのではないでしょうか。だとすれば目立ちますね。ほんの少しでもカーテンの隙間があれば……」 
    先生たちの間に動揺が走った。 
    師匠はそれを見逃さない。 
    「なにかありましたね」 
    促されて悦子先生が口を開く。 
    「私が担任をしているアキラくんが……」 
    青いものを見た。 
    そう言っているらしい。 

    342 保育園 中編 sage New!2012/06/08(金) 20:57:26.33ID:WMI9l70o0
    昼寝の時間に、ふと目が覚めたとき、ガラス戸のカーテンの隙間から青い色のなにかを見たのだと。雨の中に。 
    気にせずまた寝てしまったが、絶対に見たんだと言い張っている。 
    他の子は誰もそんなことを言っていない。五歳児のアキラくんだけの証言だ。 
    「青いもの、ですか。この部屋からですよね」 
    師匠は外を見つめる視線を険しくする。 
    園庭の向こうにはフェンス沿いに木が並んでいる。まさかその枝葉のことではあるまい。 
    「青い傘を持って来ている子は?」 
    という師匠の問いに、「いっぱいいると思います」という答えがあった。 
    先生の中にも青い傘を持って来ている人は何人かいて、その日、玄関の下駄箱にも確実に青い傘はあったのだそうだ。 
    「まあ、魔方陣と関係があると決まったわけでもありませんが」 
    師匠はそう言ったが、あきらかになにか疑っている顔だ。 
    「その日、十一時から二時までの間しか雨は降っていません。降り出してからはすぐにみんな園舎に入り、その後誰も雨が上がるまで外に出ていません。 
    確実に言えることは、雨が上がって騒動が持ち上がった時、濡れた傘が一本、もしくは二本傘立てにあったとしたら、その傘を置いたのは雨が降っている間に外に出て魔方陣を描いた人物の可能性が高い、ということです」 
    師匠の言葉に僕は感心した。 
    そうか。その日、誰も傘は使っていないはずだ。使ったとすれば、こっそり外へ出る必要があった人物だけ。 
    濡れた傘が傘立てにあったとしたら、それはすなわち魔方陣を描いた犯人のものに違いないのだ。 
    そこまで考えて僕は、いや違う、と思った。犯人が自分の傘を使ったとは限らない。まして外部からの侵入者だとすれば当然だ。 
    しかも、保育士たちは揃って首を横に振った。誰も下駄箱の濡れた傘など確認していないのだ。 
    その騒動の中、そこまで知恵が回らなくても仕方がないと言えた。もはや唯一と言っていい物証も断たれたようだ。 
    しばし沈黙が降りた。 
    「あの…… そう言えば私、一度外を覗いたんですが、その時見たものがあるんです」 
    悦子先生が思い出したようにそう言った。 
    外が光って雷が鳴った時だ。ガラス戸のところまで歩いて、カーテンの隙間から外を覗いたら、緑色のタオルのようなものがフェンス際の木の枝に引っかかっているのが見えたのだと言う。 

    344 保育園 中編 sage New!2012/06/08(金) 20:58:51.77ID:WMI9l70o0
    雨だけではなく、風も吹いていたのでどこかから飛ばされて来たのだろう。 
    「青ではなく、緑だったんですね」 
    「はい」 
    なら無関係か。いや、元の青いものからして魔方陣と関係があるのかよく分からない。 
    「そう言えば私もそれ、見ました」 
    それまでずっと黙っていた由衣先生が口を開いた。一歳児の担任の先生だ。四人保育士の中で一番気が弱そうで、心なしか顔色も悪い。 
    「雷が鳴って驚いて振り向いたら、あの辺の木の枝にタオルが引っかかってるのが見えました」 
    外に向かって指をさした後、「緑色、だったと思います」と、そう付け加えた。 
    他の先生にも訊いたが、三・四歳児の担任の麻美先生は雷が鳴った時、カーテンの方は見たが、外は覗かなかったと言い、二歳児の担任の洋子先生は机でうとうとしていたのか、雷には気がつかなかった、と言った。 
    「魔方陣が見つかって騒ぎになった時には、その緑のタオルはありましたか」 
    先生たちは顔を見合わせる。 
    やがて悦子先生が口を開く。 
    「それどころじゃなかったから、はっきり覚えていませんが、あったと思います」 
    同じ木の枝に引っかかっていたはずだ、と付け加える。 
    「誰か拾った?」 
    などと先生たちは話し合い、結局誰もその後のことは分からず、また風でどこかへ飛ばされたのかも知れない、ということに落ち着いた。 
    「これにも写ってないかな」 
    師匠はそう言って、写真をまじまじと見つめる。 
    僕や他の先生たちも顔を寄せ合って魔方陣発見直後の写真を覗き込むが、フェンス際の木にはそれらしいものが見当たらない。 
    「ああ、でも幹に近い枝のあたりだったから……」 
    悦子先生が言った。 
    なるほど、二階から撮ったこの写真では角度的に生い茂る葉で隠れてしまって見えないのかも知れない。 
    結局なにも分からない。 
    僕は溜め息をついた。 
    「緑ねえ」 
    その時ふと思いついた。 
    その青いものを見た、というアキラくんがおじいちゃん子、おばあちゃん子ならもしかすると緑色をしたものを「アオ」と言ってしまうかも知れない。 
    お年寄りの中には「緑」のことを「アオ」という人もいるのだ。それを聞き慣れていた子どもならひょっとして…… 

    346 保育園 中編 sage New!2012/06/08(金) 21:04:25.39ID:WMI9l70o0
    だがそこまで考えて、はた、と思考が止まる。 
    だからなに、という感じだ。一応口にしてみたが、やはり師匠はそんな反応だった。 
    アキラくんが見たものが実際は緑のタオルだったとしても、誰かが傘を持って外にいたことを否定するものではない。 
    もちろん傘を持って外に出ていた人はいなかったかも知れないし、いたとしてもその誰かが魔方陣を描くには足跡の問題が残ったままだ。 
    また沈黙がやってきた。 
    チチチ。 
    と、ガラス戸の外を小鳥が鳴きながら飛び去っていく。 
    嫌な静けさだ。 
    それから師匠が念のため、と言い置いて一階の廊下側から外へ出るもう一つの出入り口のことを確認する。 
    事務室の前を通らず、反対側へ進むと裏口の扉があり、その外はプールにつながっている。 
    しかし普段は子どもたちが勝手にプールの敷地へ入らないように内側から鍵が掛けられており、その日も間違いなく施錠されていたという。 
    そして開錠するための鍵は事務室にあり、園長が管理している。誰も持ち出せない。 
    また、五歳児の部屋と調理室との間にある倉庫も施錠されており、また仮に中に入れても窓すらなく、外へは出られない。 
    いよいよ手詰まりになってきた。 
    会話がなくなり、みんな考え込んだ表情で俯いている。 
    僕は師匠をつついて、ちょっと、と窓際へ誘った。 
    「どうするんです」 
    小声で訊くと、「なにが」と返される。 
    ここまでなにやら推理めいたことをしているが、結局なにも分かっていない。オバケ事案を解決するための霊能力を期待されてやってきたはずなのに、これではどうやって決着をつけるつもりなのか。 
    そんなことをささやくと、ふん、と笑われた。 
    「いないものはしょうがないだろう」 
    「いないって、なにがですか」 
    「あれがだよ」 
    うすうす僕も感じていたが、あらためてそう言われると、やっぱり、という気になる。 
    ようするにこの保育園にオバケの気配を感じないのだ。 
    この魔方陣騒動の前からたびたびあったという怪談めいた話など、やはりただの噂だったのだろうか。 

    348 保育園 中編 sage New!2012/06/08(金) 21:14:25.42ID:WMI9l70o0
    師匠は少し唸って、こう言った。 
    「ちょっと違うかな。なんかこう、残滓、残りカスみたいなものは感じるんだけど、もういなくなった、ってとこだな。まあ多少の悪さをする霊がいたとしても、もう消えちまったってんじゃ、どうせたいしたことないやつだっただろうし、今さらどうしようもないわな」 
    「魔方陣はそいつが?」 
    「さあなあ。もう分からん。人間がやった可能性の方が高いと思うけど」 
    師匠は溜め息をついた。 
    この場をどうやって収めるのか、なんだか心配になってきた。 
    これだけ依頼人たちに時間を取らせて、結局なにも分かりませんでした、というのでは気まずい。気まずすぎる。 
    今も背中に無言のプレッシャーを感じる。 
    「とりあえず、もう悪霊の類はいなくなっていますから、これからは大丈夫です、とでも言いますか」 
    口先だけではまずそうなので、なにか小芝居の一つでもいるかも知れない。 
    しかし師匠は頭を掻きながら、「でもなにか引っかかるんだよな」とぶつぶつ言う。 
    そうしてしばらく考え込んでいたかと思うと、「んん?」と唸って外に飛び出した。 
    園庭の中ほどで立ち止まり、周囲を見回す。そして正面のフェンス際の木と、園舎とを交互に指さしてしきりに頷いている。 
    「ああ、そうか」 
    少し遅れて駆け寄った僕の耳にそんな言葉が入ってきた。 
    「おい、タオルを借りて来い」 
    師匠から僕に指示が飛ぶ。 
    「緑色のですか、青色のですか」 
    そう確認すると、「何色でもいい」という答え。その瞬間、僕は師匠がなにか掴んだということを感じた。 
    僕はすぐさま五歳児室に戻り、先生たちにタオルを貸して欲しいと頼む。 
    「これでいいですか」 
    悦子先生から渡された白いタオルを手に園庭へとって返すと、そのまま「あの木の枝に引っかけてこい」と言われる。 
    ちょうど五歳児室の正面の木だ。 
    僕は木の下に立つと、登れそうにないことを見て取り、タオルを丸めて幹に近い枝をめがけて投げつけた。 
    最初はそのまま落ちて来たが、何度か繰り返すと上手い具合に引っかかってくれた。 
    「これでいいですか」 
    と振り返ると、師匠が親指で園舎をさしながら頷いている。 
    二人して五歳児室に戻り、四人の保育士たちが見守る中でフローリングの床に腰を下ろした。 
    「さて」 
    視線を集めながら師匠が落ち着き払った態度でそう切り出す。 

    350 保育園 中編 sage New!2012/06/08(金) 21:17:29.35ID:WMI9l70o0
    「雷が鳴った時に見たという、緑のタオルのことですが、あんな感じで木の枝に引っかかってたんですね」 
    保育士たちは、いったい何を言い出すのだろう、という怪訝な表情で見つめている。 
    「悦子先生、そうですね」 
    念押しをされてようやく悦子先生は頷いた。 
    「由衣先生、そうですね」 
    由衣先生も恐々、という様子で神妙に頷く。 
    「麻美先生、そうですね」 
    話を振られた麻美先生は、驚いたように「私は見ていません」と言った。 
    「洋子先生、そうですね」 
    洋子先生も、「私も見ていませんから」と返事をする。 
    全員の答えを聞き終えてから、師匠はもう一度その中の一人に向かってこう言った。 
    「由衣先生、あなたが犯人ですね」 
    ええ? 
    どよめきが走った。 
    僕にしてもそうだ。 
    「ち、違います」 
    怯えた表情で由衣先生が否定する。 

    351 保育園 中編 sage New!2012/06/08(金) 21:21:28.43ID:WMI9l70o0
    「では少し思い出しましょうか。事件当日のことではありません。 
    つい先ほどの証言です。悦子先生が『外が光って雷が鳴って、ガラス戸のところまで歩いて、カーテンの隙間から外を覗いたら、緑色のタオルみたいなものがフェンス際の木の枝に引っかかっているのが見えた』と言ったあと、由衣先生はこう言いました。 
    『雷が鳴って驚いて振り向いたら、あの辺の木の枝にタオルが引っかかってるのが見た』と」 
    師匠の言葉に誰も怪訝な表情を崩さない。 
    一体なにを言いたいのか、さっぱり分からないのだ。 
    「この二人の証言には決定的な違いがあります。雷が鳴った後の行動です。 
    悦子先生は、ガラス戸のところまで歩いて、カーテンの隙間から外を覗いたら、タオルが見えました。 
    しかし由衣先生は、驚いて、振り向いたらタオルが見えています。分かりますか。カーテンの隙間から覗いていないんですよ。 
    さらに言えばガラス戸に近づいてもいない」 
    師匠は自信満々という表情でそんなことを言う。 

    「いいですか。雨が降っている間、園舎のすべてのガラス戸や窓にはカーテンが掛けられていました。このことはこれまでの証言から確かなはずです。 
    カーテンを開けず、また隙間から覗き込みもしないで、園庭のあの木の枝にかかったタオルを見ることはできないはずなんです。
    もちろん……」 
    はじめから外にいた人を除いて。 
    師匠の目が細められる。芝居掛かっているが、ゾクリとするような色気があった。 
    しかし…… 
    「そんなの、ただの言葉の綾じゃないですか」 
    由衣先生ではなく、悦子先生が気色ばんでそう抗弁する。疑われた本人の方は真っ青になって小刻みに震えている。 
    「いいえ。彼女はカーテンから外を覗いていない。雷に驚いて振り向いたとき、そのまま木の枝のタオルが見えたんです。 
    証言の通りのことが起きたのです。それを今から証明して見せます」 
    そう言って師匠が立ち上がった。

    1 保育園 前編 sage New!2012/05/20(日) 16:05:37.87ID:cMOGa5XM0
    師匠から聞いた話だ。 



    土曜日の昼ひなか、僕は繁華街の一角にある公衆電話ボックスの扉を開け、中に入った。 
    中折れ式のドアが閉まる時の、皮膚で感じる気圧の変化。
    それと同時に雑踏のざわざわとした喧騒がふいに遮断され、強制的にどこか孤独な気分にさせられる。 
    一人でいることの、そこはかとない不安。 
    まして、今自分が密かな心霊スポットと噂される電話ボックスにいるのだという意識が、そのなんとも言えない不安を増幅させる。 
    夜の暗闇の中の方がもちろん怖いだろうが、この昼間の密閉空間も十分に気持ち悪い。
    僕は与えられた使命を果たすべく、緑色の公衆電話の脇に据え付けてあるメモ帳に目をやる。 
    メモ帳は肩の部分に穴があけられていて、そこに通した紐で公衆電話の下部にある金具に結び付けられている。 
    紐を解き、メモ帳を手に取る。何枚か破った跡もあるが、捲ってみると各頁にはびっしりと落書きがされていた。
    僕は頷いて、財布を取り出すとテレホンカードを電話機に挿し込む。 
    「えーと」 
    記憶を確かめながら、バイト先の番号を押す。 
    『……はい、小川調査事務所です』 
    この声は服部さんだ。 
    「あ、すみません、僕です。加奈子さんはいますか」 
    『……中岡さんのことですか』 
    「あ、すみません。そうです」 

    240 保育園 前編 sage New!2012/05/20(日) 16:08:26.71ID:cMOGa5XM0
    僕も、先輩にあたる加奈子さんもバイト用の偽名を使っているのだが、依頼人がいる場所でもついうっかり本名で呼んでしまいそうになることが多々あった。 
    なるべく小川調査事務所でのバイト中は偽名で呼び合うように気をつけているのだが、正直徹底できていない。 
    しかしバイト仲間の服部さんには時々それを嫌味であげつらわれている。
    服部さんはクスリとも笑わないので、嫌味なのか怒っているのか分からないのでとても怖い。 
    『代わります』 
    保留音に変わった。ワルキューレの騎行にだ。いつもイントロで終わってしまいメインラインを聴けない。
    だいたい二十五秒くらいで勇壮なメインラインに入るはずなのだが、『あたしだ』、ほらね。 
    静々と始まったイントロが盛り上がってきたところで、保留が解ける。 
    『首尾はどうだ』 
    「手に入れました。これから戻ります」 
    『ご苦労。ボールペンも忘れるなよ』 
    そう言われて手で探るが、メモ帳を置いてあるあたりにはない。誰かに盗っていかれたのかと思ったら、足元に落ちていた。 
    拾ってから「じゃあ、これで」と言って受話器を戻す。 
    扉を押すとベキリという折れるような音とともに、気圧の変化と外のごみごみとした騒々しさがやってくる。 
    その瞬間にあっけなく孤独は癒され、拍子抜けしたように僕は太陽の下に足を踏み出した。 

    ◆ 

    242 保育園 前編 sage New!2012/05/20(日) 16:09:19.30ID:cMOGa5XM0
    大学二回生の春だった。 
    僕は繁華街から少し外れた通りを足早に進み、立ち並ぶ雑居ビルの一つを選んで階段を上っていった。 
    そのビルの三階にはバイト先である小川調査事務所という興信所がある。
    ドアをノックして中に入るとカタカタという音が静かな室内に響いていた。 
    フロアには観葉植物の向こうにデスクがいくつか並んでいて、二人の人物の顔が見える。 
    「お疲れ」 
    バイト仲間であり、オカルト道の師匠であるところの加奈子さんがやる気なさそうにデスクに足を乗せたまま雑誌を開いている。 
    「……」 
    もう一人、ワープロを叩いていた服部さんが僕の方に一瞬だけ視線を向け、そしてまた何の興味も失ったようにディスプレイに目を落とす。相変わらず冷たい目つきだ。 
    嫌な空気が漂っている。 
    同じアルバイトの身ではあるが、服部さんは所長である小川さんの本来の助手である。 
    それに対して師匠と僕はイレギュラーな存在であり、ある特殊な依頼があった時だけ呼び出される。 
    この界隈の興信所業界では『オバケ』と陰口を叩かれている奇妙な、そして時に荒唐無稽な依頼、つまり心霊現象が関わるような事件の時にだ。 
    霊感などとは無縁の服部さんからすれば、師匠のやっていることなど胡散臭いだけで、口先で依頼者を騙して解決したように見せかけている姑息なやり口に見えることだろう。 
    元々無口な服部さんは実際のところ何を考えているのか分からないのだが、師匠と仲が良くないのは間違いない。 
    「メモは?」 
    師匠は雑誌を置いて、催促するように右手を伸ばした。 

    244 保育園 前編 sage New!2012/05/20(日) 16:10:31.00ID:cMOGa5XM0
    僕はポケットからさっき電話ボックスから回収したばかりのメモ帳とボールペンを取り出してデスクの上に置いた。 
    「ほほう」 
    師匠は身を乗り出してデスクの上のメモ帳を捲り始めた。 
    どのページにもゴチャゴチャと線が走り、色々な落書きが残っている。 
    三角形がいくつも重なった図形もあれば、グルグルと丸を続けたもの、そして割と上手なドラえもんの顔やかわいいコックさんを失敗してグチャグチャに消してある絵…… 他にも形をとどめない様々な落書きがあった。 
    感心したような溜め息をつきながらメモを眺める師匠に、ようやく声をかける。 
    「それがなんなんですか」 
    「うん」 
    生返事で顔を上げもしない。 
    僕が知っているのはただ、あの電話ボックスに一人で入っていると、目に見えない何かに肩を叩かれたり物凄い寒気に襲われたり、あるいは足を掴まれたりする、という噂だけだった。 
    そして師匠がこっそりとその電話ボックスにメモ帳とボールペンを持ち込み、まるで備え付けのものであるかのように偽装して放置してから三日目の今日、僕に回収に行かせたのだ。 
    回収したメモ帳は電話口で訊いた用件をメモしたのであろう、破りとられた頁もあったが、ほとんどが落書き帳と化していた。 
    「無意識にだ」 
    師匠がメモから視線を切らずに口を開く。 
    「人間は電話中にペンを取る時、電話の内容や、そこから連想したもの、あるいは全く関係がないようなその時頭に浮かんだもの書きつける。 
    たいていは意味のない落書きだ。後からそれを見ると、自分でも描いたかどうか覚えていないような模様が残っていたりする」 
    いきなり師匠がメモ帳開いて僕の前に突きつける。 
    「そんな無意識下におきた現象がこれだよ」 
    その妙な圧力のある言葉に息を呑む。 

    246 保育園 前編 sage New!2012/05/20(日) 16:12:00.11ID:cMOGa5XM0
    メモ帳にはキノコのようなものが小さく描かれ、それがゴチャゴチャした線で消されていた。 
    「これもだ」 
    何頁かメモを捲り、またぐいと開かれる。 
    オカッパのような髪型の誰かの顔が描かれているが、失敗したのか途中で線が途切れている。 
    「そしてこれ」 
    ドキリとした。 
    別の頁に、さっきとはまるで違う筆致で頭のようなものが描かれている。 
    オカッパ頭が。 
    顔は描かれていない。頭の外殻だけの絵。 
    「お……女の子」 
    「そうだ」 
    師匠はニヤリと笑う。 
    僕は思わずメモ帳を受け取り、さっきのキノコのようなものの絵を見る。 
    髪だ。 
    あらためて確認するとキノコではなく明らかに髪の毛として描かれていた。 
    ドキドキしながら頁を捲っていくと、他にもそのオカッパのような髪型がいくつか現れた。 
    偶然。 

    247 保育園 前編 sage New!2012/05/20(日) 16:12:34.50ID:cMOGa5XM0
    にしては多すぎる頻度だ。 
    電話ボックスに入った不特定多数の通行人が無意識に握ったペン。それが描くものがたまたま同じであるという蓋然性は? 
    そしてそれが偶然ではないのだとすると、そこに描かれたものは一体…… 
    生唾を呑んで僕は師匠を見る。 
    しかし彼女はへら、と笑うとメモ帳を摘むようにして取り上げた。 
    「だいたい分かったし、もういいや」 
    そうしてメモ帳をデスクの引き出しに放り込み、また雑誌を手に取った。 
    読みかけた場所から頁を追い始める。 
    さっきまで興奮気味だったのに、すっかり興味を失っているようだ。 
    この熱しやすく冷めやすいところが師匠の特徴の一つだった。 
    そんなやりとりの間にも事務所の中には服部さんが叩くキーボードの音が静かに響いていて、僕はふいにここがどこであるのかを思い出す。 
    「何時からでしたっけ」 
    僕が言うと、師匠は雑誌から目を逸らさずに壁を指さした。
    そこにはホワイトボードが掛かっていて、『所長』と『中岡』の欄に『十三時半、依頼人』という文字がマジックで走り書きされている。 
    もう少しでその時間だ。 
    「あれ、そう言えば所長は?」 
    「あれだよ。下のボストンで待ち合わせ」 
    ああ、そうか。思い出した。今度の依頼人は若い女性で、こんな妖しげな雑居ビルにある興信所などという場所にいきなり足を踏み入れるのを躊躇したのだ。 
    気持ちは分かる。 
    それでまずビルの一階にある喫茶店『ボストン』で所長と待ち合わせをしていたのだった。
    そこで少しやりとりをして、多少なりと安心してもらってから事務所まで招き入れる、という算段だろう。 

    249 保育園 前編 sage New!2012/05/20(日) 16:13:43.57ID:cMOGa5XM0
    この零細興信所の所長である小川さんは、服の着こなしからして随分くだけた大人なのだが、人あたりは良く、初対面の依頼人の緊張をほぐすようなキャラクターをしていた。 
    「あ、やべ。お茶切れてたんじゃないか」 
    師匠はふいに立ち上がって台所の方へ小走りに向かった。 
    そしてガタゴトという音。引き出しをかき回しているらしい。 
    傍若無人な振る舞いをしている師匠だったが、何故かこの事務所ではコーヒーやお茶などを出す係を当然のように引き受けている。 
    女だから、などという固定観念で動く人ではないはずなので、意外な一面というところだろうか。 
    台所をひっくり返すような騒々しさに苦笑していると、服部さんがキーを叩く手を止め、ぼそりと呟いた。 
    「彼女は、この仕事に向いてない」 
    服部さんから僕らに話しかけて来ること自体まれなので、この部屋に他に誰かいるのかと一瞬キョロキョロしそうになったが、どうやらやはり僕に聞えるように言ったらしい。 
    「探偵には」 
    そう補足してから、服部さんはまたキーを一定のリズムで叩き始める。 
    自分の師匠が馬鹿にされたというのに、僕は何故か腹が立たなかった。 
    ただ服部さんがどうして今さらそんなことを口にするのか、そのことを奇妙に思っただけだった。 
    「でも、服部さんだって一緒に仕事したことあるでしょう。僕はあの人、凄いと思いますけど」 
    一応反論してみる。 
    確かに師匠はオカルト絡みの依頼専門なので、どうしても本来の興信所の業務とは異なる手法を取ることが多いが、その端々で見せる発想や推理力の冴えは探偵としても凡庸ではないと十分に思わせるものだったはずだ。 
    そんな僕の説明を聞き流していたように見えた服部さんだったが、またピタリと手を止め、眼鏡の位置を直しながら淡々とした口調で言った。 
    「名探偵に向いている仕事なんて、何一つない」 
    「え」
    それってどういう意味ですか、と訊こうとした時、「あったー」という声がしてふにゃふにゃになったインスタント緑茶の袋を手に、台所から師匠が顔を出した。 
    「間に合った? 間に合った? セーフ?」 
    師匠が入り口のドアを見てそう繰り返す。 
    階段を上ってくる足音が聞こえる。 
    師匠と、そしてそのオマケの僕が呼ばれた依頼。 
    つまり、不可解で、普通の人間には解決できない不気味な出来事が、これからドアを開けてやってくるのだ。 

    ◆ 


    252 保育園 前編 sage New!2012/05/20(日) 16:18:12.74ID:cMOGa5XM0
    次の日、つまり日曜日。師匠と僕は市内のとある保育園に来ていた。 
    子どもの声のしない休日の保育園はやけに静かで、こんなところに入っていいのだろうかと不安な気持ちになる。 
    二階建ての園舎の一階、その中ほどにある部屋で僕らは座っていた。
    床は畳ではなくフローリングで、開け放した園庭側のガラス戸から暖かな風と光が入り込んできている。 
    ガラス戸からはそのまま外へ出られるようになっていて、すぐ前には下駄箱がある。 
    横長の園舎の一階の部屋は全部で五つ。 
    門を潜るとすぐ左手側に園舎の玄関があり、そこをつきあたりまで進むと、右手に真っ直ぐに廊下が伸びていてそのさらに向かって右手側に事務室、四歳児室、五歳児室、倉庫、調理室、という順で部屋が並んでいる。 
    また玄関の奥には二階へ上がる階段があり、玄関の下駄箱はその二階へ上がる人たちのためのものだった。 
    階段を上るとまた廊下が真っ直ぐ伸びていて、右手側に遊戯室、0歳児室、一歳児室、二歳児室と並んでいる。 
    保育園の敷地は四角形で、おおよそ園庭と園舎とで半々に区切られている。
    門の真正面はその園庭側で、わずかな遊具と砂場、そしてその奥には花壇と小さな農園がある。 
    園庭側の周囲は背の高いフェンスで覆われており、そのフェンスの内側は木が並べて植えられている。 
    残りの半分の園舎側はフェンスが途中で材質変更されたような形でブロック塀に切り替わり、それがぐるりとちょうど農園の手前まで周囲を覆っている。 
    門を通り抜けてすぐ左手に進むと、園舎の玄関とブロック塀の間に隙間があり、裏側へ進むことが出来るが、途中に物置があるくらいで園舎の真裏にはブロック塀との間にほとんどスペースがなく、調理室の裏手のあたりでフェンスに阻まれ行き止まりとなっている。 
    そしてその向こうはプールだ。出入りは園舎の廊下側からしか出来ないようになっている。敷地で言うと調理室の隣ということになる。 
    以上がこの保育園の概要だ。 

    254 保育園 前編 sage New!2012/05/20(日) 16:22:03.01ID:cMOGa5XM0
    師匠は到着して早々、一通りの案内を頼み、ようやくその構造が頭に入ったところで一階にある一室に腰を落ち着けたのだった。 
    「で、ここは五歳児室というわけですね」 
    師匠が周囲の壁を見回す。 
    「はい」 
    女性が頷いた。 
    小川調査事務所に依頼人としてやって来た人で、悦子さん、という三十歳くらいの保育士だ。 
    「私が担任をしています」 
    悦子さんはいつもはエプロン姿なのだろうが、今日は私服だ。本来は休みである日なので当然か。 
    僕と師匠の前には悦子さんの他に三人の女性が座っている。 
    順に紹介される。
    「あと、麻美先生が隣の三・四歳児室の担任、それから洋子先生が二階の二歳児室、由衣先生がその隣の一歳児室の担任です」 
    それぞれが緊張気味に会釈する。 
    お互いが先生と呼び合うのか。そう言えば自分が昔保育園に通っていた時もそうだったことを思い出して懐かしくなる。 
    悦子先生は見るからにしっかり者、という感じで喋り方や動きがキビキビしていて、明らかに他の先生を引っ張っているリーダー役だった。 
    「で、これが問題の写真ですね」 
    師匠の言葉に、全員の視線が床に置かれた一枚の写真の上に注がれる。
    それはこの園舎の二階の窓から園庭に向かってシャッターを切った写真であり、雨に濡れてぬかるんだ園庭の中ほどに奇妙な丸い模様が浮かび上がっている様が写し出されている。 
    その丸い模様は直径二メートルほど。すぐそのそばにエプロン姿の女性が一人写っていて、園舎側から足跡が伸びている。 
    写真を見ながら、四人の若い保育士が息を呑む気配があった。 
    師匠が顔を上げ、そんな様子を意にも介さない口調ではっきりと言う。 
    「では、詳細な説明を」 

    ◆ 


    257 保育園 前編 sage New!2012/05/20(日) 16:26:02.38ID:cMOGa5XM0
    先週の金曜のことだった。 
    その日は朝から曇りがちで、天気予報でも降水確率は50%となっていた。 
    空が暗いと気分も暗くなる。
    悦子先生は園庭で遊ぶ子どもたちを見ながら、ここ最近続く気持ちの悪い出来事のことを考えていた。 
    一階や二階のトイレでなにか人ではないものの気配を感じることがたびたびあった。 
    他にも花壇やプール、時には室内でさえ何か人影のようなものを見ることもあった。
    先輩から聞いた噂によると、この保育園の敷地は元々、罪人の首をさらす場所だったとか…… 
    悦子先生だけではなく、他の先生や、子どもたちまでも何か幽霊じみたもののを見てしまう、ということがあった。
    少なくともそんな噂がまことしやかに囁かれている。 
    お祓いをしてもらった方がいいんじゃないか。 
    先生の間からそんな意見も出たが、園長先生はとりあってくれなかった。 
    馬鹿らしい。子どもに悪影響が出る。 
    そんな言葉で却下された。 
    『だいたいねえ、うちは公立なんだから、そんなお祓いなんていう宗教的なものに予算がつくはずないでしょう?』 
    そんなことを言われたので、悦子先生は市の保育担当職員にこっそりと訊いてみたが、やはりそういう支出はできないのだそうだ。 
    公立だろうが私立だろうが、出てくるお化けの方はそんなことを気にはしてくれないのに。 
    理不尽なものを感じたが、どうしようもなかった。 
    ああいやだ。 
    そんなことを考えながら一瞬ぼんやりしていると、パラパラと雨が降り始めたらしく、子どもたちがきゃあきゃあと騒ぎだした。 
    すぐにみんなを室内に引き上げさせる。そうこうしていると、お昼を食べさせる時間がきた。 
    それぞれの教室で食事を取っていると、外はかなり雨脚が強くなり風も少し出てきたようだった。 
    食事の時間が終わり、昼寝の時間になったが、子どもたちはカーテンの隙間から外の様子を見たがってなかなか落ち着かなかった。 
    「はい、もう寝るの!」 
    カーテンをジャッ、と閉め、たしなめると子どもたちはようやく布団に入る。 
    それから悦子先生は事務室とトイレに一度だけ立ち、それ以外は自分の五歳児室で子どもの寝顔を見ながら連絡帳などをつけて過ごしていた。 
    叩きつけるような雨音を聴きながら。 

    259 保育園 前編 sage New!2012/05/20(日) 16:32:12.26ID:cMOGa5XM0
    一度だけ外が光ったかと思うと雷が鳴って、その時だけは子どもたちを起こさないようにそっとガラス戸のところまで行って、カーテンの隙間から外を覗いたが、特に変わったことはなかった。 
    随分近くで鳴ったような気がしたのだけれど。 
    それからしばらくして昼寝の時間が終わった。 
    ちょうどそれに合わせるように、雨が止んだようだった。
    子どもたちにおはようと言いながらカーテンをあけると、外はまだ曇っていたが、遠くの空から光が射している。 
    ふと、園庭の一箇所に目が留まった。 
    地面になにかある。 
    なんだろう、と思いながらガラス戸を開け、サンダルをつっかけて外に出る。雨は降っていない。 
    しかし強く降った雨で、地面はかなりぬかるんでいる。
    泥にサンダルを引っ張られながら、園庭の中ほどまで進むと、悦子先生は自分の目を擦った。 
    え? 
    思わず呆けたような顔をしてしまう。 
    あまりに似つかわしくないものがそこにあったからだ。 
    <魔方陣> 
    そうとでも呼ぶしかないような模様が泥の中に描かれている。
    円の中に三角形だか四角形だかが重なったような図形、そして円の外周にそってなにか文字のようなもの…… 
    「   」 
    悲鳴を上げた、と思う。 
    園舎から、ガラス戸が開く音がして、他の先生たちも顔を出した。
    子どもたちまで出てこようとしているのを、みんな必死で止める。 
    状況を把握した園長先生が物置の方へ走ったかと思うと、地ならしをするトンボを持って来て、すぐにその魔方陣のようなものを消し始めた。 
    そしてみんな部屋に戻りなさい、と怒ったように叫ぶ。 
    悦子先生は呆然としながら、頭の中に繰り返される声のようなものを聞いていた。 
    『だから言ったのに。だから言ったのに』 
    それは自分の声だったと思う。 
    でも。いやに他人事のような声だった。 

    ◆ 

    261 保育園 前編 sage New!2012/05/20(日) 16:36:24.47ID:cMOGa5XM0
    「で、今日がその出来事があってから、ひいふう…… 九日目か」 
    師匠が指を折る。 
    気持ちの悪い話を聞いたばかりなのに平然としている様子はさすがというべきか。 
    「この写真は誰が?」 
    問い掛けに、洋子先生と呼ばれた一番若い保育士がおずおずと手を挙げる。 
    「私です。悦子先生の悲鳴を聞いたあと、カーテンを開けると、その…… 魔方陣みたいなものが見えて、ちょうど私、次の遠足の写真の担当だったからカメラをいじってるところだったんで」 
    「思わず、シャッターを切った、と」 
    「はい」 
    「これ一枚だけですか」 
    「はい。園長先生がすぐにトンボで消してしまったので」 
    「消した後の園庭の写真は?」 
    「撮っていません」 
    「そうですか。分かりました」 
    師匠は写真を手にして、少し考えているような顔をする。 
    「この写真をとったのは、二歳児の部屋からですね?」 
    「はい、ちょうどこの部屋の真上です」 

    262 保育園 前編 sage New!2012/05/20(日) 16:39:19.18ID:cMOGa5XM0
    「なるほど、ではこの魔方陣は、この部屋の正面に近い位置にあったわけですね」 
    そう言って師匠は立ち上がり、ガラス戸の方へ向かう。 
    開け放してあった戸から外へ出て、すぐ外にあった小さな板敷きから自分の靴を選んで園庭へ出て行った。 
    僕らもそれについていく。 
    数メートル進んで、写真と周囲を見比べながら「このへんですね」と言う。 
    当然だが、地面はすっかり乾いていて、泥に描かれていたという魔方陣のらしきものの痕跡すらない。 
    「ふうん」 
    師匠は怪訝な表情で地面を触る。そして首を傾げた。 
    その場所からは、部屋の正面側のフェンスや左手側の花壇まで、まだ十メートルほどもある。 
    「あそこから撮ったんですね」 
    師匠が園舎の二階を指さす。 
    園庭から見て、一番右端の部屋だ。一階の倉庫と調理室にあたる部分には二階がないためだった。
    そしてその二階にはテラスがなく、師匠の指さす方向には窓と壁だけが見えている。 
    「念のための確認ですが、これが描かれているところを、誰も見てないんですね?」 
    「はい」 
    「雨の降っていた時間は?」 
    「十一時から昼の二時までです」悦子先生が答える。「それ以外の時間は曇ってはいましたが、雨は降っていません」 
    それを聞いて、師匠が意味深に頷く。 

    263 保育園 前編 sage New!2012/05/20(日) 16:39:51.12ID:cMOGa5XM0
    「なるほど、呼ばれた訳が分かりましたよ」 
    じゃあ、部屋に戻りましょうか。 
    師匠にそう促されて全員、五歳児室に戻る。 
    また同じような配置で床に座ったとたん、師匠が口を開く。写真を手にしたままで。 
    「これを、どう思ったんです」 
    先生たちは顔を見合わせる。 
    「園長先生は、たちの悪いイタズラだと」 
    悦子先生がそう答えたのを師匠はニヤニヤしながら聞いている。 
    「何年か前にあった、机を9の字に並べるイタズラ事件のことを思い出しますね」 
    師匠の言葉に僕もその出来事のことを思い出した。 
    確か東京の中学校で、夜のうちに何者かが校内に侵入し、何百という大量の机を運び出して校庭に並べた、という事件だ。 
    校庭から見ると、ただむちゃくちゃに放置された机にしか見えなかったが、屋上から見るとそれがアラビア数字の「9」の形になっている、という奇怪な事件だった。 
    そのことが全国的に報道されると、視聴者たちは素人探偵となってその事件の犯人や「9」の意味、そして動機について様々な推理がなされることになった。 
    規模はまったく違うが、保育園の園庭に奇妙な図形が描かれるというのは、その時のことを彷彿とさせるものがあった。 

    264 保育園 前編 sage New!2012/05/20(日) 16:42:00.15ID:cMOGa5XM0
    「イタズラねぇ……」 
    師匠はまだ笑っている。「あなたたちは、そうは思わなかった訳ですね」 
    みんな神妙な顔をして頷いた。 
    「理由はだいたい分かりますよ。まず、第一にこの保育園で以前から心霊現象のようなものが続いていたこと。
    そして第二に、この写真の、これですね」 
    師匠は写真の中の一箇所を指さす。 
    そこには魔方陣のそばで立ち尽くす悦子先生が写っている。
    いや、師匠の指はそこから少し外れた位置、その悦子先生の足跡らしき小さな点々が園舎の方から伸びてきている部分に掛かっている。 
    「サンダルの足跡。雨が上がったばかりでぬかるんでいたので地面についていて当然です。 
    しかし…… 問題はそれが一人分しかないこと。 
    魔方陣に最初に気づいて外に出た悦子先生のものだけ、つまり、イタズラでこの魔方陣を作ったはずの人物の足跡が残っていないこと、それが問題なんですね」 
    師匠の言葉に保育士たちの顔が強張る。 
    「園長先生はこんなことがあった後も、お祓いなんかしないの一点張りで。だから私たち、有志でお金を出し合って依頼をしたんです」 
    最初は神主さんに頼もうとしたのだが、魔方陣、というところが引っかかっていた。専門外ではないかと思ったのだ。 
    それはお寺であっても同じだ。かといって西洋式の、たとえばエクソシストのような人にはツテがないし…… 

    265 保育園 前編 sage New!2012/05/20(日) 16:44:07.16ID:cMOGa5XM0
    「この写真には悦子先生が魔方陣に近寄って行った時の足跡しか写っていない。
    確かに二階から撮影したものだから、見えにくいだけで実際は他の足跡はあったかも知れない。でもそうではないんでしょう?」 
    師匠が訊くと、悦子先生は頷く。 
    「私が外に出た時、他の足跡はありませんでした。後から思い出して、そうだったかも、というんじゃありません。
    私、その場にいる時から他の足跡がなかったことを変だと思ってましたから」 
    そう強く断言する。 
    「そして雨は十一時から降り始めて十四時で止んでいる。 
    どの時点で地面に魔方陣が描かれたのかは、はっきり分からないけど、少なくとも雨が強く降っている時ではないないはずだ。
    だとしたら、こんなにくっきりと形が残っているはずがないから。 
    では雨が止んだ後に描いたのか? それもおかしい。ぬかるんだ地面に、それを描いた人の足跡が残っていないんだから」 
    師匠の言葉の揚げ足をとるような形で僕は口を挟む。 
    「じゃあ雨が降っている間にそこまで歩いて行って、止んでから描いたとか」 
    「行きの足跡は消えたとしても、帰りの足跡は?」 
    そうか。 

    266 保育園 前編 sage New!2012/05/20(日) 16:46:38.13ID:cMOGa5XM0
    立ち去った時の足跡もないのなら、その後で雨によって消されたということになる。しかし魔方陣は消えていない。 
    「やっぱりおかしいですね」 
    雨が止んだ後で魔方陣を描いたのなら、そのイタズラをした誰かはどうやって足跡を残さずにその場を去ったというのか。 
    写真を見る限り、魔方陣は園庭の中ほどにあり、園舎からもフェンスからも花壇からも、そして門からもかなり離れている。 
    一番近いフェンス側でも恐らく十メートルはある。とても一飛びに飛べるような距離ではない。 
    「竹馬で行ったとか」 
    僕の意見に呆れた顔をした師匠だが、一応確認する。 
    「竹馬はありますか」 
    「うちにはありません」 
    「まあ、かりにあったとしても、そんなことまでして足跡を残したくない理由はないでしょう。 
    仮にまだ雨が降っていて、園児の昼寝の時間中だったとしても、先生の誰かがカーテンの外を覗けば間違いなく見つかってしまうこんな遮蔽物もない場所で、そんなイタズラを敢行しようというんですから。 
    描いているところを見られてもかまわない、と思っている人ならそこまでして足跡だけを残したくない理由はないでしょう。 
    逆に出来れば見られたくないと思っている人なら、これはスピード勝負です。
    そんな目立つ竹馬なんかに乗ってえっちらおっちら行くなんて考えられません」 
    「じゃあ、トンボみたいなもので自分の足跡を消しながら立ち去った、とか」 
    「む、なるほど」 
    僕の言葉に師匠は思案げな顔をして頷く。 
    すると悦子先生から反論が出た。 
    「だとしたら地面にナメクジが這いずったみたいな跡が残るんじゃないですか。そんなものありませんでした」 
    「ふうん。ではとりあえず足跡の問題は置いておくとして、もう少し確認したいことがあります」 
    師匠はそう言った後、ゆっくりと口を開いた。

    1 風の行方 後編 ◆oJUBn2VTGE ウニ New!2012/05/19(土) 23:19:25.47ID:13YZ4scB0
    それから僕らは、師匠の感じ取る風の向かう先を追い続けた。 
    それは本当の意味で、目に見えない迷路だった。
    「あっち」「こっち」と師匠が指さす先にひたすら自転車のハンドルを向け続けたが、駅前の大通りを通ったかと思うと、急に繁華街を外れて住宅街の中をぐるぐると回り続けたりした。 
    かと思うと川沿いの緑道を抜け、国道に入って延々と直進したりと、法則もなにもなく、その先に終わりがあるのかまったく見えなかった。 
    そしてまた風に導かれるままに繁華街に戻ってきて、いい加減息が上がってきた僕が休憩しましょうと進言しようとしたとき、師匠が短く「止まれ」と言った。 
    そして後輪から降り、一人で歩き出した。 
    大通りからは一本裏に入った、レンガ舗装された商店街の一角だった。師匠の背中を目で追うと、その肩越しに二人の人間の姿があった。 
    女性だ。二人ともセーラー服を着ている。腕時計を見ると、いつの間にか高校生の下校の時間を過ぎていた。 
    二人は並んで立ち止まったまま、師匠をじっと見ている。二人ともかなり背が高く、目立つ風貌をしていた。 
    師匠が「よう」と気安げに声をかけると、髪の長い方が口を開いた。 
    「どうも」 
    少しとまどっているような様子だった。それにまったく頓着せず、師匠は親しげに語りかける。 
    「あの夜以来か。いや、一度会ったかな。元気か?」 
    「ええまあ」 
    短く返して、困ったような顔をする。 
    僕もそちらに近づいていった。 
    「この道にいるってことは、おまえも気づいたんだな」 
    師匠の言葉にその子はハッとした表情を見せた。 
    「危ないから、子どもは家で勉強してな」 
    やんわりと諭すような言葉だったが、見るからに気の強そうな目つきをしているその女子高生が反発せずに聞き入れるとは思えなかった。 
    そしてその子が口を開きかけたとき、 
    「どなた」 
    と、じっと聞いていた髪の短い方の子が、一歩前に出た。それは一瞬、髪の長い方を庇う様な姿に映った。薄っすらと笑みを浮かべた目が値踏みするように師匠に向けられる。 
    師匠がなにか言おうとして、ふと口を閉ざした。そしてなにかに気づいたような顔をしたかと思うと、すぐに笑い出した。 


    226 風の行方 後編 ◆oJUBn2VTGE ウニ New!2012/05/19(土) 23:22:45.51ID:13YZ4scB0
    そのとき、強い風が吹いて全員の髪の毛をなぶった。髪の短い方が、その髪を手で押さえながら、不快げに眉間を寄せる。 
    「おいおい、あのときの覗き魔かよ。憑りつかれてるのか思ったのに、仲良しこよしじゃないか!」
    一人で笑っている師匠に、女の子たちの空気が凍りついた。 
    「なにを言っているの」 
    髪の短い方が冷淡に言い放つ。 
    「なにって、しらばっくれるなよ。ひっかいてやったろ」 
    指先を曲げて猫のような仕草を見せる師匠の言葉に、彼女は怪訝な顔をする。
    師匠もすぐに彼女の顔を凝視して、おや、という表情をした。 
    「おい。あんなつながり方しといて、無事で済むわけないだろ。目はなんともないのか」 
    言われた方は自分の目をそっと触った。細く長い指だった。 
    「なにを言ってるのかわからない」 
    「ノセボ効果を回避したのか? それともおまえ……」 
    髪の長い方は連れと師匠との言い合いに戸惑った様子で、口を挟めないようだった。 
    「おまえ、過去を見てたのか」 
    師匠の目が細められる。 
    異様な気配がその場に立ち込め始めたような錯覚があった。 
    「だったら悪かったな。初対面だ。どうぞよろしく」 
    からかうように師匠が頭をぴょこんと下げる。 
    髪の短い方が冷ややかな目つきでその様子をねめつける。 
    「もう行きましょう」 
    ただならない雰囲気に気おされて僕は師匠のジャケットを引っ張った。 
    「まあいいや。とにかくもう家に帰れ。分かったな、子猫ちゃんたち」 
    バイバイ、と手を振って師匠はようやくセーラー服の二人から離れた。 
    遠ざかっていく二人を振り返り、僕は師匠に訊いた。 
    「あの子たちは誰なんですか」 
    「さあ。名前も知らない。ただ、追いかけているらしい。同じヤツを」 
    髪の毛が風に流されていく先をか。こんなバカな真似をしているのは僕と師匠だけだと思ったのに。 
    「あんのガキ」 
    急に師匠がTシャツの裾をこすり始めた。その裾が妙に汚れていて、こするたびにその汚れが薄く広がっていくように見えた。赤い染み。まるで血のように見えた。
    「なんです、それ」 
    「イタズラだよ」 

    227 風の行方 後編 ◆oJUBn2VTGE ウニ 最近あたりさわりのないことをいう偽物がいましたね・・・New! 2012/05/19(土) 23:23:36.85ID:13YZ4scB0
    ガキのくせに。 
    師匠はそう呟いて、シャツの裾をくるくると巻いてわき腹でくくり、僕の肩に手を置いた。「さあ急ぐぞ。日が暮れる」 
    そう急かされたが、僕には師匠のへそのあたりが気になって仕方がなかった。 
    その後、さっきの二人が追いかけてくる様子もなく、また街なかをくるくると自転車で回り続けた。
    確かに同じ場所は通らなかったが、風の道が本当に一本なのか不安になってきた。 
    道がどこかでつながっていたとしたら、尻尾を飲み込んだウロボロスの蛇のように堂々巡りを繰り返すだけだ。 
    そして、あるビルの真下にやってきたとき、師匠は忌々しげに「くそっ」と掃き捨てた。 
    ビルを見上げると、十階建てほどの威容がそそり立っている。風は垂直に昇っていた。ビルの壁に沿って真上に。 
    これでは先に進めない。 
    ひたすらペダルをこぎ続けた疲れがドッと出て、僕は深く息を吐いた。
    目を凝らしても壁に沿って上昇した後の風の流れは見えなかった。
    しかし師匠は「ちょっと、待ってろ」と言って近くのおもちゃ屋に飛び込んで行った。 
    そして出てきたときには手に風船のついた紐を持っていた。ふわふわと風船は浮かんでいる。ヘリウムが入っているのだろう。 
    「見てろよ」 
    師匠は一際大きく吹いた風に合わせて、紐を離した。 
    風船はあっと言う間に風に乗って上昇し、ビルの壁に沿って走った。
    そして五階の窓のあたりで大きく右に曲がり、そのままビルの壁面を抜けた。壁の向こう側へ回りこんだようだ。 
    僕と師匠はそれを見上げながら走って追いかけ、風船の行く先を見逃すまいと息を飲んだ。 
    だが、風船はビルの壁の端を回りこんだあたりで、風のチューブに吸い込まれるような鋭い動きを止め、あとはふわふわと自分自身の軽さに身を任せたかのようにゆっくりと空に上昇していった。 
    「しまった」 
    師匠はくやしそうに指を鳴らす。
    そうか。風が上昇するときは、風船もその空気の流れに沿って上昇していくが、下降を始めたら、風船はその軽さから下向きの空気の流れに抗い、一瞬は風とともに下降してもやがてその流れから外れて、勝手に上昇していってしまうのだ。
    恐らくは何度やっても同じことだろう。 
    飛んで行く風船を見上げながら、僕たちはその場に立ち尽くしていた。これで道を指し示すものがなくなった。 
    気がつくとあたりは日が落ちかけ、薄暗くなっていた。 

    228 風の行方 後編 ◆oJUBn2VTGE ウニ New!2012/05/19(土) 23:24:38.31ID:13YZ4scB0
    「どうしますか」 
    焦りを抑えて僕がそう問い掛けると、師匠は難しい顔をした。 
    もう、零細興信所に持ち込まれた小さな依頼どころの話ではなかった。
    ありえないと思いつつも、起こりうる最悪の事態をあえて想定した時、この街に訪れるかも知れない最悪の未来は、凄惨なものだった。 
    想像してしまって、自分の顔を手のひらで覆う。 
    風の行き着く場所で大きな口をあけて、そのすべてを飲み込もうとしている怪物。
    その怪物が自らの口に飛び込んできた無数の人々の髪の毛を集めて、なにかをしようとしている。
    ガーンッ…… 
    金属性のハンマーの音が頭の中に走った。思わず顔を上げ、幻聴であったことを確かめる。 
    うそだろ。そんなことが現実に起こるのか。うそだろう。 
    助けを求めるように師匠の方を見たが、いつになく蒼白い顔をしていた。 
    「ガスか」 
    「え」 
    「着色したガス。それを流せば風の道が見える」 
    それだ。その思いつきに興奮して、師匠の手を取った。 
    「それですよ。いけます、それ」
    しかし師匠は浮かない顔だった。
    確かに着色ガスなどどこで手に入れたらいいのかとっさには分からない。
    しかし知り合いに片っ端から訊くとか、あるいは街なかのミリタリーショップにでも行けばあっさりと売っているかも知れない。
    もしくは駄菓子屋で売っていたような煙玉でもいい。 
    少なくともここでビルを見上げているよりはマシだ。 
    しかし師匠は首を振る。そして自分の腕時計を指し示す。 
    「時間がない」 
    「なぜです」 
    「もう日が暮れる。なにかあるとしたら夜だ。確かに昨日から風は吹いていたけど、明らかに今日になってから強くなった。
    今夜、それが起こるかも知れない。 
    ここまでに掛かった時間を考えてみろ。わたしたちはスタートがどこかも知らないんだ。この先、どこまでこの風の道が続くのかも」
    僕は口ごもった。 
    しかし腹の底から湧いてくる焦燥が、考えも無く口を開かせる。 
    「だったらどうするんですか」 

    229 風の行方 後編 ◆oJUBn2VTGE ウニ New!2012/05/19(土) 23:29:16.14ID:13YZ4scB0
    我ながら子どもがだだをこねるような口ぶりに、師匠は「なんとかするさ」と口角を上げた。 
    どれほど追い詰められても、この人はそのたびに常識を超えた解答を導き出す。
    正答、正しい答えではない、ただ複雑に絡まりあった事象を一刀で断ち切るような、解答をだ。 
    そんなとき、彼女の周囲には夥しい死と生の気配が、禍々しく、震えるように立ち込め、僕はそれにえもいわれない恍惚を覚える。 
    「行くぞ」 
    どこへ、ではなく、はい、と僕は言った。 

                ◆ 

    ビルの屋上は風が強かった。 
    いつもそうなのか、それとも今日という日だからなのか、それは分からなかった。時間は夜の十二時を少し回ったころ。 
    展望台として開放されているわけではない。ただこっそり忍び込んだのだ。高い場所から見下ろす夜景は、なかなかに壮観だった。 
    周辺で一番高いビルだから、その周囲の小さなビルの群れが月光に照らされている姿がよく見えた。
    そしてその下のぽつぽつと夜の海に浮かぶ小船のような明かりも。
    師匠は転落防止のフェンスを乗り越えて、切り立った崖のような屋上の縁に腰をかけ、足を壁面に垂らしてぶらぶらと揺らしていた。
    片方の手ですぐそばのフェンスを掴んではいるが、強風の中、実に危なっかしい。 
    僕は真似ができずに、フェンスのこちら側で師匠のそばに座り、その横顔をそっと窺っていた。 
    「…………」 
    持ち込んだ携帯型のラジオからニュースが流れている。 
    「続報、やらないなあ」 
    師匠が呟く。 
    さっき聴いたローカルニュースには僕も驚いた。 
    市内の中心街で、夕方に毒ガス騒ぎがあったというのだ。黄色いガスがビルの回りに立ち込めて、周囲は騒然としたそうだ。 
    すぐにそのガスはただの着色された無害なガスと分かり、厳戒態勢は解かれることになったのだが、こんな平和な街でそんな事件が起こること自体が異常なことだった。 
    犯人はまだ分かっていない。しかしその誰かは、師匠と同じことを考えたのに違いないだろう。 
    騒動のあった場所は僕らが行き詰ったビルの前とは離れていた。しかしそんなトラップのような場所が一ヶ所とは限らない。
    僕らよりもかなり手前にいたのか、あるいはずっと先行していたのかも知れない。 


    230 風の行方 後編 ◆oJUBn2VTGE ウニ New!2012/05/19(土) 23:30:28.88ID:13YZ4scB0
    「だれでしょうね」 
    そう問うと、師匠は「さあ、なあ」と言ってラジオの周波数を変えた。「あの子たちじゃない気がするな。
    まあ、この街にもこういう異変に気づくやつらが何人かはいるってことだろう」 
    そのガスをつかった誰かは、風の行き着く先にたどり着けたのだろうか。
    それとも出口のないウロボロスの蛇の輪に囚われてしまっただろうか。 
    僕は今日一日、西へ東へと駆けずり回った街を感慨深く眺める。
    この高さから夜の底を見下ろすと、地上のすべては箱庭のように見えた。現実感がない。 
    さっきまであそこで這いずり回っていたのに。急に得た神の視点に、頭のどこかが戸惑っているのかも知れない。 
    「で、このあと、どうなるんです」 
    なにも解決などしていなかった。それでもここでただこうしているだけだ。もう僕はすべてを師匠に委ねていた。 


    あの後、僕らはビルを離れ、師匠の秘密基地へ向かった。ドブ川のそばに立っている格安の賃貸ガレージだ。
    部屋の中に置けない怪しげな収集物はそこに隠しているらしい。 
    シャッターを上げると、かび臭い匂いが鼻をついた。
    そして、感じられる人には感じられる、凄まじい威圧感がその中から滲み出していた。 
    その空気の中へ、どれで行くかな、などと鼻歌でも歌う調子で足を踏み入れた師匠はしばらくゴソゴソとやっていたかと思うと、一つの箱を持ってガレージの外に出てきた。 
    やっぱりこれだな。 
    そしてなにごとか呟いて、箱に施されていた細い縄の封印を解いた。呟いたのは、短い呪い言葉のようだった。 
    箱の中から現れたのは仮面だった。鬼のような顔をした古そうな仮面だったが、どこかのっぺりとしていた。 
    だがそのときの僕は、もっととてつもないものが現れたのだと思った。
    恐ろしさや、忌々しさ、無力感や、憤怒、そして嘆き。そうしたものが凝縮されたもの。 
    なにか、災害のようなものが現れたのだと。 
    身体が硬直して動けない僕を尻目に、師匠はその仮面の頭部に手をやり、そこに生えていた毛を一本毟り取った。 
    そう。その仮面には髪の毛が生えていた。
    いや、髪の毛というより、その部分の皮膚が仮面に張り付いて、剥がすときに肉ごとこそげ落ちてしまったかのようだった。 


    231 風の行方 後編 ◆oJUBn2VTGE ウニ New!2012/05/19(土) 23:32:01.44ID:13YZ4scB0
    髪は仮面の裏側にこびり付いた赤黒い肉から生えていた。 
    これでいい。 
    師匠はそう言ってまた仮面を箱に戻し、引き抜いた髪の毛だけをハンカチに包んで、行こう、と言った。 
    それから師匠はまた市街地に戻り、強い風が吹いている場所に立ってニヤリと笑ってみせた。 
    日は落ちて、街には人工の明かりが順々に灯っていた。 
    目深に被ったキャップの下の目が妖しく輝いている。 
    どうすると思う? 
    もう分かった。師匠がなにをするつもりなのか。 
    こうするんだ。 
    そう言ったかと思うと、ハンカチから出したさっきの髪の毛をそっと指から離した。
    それは風に乗り、あっと言う間に見えなくなってしまった。風の唸る音が、耳にいつまでも残っているような気がした。 


    「あの仮面は、なんだったんです」 
    風の舞う深夜のビルの屋上でフェンスを挟んで座り、僕はぽつりと漏らした。
    聞けばゾッとさせられるのは間違いないだろう。しかし聞かずにもいられなかった。 
    「あの面か」 
    むき出しの足を屋上からはみ出させ、前後にぶらぶらと揺らしながら師匠は教えてくれた。 
    「金春(こんぱる)流を知ってるか」 
    曰く、能の流派の一つで、主に桃山時代に豊臣秀吉の庇護を受けて全盛期を迎え、一時代を築いた家なのだという。 
    現代でも続くその金春流は、伝承によると聖徳太子のブレーンでもあった渡来人の秦氏の一人が伝えたものだと言われ、非常に古い歴史を持っている。 
    その聖徳太子が神通力をもって天より降ろし、金春流に授けたのが「天之面」と呼ばれる面だ。
    その後、その面は金春家の守護神として代々大切に祀られ、箱に納めた上に注連縄を張り、金春家の土蔵に秘されていたという。 
    天之面は恐ろしい力を持ち、様々な天変地異を起こしたと伝えられている。
    人々はその力を畏怖し、厳重に祀り、「太夫といえども見てはならぬ」と言われたほどであった。 
    享保年間の『金春太夫書状』によれば、「世間にておそろし殿と申す面也」とされている。 

    232 風の行方 後編 ◆oJUBn2VTGE ウニ New!2012/05/19(土) 23:34:55.04ID:13YZ4scB0
    また、「能に掛け申す面にては御座(イ)無く候」とも記されているとおり、能の大家の守護神たる面にもかかわらず、能を演じるときに被られることはなく、ただ秘伝である『翁』の技を伝授された太夫のみが一代に一度のみ見ることを許されたという。 
    それは「鬼神」の面とも、「翁」の面とも言われているが、正体は謎のままである。
    時代の下った現代では大和竹田の面塚に納められているとも言われるが、その所在は判然としていない。 
    その「おそろし殿」と呼び畏れられた面が。「太夫といえども見てはならぬ」と称された面が…… 
    「ちょっと、まってください」 
    ようやく口を差し挟んだ。 
    師匠は僕の目を見つめ返す。 
    「あの面には、その、肉が。ついていました」 
    能を演じる際に掛ける面ではない、と言われているのに、あきらかに誰かが被った痕跡があった。
    いや、それ以前に、それほど古い面ならば、人間の肉など風化して崩れ落ちていてしかるべきではないか。 
    「ニンゲンの肉ならな」 
    師匠は口元に小さく笑みを浮かべる。 
    いや、そもそも、どうしてそんな面を師匠が持っているのだ。 
    「話せば長くなるんだが。まあ簡単に言うと、ある人からもらったんだ」 
    「誰です」 
    「知らないほうがいいな」 
    そっけない口調で、つい、と視線を逸らされた。 
    なんだか恐ろしい。 
    恐ろしかった。 
    その面はただごとではない。自分自身がそれを見た瞬間に「災害のようなもの」と直感したことを思い出した。 
    そして次に、師匠がその面の裏に張り付いた肉から抜き取った髪の毛を、風の中に解き放ったときの光景が脳裏に蘇る。
    そのときの、風の唸り声も。 
    ゾクゾクと寒気のする想像が頭の中を駆け巡る。 
    髪の毛は風に乗って宙を舞い、街中を飛び続ける。まるで巨大ななにかが深く吸う息に、手繰り寄せられるように。 
    やがて髪の毛は誰かの手元にたどり着く。そして人間を模したヒトガタの奥深くに埋められる。
    それを害することで、その髪の持ち主を害しようとする、昏い意思が漏れ出す。 
    そして…… 
    二十分か、三十分か。沈黙のうちに時間が経った。 

    233 風の行方 後編 ラスト ◆oJUBn2VTGE ウニ 今夜は終わりNew! 2012/05/19(土) 23:37:16.82ID:13YZ4scB0
    深夜ラジオの音と、轟々という風の音だけが響く高層ビルの屋上で、僕はふいにその叫びを聞いた。 

    h ―――――――――………………

    声にならない声が、夜景の中に充満して、そして弾けた。断末魔の叫びのようだった。 
    その余韻が消え去ったころ、恐る恐る街を見下ろすと、遥か地上ではなにごともなかったかのように車のヘッドライトが、連なる糸となって流れていた。 
    きっとあの叫び声が、悲鳴が、聞こえたのはこの街でもごくひと握りの人間たちだろう。
    その人間たちは昼間の太陽の下よりも、暗い夜の中にこそ棲む生き物なのだ。 
    自分と、師匠のように。 
    「結局、曽我ナントカだったのか、別の誰かだったのか分からなかったな。
    黒魔術だか、陰陽道だか、呪禁道だか知らないが、たいしたやつだよ」 
    その夜の側から、師匠が言葉を紡ぐ。 
    「だけど」 
    相手が悪かったな。なにしろ国宝級に祟り神すぎるやつだ。 
    ひそひそと、誰に聞かせるでもなく囁く。 
    僕はその横顔を金網越しに見つめていた。落ちたら助からない高さに腰をかけ、足をぶら下げているその人を。 
    その左目の下あたりからは、いつの間にかぽろぽろと光の雫がこぼれている。
    そしてその雫は高いビルの屋上から、海のような暗い夜の底へと音もなくゆっくりと沈んでいく。 
    この世のものとは思えない幻想的な美しさだった。 
    われ知らず、僕はその光景に重ね合わせていた。見たこともないはずの、鷹の涙を。
    あるいは、夜行性の鳥類の涙…… 例えば、フクロウの流すそれを。 

    気がつくと、風はもう止んでいた。 

    (完) 

    1 風の行方 ◆oJUBn2VTGE ウニ New!2012/05/11(金) 21:09:55.96ID:wBpB+Oun0
    師匠から聞いた話だ。 


    大学二回生の夏。風の強い日のことだった。 
    家にいる時から窓ガラスがしきりにガタガタと揺れていて、嵐にでもなるのかと何度も外を見たが、空は晴れていた。
    変な天気だな。そう思いながら過ごしていると、加奈子さんという大学の先輩に電話で呼び出された。 
    家の外に出たときも顔に強い風が吹き付けてきて、自転車に乗って街を走っている間中、ビュウビュウという音が耳をなぶった。 
    街を歩く女性たちのスカートがめくれそうになり、それをきゃあきゃあ言いながら両手で押さえている様子は眼福であったが、地面の上の埃だかなんだかが舞い上がり顔に吹き付けてくるのには閉口した。 
    うっぷ、と息が詰まる。 
    風向きも、あっちから吹いたり、こっちから吹いたりと、全く定まらない。台風でも近づいてきているのだろうか。
    しかし新聞では見た覚えがない。天気予報でもそんなことは言っていなかったように思うが…… 
    そんなことを考えていると、いつの間にか目的の場所にたどり着いていた。 
    住宅街の中の小さな公園に古びたベンチが据えられていて、そこにツバの長いキャップを目深に被った女性が片膝を立てて腰掛けていた。 
    手にした文庫本を読んでいる。その広げたページが風に煽られて、舌打ちをしながら指で押さえている。 
    「お、来たな」 
    僕に気がついて加奈子さんは顔を上げた。Tシャツに、薄手のジャケット。そしてホットパンツという涼しげないでたちだった。 
    「じゃあ、行こうか」 
    薄い文庫本をホットパンツのお尻のポケットにねじ込んで立ち上がる。 
    彼女は僕のオカルト道の師匠だった。そして小川調査事務所という興信所で、『オバケ』専門の依頼を受けるバイトをしている。 
    今日はその依頼主の所へ行って話を聞いてくるのだという。 
    僕もその下請けの下請けのような仕事ばかりしている零細興信所の、アルバイト調査員である師匠の、さらにその下についた助手という、素晴らしい肩書きを持っている。 
    あまり役に立った覚えはないが、それでもスズメの涙ほどのバイト代は貰っている。 

    184 風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE ウニ 前編つけ忘れ・・・ New! 2012/05/11(金) 21:12:15.96 ID:wBpB+Oun0
    具体的な額は聞いたことがないが、師匠の方は鷹だかフクロウだかの涙くらいは貰っているのだろうか。 
    「こっち」 
    地図を手書きで書き写したような半紙を手に住宅街を進み、ほどなく小洒落た名前のついた二階建てのアパートにたどり着いた。 
    一階のフロアの中ほどの部屋のドアをノックすると、中から俯き加減の女性がこわごわという様子で顔を覗かせる。 
    「どうもっ」 
    師匠の営業スマイルを見て、少しホッとしたような表情をしてチェーンロックを外す。そしておずおずと部屋の中に通された。 
    浮田さんという名前のその彼女は、市内の大学に通う学生だった。三回生ということなので、僕と師匠の中間の年齢か。 
    実は浮田さんは以前にも小川調査事務所を通して、不思議な落し物にまつわる事件のことを師匠に相談したことがあったそうで、その縁で今回も名指しで依頼があったらしい。 
    道理で気を抜いた格好をしているはずだ。 
    ただでさえ胡散臭い「自称霊能力者」のような真似事をしているのに、お金をもらってする仕事としての依頼に、いかにもバイトでやってますとでも言いたげなカジュアル過ぎる服装をしていくのは、相手の心象を損ねるものだ。 
    少なくとも初対面であれば。 
    師匠はなにも考えてないようで、わりとそのあたりのTPOはわきまえている。 
    「で、今度はなにがあったんですか」 
    リビングの絨毯の上に置かれた丸テーブルを囲んで、浮田さんをうながす。 
    学生向きの1LDKだったが、家具が多いわりに部屋自体は良く片付けられていて、随分と広く感じた。
    師匠のボロアパートとは真逆の価値観に溢れた部屋だった。 
    「それが……」 
    浮田さんがポツポツと話したところをまとめると、こういうことのようだ。 


    彼女は三年前、大学入学と同時に演劇部に入部した。高校時代から、見るだけではなく自分で演じる芝居が好きで、地元の大学に入ったのも、演劇部があったからだった。 
    定期公演をしているような実績のあるサークルだったので部員の数も多く、一回生のころはなかなか役をもらえなかったが、くさらずに真面目に練習に通っていたおかげで二回生の夏ごろからわりと良い役どころをやらせてもらえるようになった。 

    185 風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE ウニ 前編つけ忘れ・・・ New! 2012/05/11(金) 21:15:08.37 ID:wBpB+Oun0
    三回生になった今年は、就職活動のために望まずとも半ば引退状態になってしまう秋を控え、言わば最後の挑戦の年だったのだが、下級生に実力のある子が増えたせいで、思うように主役級の役を張れない日々が続いていた。 
    下級生だけのためではなく、本来引退しているはずの四回生の中にも、就職そっちのけで演劇に命を賭けている先輩が数人いたせいでもあった。 
    都会でやっているような大手の劇団に誘われるような凄い人はいなかったのだが、バイトをしながらでもどこかの小劇団に所属して、まだまだ自分の可能性を見極めたい、という人たちだった。 
    真似はできないが、それはそれで羨ましい人生のように思えた。 
    そしてつい三週間前、文化ホールを借りて行った三日間にわたる演劇部の夏公演が終わった。 
    同級生の中には自分と同じように秋に向けてまだまだやる気の人もいたが、これで完全引退という人もいた。 
    年々早くなっていく就職活動のために、三回生とってはこの夏公演が卒業公演という空気が生まれつつあった。 
    だが、彼女にとって一番の問題は、就職先も決まらないまま、まだズルズルと続けていた四回生の中の、ある一人の男の先輩のことだった。 
    普段からあまり目立たない人で、その夏公演でも脇役の一人に過ぎず、台詞も数えるくらいしかなかったのだが、卒業後は市内のある劇団に入団すると言って周囲を驚かせていた。 
    誰も彼が演劇を続けるとは思っていなかったのだ。同時に、区切りとしてこれで演劇部からは引退する、とも。 
    その人が、夏公演の後で彼女に告白をしてきたのだ。 
    ずっと好きだったと。 
    なんとなくだが、普段の練習中からも粘りつくような視線を感じることがあり、それでいてそちらを向くと、つい、と目線を逸らす。そんなことがたびたびあった。いつも不快だった。気持ちが悪かった。 
    その男が、今さら好きだったなんて言ってきても、返事は決まっていた。 
    はっきりと断られてショックを受けたようだったが、しばらく俯いていたかと思うと、蛇が鎌首をもたげるようにゆっくりと顔を上げ、ゾッとすることを言ったのだ。 
    『髪をください』 
    口の動きとともに、首が頷きを繰り返すように上下した。 

    186 風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE ウニ New!2012/05/11(金) 21:17:21.65ID:wBpB+Oun0
    『せめて、思い出に』 
    そう言うのだ。大げさではなく、震え上がった。 
    「いやですよ。髪は女の命ですから」 
    と、最初は冗談めかしてごまかそうとしたが、それで乗り切れそうな気がしないことに気づき、やがて叫ぶように言った。 
    「やめてください」 
    男は怯んだ様子も見せず、同じ言葉を繰り返した。そして『一本でもいいんです』と懇願するような仕草を見せた。 
    彼女は「本当にやめてください」と言い捨てて、その場を逃げるように去ったが、追いすがってはこなかった。 
    しかしホッとする間もなく、それから大学で会うたびに髪の毛を求められた。『髪をください』と、ねとつくような声で。 
    彼と同じ四回生の先輩に相談したが、男の先輩は「いいじゃないか、髪の毛の一本くらい」と言って、さもどうでもよさそうな様子で取り合ってくれず、女の先輩は 
    「無駄無駄。あいつ、思い込んだらホントにしつこいから。まあでも髪くらいならマシじゃない? 変態的なキャラだけど、そこからエスカレートするような度胸もないし」と言った。 
    以前にも演劇部の女の同級生に言い寄ったことがあったらしいのだが、その時も相手にされず、それでもめげないでひたすらネチネチと言い寄り続けて、とうとうその同級生は退部してしまったのだそうだ。 
    ただその際も、家にまで行くストーカーのような真似や乱暴な振る舞いに出るようなことはなかったらしい。 
    そんな話を複数の人から聞かされ、今回はその男の方が演劇部から引退するのだし、髪の毛だけで済むのならそれですべて終わりにしたい。そう思うようになった。 
    それで済むうちに…… 
    そしてある夜、寝る前にテレビを消した時、その静けさにふいに心細さが込み上げてきて、「よし、明日髪の毛を渡そう」と決めたのだった。 
    しかし、いざハサミを手に持ってもう片方の手で髪の毛の一本を選んで掴み取ると、これからなにか大事なものを文字通り切り捨ててしまうような感覚に襲われた。 
    一方的な被害者の自分が、どうしてこんなことまでしなければならないのか。 
    そう思うと、ムカムカと怒りがこみ上げてきた。 

    187 風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE ウニ New!2012/05/11(金) 21:18:48.09ID:wBpB+Oun0
    そうだ。なにも自分の髪の毛でなくとも良いのだ。同じくらいの長さだったら、誰のだろうがどうせ分かりっこない。 
    そう思ったとき目に入ったのが、部屋の衣装箪笥の上に飾っていた日本人形だった。 
    子どものころに親に買ってもらったその人形は、今でもお気に入りで、この下宿先まで持ち込んでいたのだった。状態も良く、いつか自分が着ることを夢見た綺麗な着物を清楚にまとっていた。 
    そっとその髪に手を触れると、滑らかな感触が指の腹を撫でた。確か本物の人毛を一本一本植え込んでいると、親に聞かされたことがあった。 
    これなら…… 
    そう思って、摘んだ指先に力を込めると一本の長い艶やかな髪の毛が抜けた。
    根元を見ると、さすがに毛根はついていなかったが、あの男も「抜いたものを欲しい」なんて言わなかったはずだ。 
    少し考えて、毛根のないその根元をハサミで少しカットした。これで生えていた毛を切ったものと同じになったし、長さも彼女のものより少し長めだったのでちょうど良い。 
    黒の微妙な色合いも自分のものとほとんど同じように見えた。 
    それも当然だった。両親は彼女の髪の色艶と良く似た人形を選んで買ってくれたのだから。 
    次の日、男にその髪の毛を渡した。ハンカチに包んで。 
    「そのハンカチも差し上げますから、もう関わらないでください」と言うと、思いのほか素直に頷いて、ありがとう、と嬉しそうに笑った。 
    最後のその笑顔も、気持ちが悪かった。カエルか爬虫類を前にしているような気がした。
    袈裟まで憎い、という心理なのかも知れなかったが、もう後ろを振り返ることもなく足早にその場を去った。
    すべて忘れてしまいたかった。 
    それから数日が経ち、その男も全く彼女の周囲に現れなくなっていた。 
    本人の顔が目の前にないと現金なもので、たいした実害もなかったことだし、だんだんとそれほど悪い人ではなかったような気がしはじめていた。 
    そして、メインメンバーの一部が抜けた後の最初の公演である、秋公演のことを思うと、自然と気持ちが切り替わっていった。 
    そんなある日、夜にいつものように部屋でテレビを見ている時にそれは起こった。 
    バラエティ番組が終わり、十一時のニュースを眺めていると、ふいに部屋の中に物凄い音が響いた。 
    なにか、硬い家具が破壊されたような衝撃音。 

    188 風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE ウニ New!2012/05/11(金) 21:20:52.18ID:wBpB+Oun0
    心臓が飛び上がりそうになった。うろたえながらも部屋の中の異常を探そうと、息を飲んで周囲に目をやる。 
    箪笥や棚からなにか落ちたのだろうかと思ったが、それらしいものが床に落ちている痕跡はない。
    そしてなにより、そんなたかが二メートル程度の高さから物が落ちたような生易しい音ではなかった。 
    もっと暴力的な、ゾッとする破壊音。 
    それきり部屋はまた静かになり、テレビからニュースキャスターの声だけが漏れ出てくる。 
    得体の知れない恐怖に包まれながら、さっきの音の正体を探して部屋の中を見回していると、ついにそれが目に入った。 
    人形だ。箪笥の上の日本人形。艶やかな柄の着物を着て、長い黒髪をおかっぱに伸ばし、…… 
    その瞬間、体中を針で刺されるような悪寒に襲われた。 
    悲鳴を上げた、と思う。人形は、顔がなかった。 
    いや、顔のあった場所は粉々にくだかれていて、原型をとどめていなかった。
    巨大なハンマーで力任せに打ちつけたような跡だった。まるで自分がそうされたような錯覚に陥って、ひたすら叫び続けた。 


    浮田さんは語り終え、自分の肩を両手で抱いた。見ているのが可哀そうなくらい震えている。 
    「髪か」 
    師匠がぽつりと言った。 
    ゾッとする話だ。もし、彼女が自分の髪を渡していたら…… そう思うと、ますます恐ろしくなってくる。 
    なぜ彼女がそんな目に遭わなくてはいけないのか。その理不尽さに僕は軽い混乱を覚えた。 
    その時、頭に浮かんだのは『丑の刻参り』だった。
    憎い相手の髪の毛を藁人形に埋め込んで、夜中に五寸釘で神社の神木に打ち付ける、呪いの儀式だ。 
    藁人形を相手の身体に見立て、髪の毛という人体の一部を埋め込むことで、その人形と相手自身との間に空間を越えたつながりを持たせるという、類感呪術と感染呪術を融合させたジャパニーズ・トラディショナル・カース。 
    しかしその最初の一撃が、顔が原型を留めなくなるような、寒気のする一撃であったことに、異様なおぞましさを感じる。 

    189 風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE ウニ New!2012/05/11(金) 21:22:43.12ID:wBpB+Oun0
    「その後は?」 
    師匠にうながされ、浮田さんはゆっくりと口を開く。 
    「なにも」 
    その夜は、それ以上のことは起こらなかったそうだ。
    壊された人形はそのままにしておく気になれず、親しい女友だちに捨ててきてもらった。 
    怖くて一歩も家を出ることができなかったが、その友人を通してあの男が大学にも姿を現していないことを聞いた。 
    もしあいつが、渡したのが人形の髪の毛だったことに気づたら、と思うと気が狂いそうになった。
    もう私は死んだことにしたい、と思った。実際に、友人に対してそんなことを口走りもした。 
    私が死んだと伝え聞けば、あいつも満足してすべてが終わるんじゃないかと、そう思ったのだ。 
    喋りながら浮田さんは目に涙を浮かべていた。 
    「わたしにどうして欲しい?」 
    師匠は冷淡とも言える口調で問い掛ける。締め切った部屋には、クーラーの生み出す微かな気流だけが床を這っていた。 
    「助けて」 
    震える声が沈黙を破る。 
    師匠は「分かった」とだけ言った。 

                ◆ 

    僕と師匠はその足で、近所に住んでいた浮田さんの友人の家を訪ねた。頼まれて人形を捨てに行った女性だ。 
    彼女の話では、人形は本当に顔のあたりが砕けていて、巨大なハンマーで力任せに殴ったようにひしゃげていたのだそうだ。
    彼女はその人形を、彼氏の車で運んでもらって遠くの山に捨ててきたと言う。 
    「燃やさなかったのか?」 
    師匠は、燃やした方が良かったと言った。 
    友人は浮田さんと同じ演劇部で、以前合宿をした時に幹事をしたことがあり、その時に作った名簿をまだ持っていた。
    男の名前もその中にあり、住所まで載っていた。 

    190 本当にあった怖い名無しsage New! 2012/05/11(金) 21:24:02.56 ID:N1rxlDzF0
    ¥4 

    191 風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE ウニ New!2012/05/11(金) 21:26:25.78ID:wBpB+Oun0
    「曽我タケヒロか」 
    師匠はその住所をメモして友人の家を出た。 
    曽我の住んでいるアパートは市内の外れにあり、僕は師匠を自転車の後ろに乗せてすぐにそこへ向かった。 
    アパートはすぐに分かり、表札のないドアをノックしていると、隣の部屋から無精ひげを生やした男が出てきて、こう言った。 
    「引っ越したよ」 
    「いつですか」 
    ぼりぼりと顎を掻きながら「四、五日前」と答える。ここに住んでいたのが、曽我という学生だったことを確認して、引越し先を知りたいから大家はどこにいるのかと重ねて訊いた。 
    すると、その隣人は「なんか、当日に急に引っ越すからって連絡があって、敷金のこともあるのに引越し先も言わないで消えた、って大家がぶつぶつ言ってたよ」と教えてくれた。 
    四、五日前か。ちょうど人形の事件があったころだ。その符合に嫌な予感がし始めた。 
    礼を言ってそのアパートから出た後、今度はその足で市内のハンコ屋に行った。以前師匠のお遣いに行かされた店だった。 
    師匠は店内にズラリとあった三文判の中から『曽我』の判子を選んで買った。安かったが、領収書をしっかりともらっていた。
    宛名が「上様」だったことから、これからすることがなんとなく想像できた。 
    ハンコ屋を出ると、案の定次の目的地は市役所だった。 
    師匠は玄関から市民課の窓口を盗み見て、僕に「住民票の申請書を一枚とってこい」と言った。 
    言うとおりにすると、今度は建物の陰で僕にボールペンを突きつけ、その申請書の「委任状」の欄を書かせた。
    もちろん委任者は「曽我タケヒロ」だ。 
    そして買ったばかりの判子をついて、「ここで待ってろ」と市民化の窓口へ歩いて行った。 
    そのいかにも物慣れた様子に、興信所の調査員らしさを感じて感心していた。
    なにより、ポケットから携帯式の朱肉が出てきたことが一番の驚きだった。
    前にも持っているところを見たことがあったが、こんなこともあろうかと、いつも持ち歩いているらしい。 
    どっぷり浸かっているな、この世界に。 
    しかしそれさえ、彼女の持つバイタリティの一面に過ぎないということも感じていた。 

    192 風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE ウニ New!2012/05/11(金) 21:28:18.48ID:wBpB+Oun0
    しばらく待っていると、浮かない顔をして戻ってきた。 
    「どうでしたか」と訊くと 
    「駄目だ。こっちに住民票自体移してなかった。蒸発の仕方から、転出届けは出してない可能性が高かったから、住んでたアパートの住民票さえ取れれば、戸籍と前住所が分かって、色々やりようがあったんだけど」 
    師匠はそう言いながら市役所の外へ歩き出す。 
    「大家をつかまえて、アパートに越してくる前の住所を訊き出しますか」 
    「いや、難しいだろう。住民票を市内に移してないということは、遠方の実家に住所を置いたままだった可能性が高い。
    カンだけど、曽我はまだこの街にいる気がする。 
    だから実家を探し出してもやつの足取りをたどれるかどうかは怪しいな。
    ま、逆に実家に帰ってるんだったら、実害はなさそうだ。とりあえず今すべきことは、最悪の事態を想定して、迅速に動くことだな」 
    となると、やっぱり大学と演劇部の連中に訊き込みをするしかないか。 
    師匠は忌々しそうに呟いた。 
    もし曽我がまだその近辺にいるのなら、それではこちらの動きも筒抜けになってしまう可能性があった。 
    「どうすっかなあ」 
    師匠は大げさに頭を両手で掻きながら歩く。 
    クーラーの効いていた市役所の中から出ると、熱気が全身に覆いかぶさってきて、息が詰まるようだった。
    そして太陽光線が容赦なく肌を刺す。 
    しかし、しばらく歩いていると、強い風が吹き付けてきてその熱気が少し散らされた。相変わらず風が強い。
    朝からずっと吹き回っている。 
    「昨日からだよ」 
    と師匠は言った。風は昨日から吹いているらしい。
    そう言えば昨日はほとんど寝て過ごしたので覚えていないが、そうだったかも知れない。 
    「そう言えば昨日、友だちが髪の毛の話をしてましたよ」 
    僕には、男のくせにやたらと髪の毛を伸ばしている友人がいた。
    高校時代からずっと伸ばしているというその髪は腰に届くほどもあって、周囲の女性からは気持ち悪がられていた。 
    本人は女性以上に髪には気を使っているのだが、長いというだけで不潔そうに見えるのだろう。
    だが大学にはそういう髪の長い男は結構多かった。いわゆるオタクのファッションの一類型だったのだろう。 

    193 風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE ウニ New!2012/05/11(金) 21:32:30.07ID:wBpB+Oun0
    その友人が昨日、自分の部屋にガールフレンドを呼んだのだが、あるものを見つけられて詰め寄られたのだという。 
    どうせ他のオンナを部屋に上げていた痕跡を見つけられたという、痴話喧嘩の話だろうと思ってその電話を聞いていると、案の定「髪の毛が部屋に落ちてるのを見つけられたんだ」と言う。 
    ふうん、と面白くもなく相槌を打っていると彼は続けた。 
    「それで詰め寄られたんだ。この短い髪の毛、誰のよ? って」 
    少し噴いた。なるほど、そういうオチか。彼女も髪が長いのだろう。 
    市役所の前の通りを歩きながらそんな話をすると、師匠はさほど面白くもなさそうに「面白いな」と言って、心ここにあらずといった様子でまだ悩んでいた。 
    僕は溜め息をついて、歩きながら自転車のハンドルを握り直す。またじわじわと熱さが増してきた。
    早く自転車にまたがってスピードを出したかった。 
    そう思っていると、また風が吹いてきてその風圧を仮想体験させてくれた。 
    「うっ」 
    いきなり顔になにがか絡み付いてきた。
    虫とか、何だか分からないものが顔にあたったときは、口に入ったわけではなくても一瞬息が詰まる。
    そのときもそんな感じだった。 
    なんだ。 
    顔に張り付いたものを指で摘んだ瞬間、得体の知れない嫌悪感に襲われた。 
    髪の毛だった。 
    誰の? とっさに隣の師匠の横顔を見たが、長さが違う。
    そしてそのとき風は師匠の方からではなく、全然違う方向から吹いていた。 
    髪の毛。 
    髪の毛だ。髪の毛が風に乗って流されてきた。 
    立ち止まった僕を、師匠が怪訝そうに振り返る。そして僕の手に握られたそれを見ると、見る見る表情が険しくなる。 
    「よこせ」 
    僕の手から奪いとった髪の毛に顔を近づけて凝視する。
    それからゆっくりと顔を上げ、水平に首を回して周囲の景色を眺めた。 
    風がまた強くなった。 
    心臓がドクドクと鳴る。偶然だろう。偶然。 

    194 本当にあった怖い名無しsage New! 2012/05/11(金) 21:35:18.80 ID:w/BUYyAYO
    ウニさん(・ω・)! 

    195 風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE ウニ New!2012/05/11(金) 22:06:24.13ID:wBpB+Oun0
    そのとき、近くを歩いていた女子高生たちが悲鳴を上げた。 
    「やだぁ。なにこれぇ」 
    その中の一人が、顔に吹き付けた風に悪態をついている。いや、風に、ではない。その指にはなにかが摘まれている。 
    「なにこれ。髪の毛?」 
    「気持ち悪ぅい」 
    口々にそんなことを言いながら女子高生たちは通り過ぎていった。 
    髪。 
    偶然…… ではないのか。 
    師匠はいきなり自分の服の表面をまさぐり始めた。猿が毛づくろいをしているような格好だ。
    ホットパンツから飛び出している足が妙に艶かしかった。
    しかしすぐにその動きは止まり、腰のあたりについていたなにかを慎重に摘み上げる。 
    そして僕を見た。その指には茶色の髪の毛が掴まれている。 
    反対の手の指にはさっき僕の顔に張り付いた髪の毛。色は黒だ。 
    長さが違う。色も。どちらも師匠とも、僕の髪の毛とも明らかに違っていた。 
    「お前、その友だちの話」 
    「え」 
    「短い髪の毛誰のよ、って怒られた友だちだよ」 
    「はい」 
    「本当に浮気をしていたのか」 
    その言葉にハッとした。浮気なんかしていないはずだ。今の彼女を見つけただけでも奇跡のような男だったから。 
    その部屋に、彼女のでも、自分のでもない短い髪の毛。 
    普通に考えれば誰か他の、男の友人が遊びにきて落としたのだろうと思うところだ。
    しかし、そう連想せずにいきなり詰め寄られたということは、なにか理由があるはずだ。 
    例えば、前の日に二人で部屋の掃除をしたばかりで、友人は誰も訪ねては来ていないはずだったとか。 
    だったらその髪の毛は、どこから? 
    僕は思わず自分の服を見た。隅から隅まで。そして服の表面に絡みついた髪の毛を見つけてしまった。それも三本も。 
    ぞわぞわと皮膚が泡立つ。 

    196 風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE ウニ New!2012/05/11(金) 22:08:29.86ID:wBpB+Oun0
    どれも同じ人間の髪の毛とは思えなかった。
    よく観察すると長さや太さ、色合いがすべて違う。こうして、友人の服についた誰かの髪の毛が、部屋の中に落ちたのか。 
    そう言えば、今日自分の部屋を出たときから顔になにかほこりのようなものが当たって息が詰まることが何度かあった。
    あれはもしかして髪の毛だったのかも知れない。すべて。 
    空は晴れ渡っていて、ぽつぽつと浮かんだ雲はどれもまったく動いていないように見えた。上空は風がないのだろうか。 
    師匠は歩道の真ん中で風を見ようとするように首を突き出して目を見開いた。 
    そしてしばらくそのままの格好でいたかと思うと、前を見たまま口を開く。 
    「髪が、混ざっているぞ」 
    風の中に。 
    そう言って、なんとも言えない笑みを浮かべた。 
    「小物だと思ったけど、これは凄いな。いったいどういうことだ」 
    師匠のその言葉を聞いて、そこに含まれた意味にショックを受ける。 
    「これが、人の仕業だって言うんですか」 
    街の中に吹く風に、髪の毛が混ざっているのが、誰かの仕業だと。 
    僕は頬に吹き付ける風に嫌悪感を覚えて後ずさったが、風は逃げ場なくどこからも吹いていた。
    その目に見えない空気の流れに乗って、無数の誰かの髪の毛が宙を舞っていることを想像し、吐き気をもよおす。 
    「床屋の…… ゴミ箱が風で倒れて、そのままゴミ袋いっぱいの髪の毛が風に飛ばされたんじゃないないですか」 
    無理に軽口を叩いたが、師匠は首を振る。 
    「見ろ」 
    摘んだままの髪の毛を二本とも僕につきつける。よく見ると、どちらにも毛根がついていた。
    慌てて自分の身体についていたさっきの髪の毛も確認するが、そのすべてに毛根がついている。 
    ハサミで切られたものではなく、明らかに抜けた毛だ。 
    確かに通行人の髪の毛が自然に抜け落ちることはあるだろう。それが風に流されてくることも。だが、問題なのはその頻度だった。 
    師匠が、近くにあった喫茶店の看板に近づいて指をさす。
    そこには何本かの髪の毛が張り付いて、吹き付ける風に小刻みに揺れていた。 

    197 風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE ウニ New!2012/05/11(金) 22:11:04.43ID:wBpB+Oun0
    「行くぞ」 
    師匠が僕の自転車の後ろに勢いよく飛び乗った。僕はすぐにこぎ出す。 
    それから二人で、街なかをひたすら観察して回った。
    だが、その行く先々で風は吹き、その風の中には髪の毛が混ざっていた。 
    僕は自転車をこぎながら、混乱していた。今起こっていることが信じられなかった。現実感がない。
    いつの間にか別の世界に足を踏み入れたようだった。
    風は広範囲で無軌道に吹き荒れ、市内の中心部のいたるところで髪の毛が一緒に流されているのを確認した。 
    目の前で風に煽られ、髪の毛を手で押さえる女性を見て、師匠は言った。 
    「この髪の毛、どこからともなく飛んできてるわけじゃないな」 
    通行人の髪が強風に撫でられ、そして抜け落ちた髪がそのまま風に捕らわれているのだ。 
    師匠は被っていたキャップの中に自分の髪の毛を押し込み、僕には近くの古着屋で季節外れのニット帽を買ってくれた。
    もちろん領収書をもらっていたが。 
    師匠に頭からすっぽりとニット帽を被せられ、「暑いです」と文句を垂れると「もう遅いかも知れんがな、顔面を砕かれたくなかったら我慢しろ」と言われた。 
    顔面を? 
    まるであの人形だ。ゾクゾクしながらされるがままになる。 
    「よし」と僕の頭のてっぺんを叩くと、師匠は顔を引き締めた。 
    「追うぞ」 
    「え?」と訊き返すと、「決まってるだろ、髪を、集めてるヤツだ」 
    何を言っているんだ。 
    呆れたように師匠の顔を見ながら、それでも僕は自分の心の奥底では彼女がそう言い出すのを待っていたことに気がついていた。 
    「曽我ですか」 
    「タイミングが合いすぎている。わたしの勘でも、これは偶然じゃない」 
    想い人である浮田さんの髪を手に入れ損ねた男が、騙されたことに怒り狂い、無差別に人の髪の毛をかき集めている、そんな狂気の姿が頭に浮かんだ。浮田さんは家に閉じこもっていて正解だったのだろう。 
    しかし、丑の刻参りだけならまだしも、こんなありえない凄まじい現象を、ただの大学生が起こしているというのか。 

    198 風の行方 前編 ラスト  ◆oJUBn2VTGE ウニ また来週 New! 2012/05/11(金) 22:14:41.76 ID:wBpB+Oun0
    「いや、分からん。曽我は浮田の髪の毛を手に入れたが、それが誰か他のやつの手に渡った可能性はある」 
    「他のやつって?」 
    「……」 
    師匠は少し考えるそぶりを見せて、慎重な口調で答えた。 
    「どうもこのあいだから、こんなことが多い気がする」 
    このあいだって。 
    口の中でその言葉を反芻し、自分でも思い当たる。
    師匠が少し前に体験したという、街中を巻き込んだ異変のことだ。
    僕も妙な事件が続くなあ、と思ってはいたがその真相にたどり着こうなどとは考えつかなかった。
    その後も師匠にはそのことでしつこく詰られていた。 
    こういう大規模な怪現象が立て続くことに、師匠なりの警戒感を覚えているらしい。
    その怪現象のベールの向こうに、なにか恐ろしいものの影を感じ取っているかのようだった。 
    「どうやって追うんです」 
    少し上ずりながら僕がそう問うと、師匠は自分の人差し指をひと舐めし、唾のついたその指先を風に晒した。
    風向きを知るためにする動作だ。 
    「風を追う」 
    風が人々の髪の毛を巻き込みながら、街中を駆け回り、そしてその行き着く先がどこかにあると言っているのだ。 
    「でもこんなにバラバラに吹いてるのに」 
    「バラバラじゃない。確かに東西南北、どの方角からも風が吹いている。
    でも一つの場所では必ず同じ向きに風が吹いている」 
    師匠のその言葉に、思わず「あっ」と驚かされた。言われてみると確かにそうだったかも知れない。 
    「迷路みたいに入り組んでいても、目に見えない風の道があるんだ」 
    そうじゃなきゃ、髪を集められない。 
    そう言って師匠は僕の自転車の後輪に足を乗せ、行き先を示した。つまり、風が向かう方向だ。 
    ゾクゾクと背筋になにかが走った。恐怖ではない。感心でもない。
    畏敬という言葉が近いのか。この人は、こんなわけのわからない出来事の根源に、たどり着いてしまうのだろうか。 
    力強く肩を掴まれ、「さあ行け」という言葉が僕の背中を叩いた。 

    1 M.C.D. ◆oJUBn2VTGE ウニ New!2012/01/02(月) 23:40:12.97ID:93PkLSJW0
    師匠から聞いた話だ。 


    大学一回生の夏だった。 
    午前中の講義が終わり、大学構内の喫茶店の前を通りがかった時、僕のオカルト道の師匠が一人でテーブル席に陣取り、なにやら難しい顔をしているのが目に入った。 
    「なにを見てるんですか」 
    近づいて話かけると、手にした紙切れを天井の蛍光灯にかざして見上げるような仕草をする。 
    「どうしようかと思ってな」 
    つられて僕も姿勢を低くして下から覗き込むと、どうやらなにかのチケットのようだ。
    横を向いた髑髏のマークが全面に描かれている。 
    「M.C.D.……?」 
    髑髏の中にそんな文字が見えた。 
    師匠が口を開く。 
    「『モーター・サイクル・ダイアリーズ』だってよ。アマチュアバンドだよ」 
    地元バンドのライブチケットか。 
    師匠がそんなものを持っているのは意外な気がした。 
    「もらったんだ」 
    そう言ってチケットをひらひらさせる。「行こうかどうしようか迷っててな」 
    「知り合いでもいるんですか」 
    そう訊ねると、「ああ」と言ってチケットを睨んでいる。 
    そのバンドのメンバーからもらったもののようだった。ライブ自体にはあまり興味がなさそうで、もらった手前、義理で行くべきかどうか迷っている、というところか。 
    「何系のバンドなんですか」 
    髑髏の絵でなんとなく想像はついたが、一応訊いてみると「パンク」という答えが返ってきた。 
    なるほど。 
    「前に聴きに行った時は、もうなんていうかシッチャカメッチャカになってな。なんていうんだ、あれ。おしくら饅頭みたいな」 
    モッシュか。 
    僕もほとんどライブなどには行かないので良く知らないのだが、客がノリノリで暴れまわるようなライブハウスだとそんなことが起こるらしい。 

    363 M.C.D. ◆oJUBn2VTGE ウニ New!2012/01/02(月) 23:41:13.90ID:93PkLSJW0
    「あれで懲りたんだよな」 
    かなりハードなバンドのようだ。 
    チケットを手にとって良く見せてもらったが、ライブは今日の十九時スタートとなっている。もう当日ではないか。 
    しかしその日時よりも、会場となっているライブハウスの名前を見て、僕はなにか引っかかるものを感じた。
    行ったことはないのだが、最近その名前をどこかで耳にしたような気がするのだ。 
    「どうかしたのか」 
    しばらくチケットとにらめっこをしていると、ようやく思い出した。 
    「あ、ここ、あれですよ。最近幽霊が出るって噂のライブハウスですよ」 
    「なに?」 
    師匠の目が急に輝き始めた。 
    「研究室の先輩が言ってたんですけど、マジで出るらしいです」 
    そう言った途端に、師匠がひったくるように僕からチケットを取り返した。 
    「じゃあ、そう言うことで」 
    そしてそのまま席を立とうとした。 
    「ちょっと待ってくださいよ。行くんですか」 
    「行く」 
    「聴きに?」 
    「見に」 
    やっぱり。 
    師匠は俄然やる気が出たというように大袈裟に腕を回しながら「ようし。おしくら饅頭用の服に着替えてこないとな」と言った。 
    ことお化けが絡むと本当にイキイキとしてくるから不思議なものだ。 
    「僕も一緒に行って良いですか」 
    「いいけど、チケット一枚しかないよ」 
    チケットには前売り千二百円、当日千五百円と書いてあった。プロのアーティストのコンサートに比べれば安いものだ。 
    「自分で出しますから」 
    「そうか。御主もスキモノよの」 

    364 M.C.D. ◆oJUBn2VTGE ウニ New!2012/01/02(月) 23:44:07.07ID:93PkLSJW0
    師匠は上機嫌で集合時間を決めて、「遅れんなよ」と言った。 


    陽が落ち始めた路上で、僕はライブハウスの外観をぼんやりと見ていた。 
    入り口のあたりには、ライブ情報などのポスター類が所狭しと張り出され、何度も剥がしたような跡がそこかしこに汚らしく残っていて、けっして悪い意味ではなくなかなか雰囲気のある趣だった。 
    さっきまで路上にたむろしていた大勢の若者たちが、十八時三十分のオープンと同時にその箱の中に次々と吸い込まれて行き、そんなに沢山入れるのかと心配になった。 
    時計を見ると、あと十分で開演だ。あんなことを言っていた師匠の方が遅刻しているじゃないか。 
    満員で入れなくなったらどうしてくれるんだろう。 
    対バンではなく、ワンマンライブだという時点でそこそこ人気のあるバンドなんだろうとは想像できたが、こんなに客がいるとは思わなかった。 
    結局、師匠がライブハウスの前に姿を現したのは開演五分前になってからだった。何故か手にはわたあめを握っている。 
    「どこでそんなもの買ったんですか」 
    「うん」 
    答えになっていないが、とにかくわたあめを食べ終わり、割り箸を入り口のそばの灰皿兼ゴミ箱に投げ込んで、「じゃあ行くぞ」と言う。 
    なんてマイペースな人だ。尊敬してしまう。 
    ドアの中に入ると、なんとも言えない喧騒が耳に飛び込んできた。ああ、ライブハウスだなあ、という至極当たり前の感想が浮かぶ。 
    師匠が受付でチケットを渡すと、ドリンク代が別に五百円かかると言われ、「込みじゃないのか」とごねたがダメだったようだ。
    しぶしぶといった様子で五百円玉を出し、ドリンクチケットを受け取った。 
    僕の方は当日券とドリンク代で合計二千円を支払った。映画を観に行くことを思えばこんなものか、という気もする。 
    受付のすぐそばで物販をやっており、『M.C.D.』のロゴが入ったTシャツが売られていた。 
    こういう物販はもっとメジャーなアーティストがライブをする時に売っているものだと思っていた。
    地元のアマチュアバンドのはずのなのに、自分たちで作ったのだろうか。 
    「おい、もう始まるぞ」 
    師匠はさっそくドリンクカウンターで交換したビールを片手に、会場の方へ向かおうとしていた。 


    365 M.C.D. ◆oJUBn2VTGE ウニ New!2012/01/02(月) 23:46:31.10ID:93PkLSJW0
    しかし会場内はあまり広くなく、客でごった返しており、飲み物を手にした状態であの中へ入って行くのは危険な感じがした。 
    カウンターの中の人に訊くとライブ終了後でもドリンクは交換できるというので、僕はとりあえず後にして師匠を追った。 
    ライブハウスなので当然オールスタンディングだったが、前の方は特に人口密集地帯となっており、今からあそこへ潜り込むのは至難の業のようだった。 
    「前回はかなり前の方に並んでたから、人の波に乗って最前列に行ったんだよ。そのせいでおしくら饅頭に巻き込まれたんだ」 
    だから今日は後ろの方でいいや。 
    師匠がそう言った時、会場内の照明が落ちた。と、同時に一斉に大きな歓声が上がった。バンドのメンバーが登場したのだ。 
    背の高い長髪の男が、歩きながらライトを浴びてにこやかに客席に手を振っている。
    他のメンバーもその後について袖から現れたが、揃ってフレンドリーさの欠片もない殺伐とした雰囲気をまとっていた。 
    「あのロンゲがボーカルだ」 
    いかにもそんな感じだ。なかなか男前なのだが、笑顔の下の切れ長の目はどこか冷たく、すべてを見下しているような、そんな印象を受けた。 
    ヤバそうなバンドだ。 
    直感でそう思った。 
    客層もコアな感じで、ごついピアスをしていたり、髪がツンツン立っていたり、鋲打ちのライダージャケットに下はチェーンをジャラジャラ巻いたパンツといういでたちだったりと、やはりパンクファッションをしている人が多かった。 
    そんな中にちらほら高校生らしい制服姿が混ざっている。 
    「どのメンバーが知り合いなんですか」 
    僕が横に向いて訊ねると、師匠は誰かにぶつかられて服の胸のあたりに撒けてしまったビールを「マジか、くそ」とハンカチで拭いているところだった。 
    「強姦殺人前科一犯って感じのやつだよ」 
    俯いて服をこすりながら、前を見もせずにそういう返事が返ってきた。 
    強姦殺人前科一犯か…… 
    「全員やってそうなんですけど」 
    ボーカルの他も、みんな危険な香りが漂っていた。 


    366 M.C.D. ◆oJUBn2VTGE ウニ New!2012/01/02(月) 23:48:14.57ID:93PkLSJW0
    まずギターがスキンヘッドの男で、その深く刻まれた眉間の皺はとても堅気の人には見えなかったし、ベースは顔のほぼ下半分を覆う白いマスクをしている痩せた男。 
    メイクなのかも知れないが、彼には目の辺りに物凄いくまがあり、病的な感じを受けた。
    そしてドラムは鋭い目つきをした筋肉質の大男で、何故か最初から上半身裸だった。 
    首筋に龍のような模様のタトゥーをしている。 
    その彼らに対して集団ヒステリーのような歓声がひたすらぶつけられている。異様な雰囲気だ。 
    「かなり久しぶりのライブらしい。このあたりじゃ伝説のパンクバンドらしいぞ」 
    師匠の耳打ちに返事をしようとするが、あまりの喧騒にかなり顔を近づけないと聞えそうになかった。 
    「仕事なんかしてなさそうなのに、どうして活動してなかったんですか」 
    「あのボーカルとベースが交互に警察のご厄介になってたらしい」 
    警察…… 
    急に身の危険を感じた。この閉鎖空間に満ちる興奮状態に、逆に腹の底が冷えていくような感覚がある。 
    「ボーカルのロンゲは喧嘩っぱやいヤツらしいから、傷害だったかな。ベースのテロリストみたいなマスク野郎はクスリだ」 
    今日もキメて来てるんじゃないか? そんな目つきだ。 
    「あとドラムの放浪癖。この三人のせいで、ほんとにたまにしか活動できてないっぽい」 
    「ギターの人は?」 
    「あのハゲは良い人らしいぞ」 
    このメンバーの中で良い人ポジションということは、その分相当に苦労しているのだろう。
    そう言われてみると眉間の皺は、ヤクザのような凄みというよりは哀愁を漂わせているような気がしてくる。 
    メンバーが全員配置につくと、MCなしでさっそく曲に入った。 
    いきなり目が覚めるような乱れ打ちドラムソロから入り、ボーカルのシャウトと同時にギターが吼えた。 
    そして割れるような歓声。 
    歌は英語だ。知らない曲だったので、オリジナルなのかコピーなのかは分からない。
    観客は前方に殺到し、みんな身を乗り出して、異様な興奮状態だ。
    ステージとの間の鉄柵から無数の手が空間を掴もうとするかのように伸ばされている。 

    367 M.C.D. ◆oJUBn2VTGE ウニ New!2012/01/02(月) 23:50:46.43ID:93PkLSJW0
    僕らは人口密度の低い会場の一番後ろの方にいたのに、それでも周囲で飛び跳ねている人たちに何度も足を踏まれた。
    そのテンションバーストについていけないと、この場から逃げ出したくなってくる。 
    わけの分からないうちに一曲目が終わり、すぐに二曲目が始まった。 
    突き刺さるような激しいギターリフにボーカルの扇情的な声が乗っかり、それに反応した人々と、ホール全体がぐわんぐわんとタテに揺れているような錯覚に陥る。 
    ステージの前はすでにモッシュ状態だ。歓喜の悲鳴なのか、押されて鉄柵に挟まれ痛くて上げている悲鳴なのか分からないが。
    男も女も両手を振り乱して喚いている。 
    「え?」 
    その、押し合い跳び跳ね回っている連中のあいだに、僕はふと違和感のあるものを見た。 
    顔だ。 
    顔が見えた。 
    熱狂の狭間に、張り付いた氷のようなもの。 
    激しく動いている人々の背中と背中の間に、ほんの一瞬こちらを向いている顔を見たのだ。
    それは最前列付近にいるのに、ステージに背を向ける格好で顔をこちらに向けていた。蒼白く、そしてとても冷たい目をしているような気がした。 
    隣の師匠の肘をつつく。 
    なんだか嫌な感じがした。 
    「分かってる」 
    師匠は短くそう言うとビールを飲み干して紙カップを握りつぶした。そして躊躇なく前へ行こうとする。 
    しかし前方には人の壁が出来ており、そこへ身体をねじ込んでいくのは至難の業だ。
    僕も後に続いたが、肘打ちの嵐の中でもみくちゃにされ、ちっとも進めない。 
    割り込みを怒鳴られ、師匠が負けじと怒鳴り返す。 
    足を何度も踏まれた。爪先が痛い。親指の爪が割れたかも知れない。 
    瞬間、ぞくりとした。耳になにか違和感のあるものが入ってきた。 
    歌だ。 
    二曲目も英語の歌だったが、ボーカルの透き通った声に被るように別の歌が聴こえた。 
    周囲の観客も曲に合わせて歌っているが、そんな声とは全く違う。ホールのスピーカーを通した声だ。
    ボーカルの歌と同じ地平の。 
    何小節か後で、また聴こえた。明らかに今のボーカルとは別の声だ。 
    それに少し遅れる形で、ざわっという驚きのような衝動が前方から順に流れてくる。 
    混線? 


    368 M.C.D. ◆oJUBn2VTGE ウニ New!2012/01/02(月) 23:52:32.68ID:93PkLSJW0
    いや、違う。違うと思う。あまりに鮮明な音だからだ。 
    ダーク…… 
    ざわめきの中にそんな悲鳴が聞こえる。のけぞって耳を塞いでいる人もいた。 
    ダーク。 
    すぐ隣の人が呻いた。 
    なんだ、いったい。 
    僕は師匠の方を見た。周囲のタテ乗りが凍りついたように止まり、その人の壁に身体を半分挟まれたまま身動き出来なくなっているようだ。 
    ステージの方に目をやると、ボーカルがきょとんとした顔をしてマイクを口から離した。
    その瞬間、ぞわっとするような得体の知れない声がホール中に響いた。 
    日本語だった。今度は音が割れ、内容はよく聞き取れなかった。 
    恐慌が。 
    起ころうとしていた。それだけは分かる。 
    恐怖に腹の底が冷えた。辺り一面から悲鳴が上がる。わけの分からないままとっさにその場を引こうとする。 
    同じようになにが起こっているのか分からないらしい女性が、隣の連れらしい男の袖を引いている。
    その男は両手を突き出して喚いた。 
    その男や他の周囲の人間の悲鳴を解読すると、その内容はこうだ。 
    レベルダークのボーカルの声が聴こえる。数ヶ月前に泥酔して自動車を運転し、事故を起こして死んだはずの男の声が…… 
    レベルダークというバンドはこのライブハウスのかつての常連で、M.C.D.とも何度か対バンをしていたらしい。
    だが、確かにそのボーカルは死に、とっくに解散してしまっていると言うのだ。 
    いつの間にか曲は止まっている。ステージの上のメンバーたちは戸惑ったように自分たちの周りを見回している。 
    また聴こえた。 
    マイクは驚いたボーカルの手から床に落ちている。なのに歌が聴こえる。 
    悲鳴が連鎖していく。 
    まずい。 
    背筋に冷たいものが走る。この状態でパニックになれば無事では済まない。 
    師匠の服の背中のあたりを掴んで、挟まれた人の壁から引き抜こうとする。早く逃げないと危険だ。焦って指先から布地が抜ける。また掴もうとする。 
    その時だ。 
    ドラムセットに座っていた男が急に立ち上がり、ステージから飛び降りた。 

    369 M.C.D. ラスト ◆oJUBn2VTGE ウニ New!2012/01/02(月) 23:54:48.35ID:93PkLSJW0
    凄い形相で、最前列にいた観客に向かってなにごとか叫ぶ。その剣幕にたじろいでその周辺の人壁が割れた。 
    ドラムの男は鉄柵を越え、そこへ飛び込んでいった。そして人々の群を掻き分けながら斜めに進み、壁際にたどり着いた。
    僕から見て、右手前方だ。 
    その壁際に張り付くように、一人の男性の姿があった。その横顔には見覚えがあった。 
    二曲目の冒頭、あの違和感を感じた時の顔。一人だけステージではなく客席の方を向いていたあの蒼白い顔だ。 
    その顔が一瞬、怯えたように歪む。 
    しかし次の瞬間、その顔があった場所に黒い突風のようなものが叩きつけられた。破壊的な音がして、天井の照明が揺れた。 
    ドラムの男が殴ったのだ。蒼白い顔を。いや、殴ったのは壁だ。顔は消えている。 
    消えた? 
    壁際にいた人間が一人、消えてしまった。 
    いや、人間ではなかったのか。 
    立ち尽くす僕の目の前で、人の群が逆流を始めた。われ先にとみんな出口へ向かって逃げて行く。
    その中でもみくちゃにされながら、僕はなんとかその場に留まろうとする。なにが起こったのか。それが知りたくて。 
    嵐のような時間が過ぎ、気がつくと僕の目の前には師匠の背中があった。 
    もう人の壁はない。 
    師匠はゆっくりと、前方の壁際に進む。 
    「夏雄」 
    そう呼びかけながら。 
    ドラムの男は、自分の右拳を見つめている。拳の先から肘の辺りまで血が滴っている。
    壁にはその破壊の痕跡として大きな穴が残されている。凄まじい光景だった。 
    男は拳から目を離し、師匠を見てにやりと笑う。見上げるような長身だ。
    シャツ一枚身に着けていない上半身には鍛え抜かれた筋肉が張り付いて、蒸気のような汗が立ち上っている。 
    そいつが師匠にチケットを渡した男だ。 
    それが分かった。 
    心臓が冷たく高ぶる。どうしようもなく。 
    こいつに、勝たなくてはならない。 
    僕にはそれが分かったのだった。 

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